第18話 夏の足音
「オープンキャンパス?」
「はい。と言っても、高校生向けではなく小学生が対象なんですが」
梅雨も開け、初夏らしい暑さを感じるようになった六月下旬。
聞き慣れない単語を耳にしたのは、とある日の午後。珍しく講師室に俺と本村さんと雪先生が揃った時のことだ。同じ文学部の講師といえど学科が違えば授業スケジュールも出勤日もまるで違う。どちらかと一緒になることはままあれど、飲み会以外で三人が揃うのは久しぶりのことだった。
本村さんと俺の会話を受け、そうなのよと雪先生がため息を吐く。
「うちの学校が夏休みに毎年行ってるイベントなんだけどね。主催は家政学部と理学部で、付属小の子を集めてお遊戯とか科学実験をさせるんだけど」
「ああ、ありますねそういうの」
俺が居た大学でも毎年夏休みに行われていた気がする。近隣の小学校の子供を集めて電気回路を作ったりペットボトルロケットを飛ばしたり、時には講堂から合唱が聞こえて来たり。大抵その手のイベントに関して文学部にはお呼びがかからないことが多く、手伝いに出向いたりしたこともなかったけれど。
「残念なことに、今年は全学部強制参加なんですって」
「え、文学部もですか」
「でしょうね。発案者は学長らしいから」
ばあちゃん。最近大学で見ないと思ったらなにしてんだあの人。
「なにをやるか決まってるんですか?」
「史学は昨日決まりました。千葉の風土記の丘まで言って発掘体験だそうです」
「英文も会議で決まったわ。子どもたちに衣装を着せて英語劇ですって」
雇われ者である以上、大学の決定に逆らう訳にはいかない。大学全入時代と言われる昨今、こういう地道な啓蒙活動が未来の入学者を増やすのだと言われればグウの音も出ない。
だがしかし、だ。
夏休みを目前にして、教授以下大学の講師というものは俄に忙しさを増す。テストの作成にレポートの設定、秋以降に行われる学会の準備に論文の作成。正直に言って、それ以上に身を裂くことは勘弁してほしいところだったというのが三人の総意だ。
「日文はどうするの?」
「どうするもなにも、その話今日初めて聞きましたし……」
「日文の教授って、あんまりこういうの乗り気じゃなさそうですよね」
「うーん……」
言葉は濁したが、本村さんの言うとおり日本文学科の教授は良くも悪くも個人主義者が多い。トップにいるばあちゃんはじめとしてそれぞれ単独行動を好む自由な人ばかりだ。一堂に介すこと自体が滅多にないのに、いったいどうやってテーマを決めるんだろう。
スピーカーから予鈴の音が響く。間もなく四限だ。俺以外の授業のある二人が慌ただしく準備を始める。
「まぁとりあえず、手近なところで学長に相談してみたら? 言い出しっぺなんだし、なにかしらアイディアはくれるんじゃないかしら」
「そうですよ。光瀬先生が一人で抱え込まなくてもいいと思います」
「はい、そうしてみます。……いってらっしゃい」
いってきますと二人が部屋を出て行って、俺はため息を吐く。
机の上には採点を待っているレポートが数十名分。リソグラフの紙とインクの匂いが鼻を刺す。これが期末になるにつれ増えていくのだ。採点だけなら簡単だろうと思われるかもしれないが、まだまだ構成力に乏しい学生のレポートを採点するのは想像力と精神力が必要になる。序論で既に結論が述べられていたり、結論が全然まとまっていなかったり。『行間を探りながら相手の言いたいことを読みとってあげる力』というのは、偉い先生方の書いた論文を読んでいただけでは得られないのだということを知った。……これプラス、子供のお世話?
「無理だろ、そんなの……」
「なにが?」
突然、頬に冷たい感触がした。
冷たいというかキンキンに冷えたという表現がしっくりくる温度がぐりぐりと押し付けられ、悲鳴を上げる。てっきり兵頭だと思って悪態をつきながら振り返れば、そこに立っていたのは。
「き、北山さん?」
「兵頭さんだと思いましたね、今」
よく確認しなかった俺が悪いが、とてつもなく笑顔が怖い。
「お、思ってません」
「なら私だと認識した上で、なおかつ『てめぇ』呼ばわりだったと」
「思ってましたすみませんでした」
「最初から素直にそう言えばいいのに」
手渡されたのは俺の好きなブラックの缶コーヒーだ。お金を払おうとしたら「援助交際みたい」と心臓に悪いことを言われたので、礼を言って素直に受け取った。
「北山さん、授業は?」
「休講です。先生が学会とかで」
「そっか」
講師室は同じサイズの机が二組ずつ向かい合わせに並んでいて、俺の前は空席になっている。そして、そこはいつのまにか北山さんの特等席になっていた。クラッチバッグの中から次々と取り出されたのは図書館から借りた資料やらコピーした論文やら。必修選択で彼女が選んでいる中世文学演習の発表がもう間近らしい。
レジュメを書き始めた当初は色々と相談を受けたりもしたが、ある程度まで道筋が付いたら彼女は一切俺を頼ろうとはしなくなった。周りは一人でやってるのに私だけ先生に指導されていたら卑怯じゃないですか、という驚くほど正々堂々とした理由。相変わらず真面目で優秀でいじめっ子な、……俺の自慢の生徒だ。
「そういえば、なにが無理なんですか?」
「え、ああ、聞こえた?」
「そりゃあ、あんなに大きな声で独り言を仰っていれば」
「ええと、夏休みに小学生を対象にオープンキャンパスとやらをするらしくって」
「ああ、そうですね。毎年恒例です」
「知ってるの?」
「はい、卒業生ですから」
卒業生? 思いきり首を傾げた俺に、彼女も同じ方向に首を傾げた。
「言ってませんでしたっけ、私、幼稚園の時から帝女です」
「えっ! そうなんだ!」
学校法人帝国女子大学には、大学以外にも附属の幼稚園から高校までの施設が併設されている。幼稚園と小学校は道路を挟んで向かいの敷地、中学高校は郊外のキャンパスに存在していて、入学するのは裕福な家庭の女の子……つまり、いわゆるお嬢様が多いらしい。幼稚園から大学までを帝国女子大学一本で進学した人のことをスーパー内部と呼ぶのだという。女子校出身だとは知っていたが、まさか北山さんがそれに当たるとは。
「夏休みの宿題にオープンキャンパスの感想を書くっていうのがあるんですよ」
「へえ、そうなんだ」
実地もレポートも課せる、附属の大学がある学校ならではの宿題だ。北山さんも小学校時代にこのキャンパスに来て、様々な企画に参加したという。大きなシャボン玉を作ってその中に入るとか、雪の結晶を顕微鏡で観察するとか。懐かしむような思い出話を聞きながら、ふと俺はあることに気が付いた。
「ということは北山さん、ご実家は東京なの?」
ぴく、と彼女の眉が動く。
「……言ってませんでしたっけ」
「うん、初耳。東京のどこら辺?」
「……」
「……あれ?」
普段のような打てば響く返事は返って来ない。なにかまずいことを聞いただろうか。下僕生活も板について、なにを言えば彼女がどういう反応をするか一通り分かっていたつもりだったのだが、沈黙は予想外だった。
「北山さ……」
「先生の恥ずかしい過去を一つ教えてくれたら、教えてあげます」
「は……え?」
「プライバシーですから。交換条件ってことで」
「え、いや、そんな」
「嫌ですか? じゃあ私も教えてあげません」
にっこりと微笑んだ顔には「はいこの話は終わりです」と書いてある。どう考えても『これ以上触れてほしくない』という顕著な反応だった。知りたくないといえば嘘になるけれど、好奇心だけで無理矢理聞き出す度胸も無神経さも、俺は持ち合わせてはいない。レジュメに望む真剣な顔に水を差すことも出来ず、結局そのまま押し黙ることしか出来なかった。
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