第17話 ブリの照り焼き

「遅いです」


 近所のスーパーで買い物を済ませ、大学近くの彼女のマンションを訪れた時にはもう時刻は七時半を廻っていた。

 本日のミッションは、『ブリの照り焼きが食べたいです』。

 指示された時刻よりは遅くなってしまったが、しとしとと降る雨の中、ブリどころかミネラルウォーターやら味噌やら重たいものの買い物も指示されたこちらの身にもなってほしい。玄関先でタオルを受けとり、濡れてしまった身体とスーパーの袋を拭く。

「ごめん。今日、五限まで授業があって」

「その後一時間くらい兵頭さんとお喋りしてたくせに」

「なんで知って」

「兵頭さんがメールで教えてくれました」

 いつの間にメル友に。驚愕と恐怖で顔を引き攣らせると、彼女はさめざめと顔を覆ってみせる。

「お腹が空いた生徒を放っておくなんて、ひどい先生ですね。これ以上お腹が空くと、うっかり携帯を触ってる指が滑っちゃうかも……」

「すみませんすぐに用意させて頂きます」

 袋の中身を取り出し、冷蔵庫に詰める。

 望んではいなくとももう勝手知ったるというやつだ。徐々にこの生活に慣れ始めている自分が怖い。

 易々と男をマンションに上げるなと遠回しに説教をしたこともあったけれど、『えっ先生は男の人なんですか? 大変、じゃあ皆にも教えてあげないと』と物騒なことを言われてジエンド。ちなみに、彼女の家を訪れる時は絶対に女装を解いてはいけないというルールが設けられている。万一知り合いに見られても困らないようにするためだと本人は言っていたけれど、おそらく三割くらいは嫌がらせで間違いない。


「……」

「……なに?」

 なんだか今日はやけに近くで観察されている。ウィッグを借りたシュシュで括り、置かせてもらっているエプロンを身に付けて、ちらりと振り返る。

「いえ、別に。作れるのかなって思って」

「ブリの照り焼き? まあ一応」

「レシピとか、見なくても?」

「うん。そんな難しい料理でもないから」

 ふぅんと相槌を打ち、彼女は居間の方へと戻って行った。

 別段料理がうまいということではないが、九年も一人暮らしをしていればブリの照り焼きくらい簡単に作れるようになるものだ。

 彼女が住んでいる1DKは女の子の部屋にしては殺風景な方だと思う。ぬいぐるみひとつ置いていないし、まだ新築の匂いのする八畳間にあるのはベッドとパソコンと机と本棚だけ。服やらアクセサリーやらはクローゼットに収納されているのだろうが、ごちゃごちゃと物が置いてある俺の部屋とは比べるべくもないくらい片付いている。

「……ねぇ、源氏物語はどこに置いてあるの?」

「はい?」

 背中に思いっきり怪訝そうな声が返って来た。

「え、なんですか? プライバシーの侵害ですか?」

「ち、違うよ! 前にそういう話したじゃない!」


 まだ俺と彼女が正しく学生と講師の関係を保っていた時、彼女の源氏物語との出会いを聞いたことがあった。

 きっかけは、古本屋で見つけた一冊の本だったという。

 漫画本や文庫などが並べられた棚で、一冊だけやたら豪華な想定の本を見つけた。箱入りでタイトルの所には金箔がまぶしてあって、一目見ただけで特別な本だと思った、と彼女は言った。

 それは、二十年ほど前に古典に造詣の深い著名な女流作家が訳した源氏物語だった。読みやすく原典に忠実な訳で、なおかつ小説としても読みやすい伝説的な現代語訳と言われている。何故そんなことが分かるかと言うと、俺自身も小学校の時ばあちゃんから同じ本を借りて源氏物語にハマったからだ。同じ本がきっかけだったということを知って当時の俺たちはその不思議な縁を喜び合った。

 生憎、今となっては最早昔の話だが。


「一人暮らしの家にも持って来てるって言ってたから、どこにあるのかなって……思って……」

 本棚に入っているのは大学で使っているテキストばかりだったから、ただ純粋な疑問として聞いてみただけだったのが、どうやら余り触れてはいけないことだったらしい。じっと押し黙った彼女の視線が背中に突き刺さっている。恐ろしさの余り振り向くことも出来ず、俺はただブリに塩を振っていた。

「……の下」

「え?」

 再びキッチンに戻って来た彼女が、今度は背後でちょこんとスツールに腰掛けた。

「だから、……ベッドの下に、隠してあるんです」

「ベッドの下?」

「いけませんか」

「い、いや別にいけなくはないけど。思春期の男子高校生じゃあるまいし……」

「……」

「ちが、セクハラじゃない! 一般論!」

 いちいち訴えられてはたまったものじゃない。先手を打つと彼女はむっつりと答えた。

「……大学の友達が来た時に、笑われたんです」

「え? なんで?」

「真面目過ぎだって」

「……なんで真面目だと笑われるの?」

「知りませんよ、そんなこと」

 ぷいとそっぽを向いた横顔には、ありありと『面白くない』と書いてある。

 彼女曰く、詳細はこうだ。仲良くなった日文一年女子を数人部屋に招いた時、その内の一人が彼女の本を見つけた。テキストの他は源氏物語の文庫しか入っていない本棚を見て、それはそれは面白そうに笑ったそうだ。『やだ、真面目すぎて超ウケんだけど』、と。

「ちなみに、自主ゼミに入った時も言われました。『単位にもならないのにゼミ入っちゃうとか超ウケる』って」

「……女子がウケるツボが分からない」

「後学のために教えてあげますが、女子がそう言う時は大抵ウケてません。バカにされてるんです」

「えっ、そうなの」

「そうです。真に受けて調子に乗ったら痛い目に遭いますから、お気を付けて」

 別にウケられてもいないのに痛い目に遭っている場合もあるけど、なんて言ったら更に痛い目に遭うだろうことは明白だ。キッチンペーパーに魚の水分を吸わせつつ、押し黙る。

 いつもならもっと『余計なお喋りをしていないで手を動かして下さい』などと言って、にこにこしながら俺のことを苛めるのに。その出来事は彼女にとって余程癪に触ったんだろう。むうと頬を膨らませた顔は、普段よりもずっと子供じみて見える。

 女装がバレて彼女との関係が妙なことになって、言わずもがな俺の世界は百八十度裏返ってしまったけれど、それでも中には変わらないものもあった。


 彼女が、俺の授業で黒板が見やすい位置に座ること。

 自主ゼミで先輩たちの発表を聞いている彼女が生き生きとしていること。

 そして、彼女が源氏物語が好きだということ。


 だからこそ、彼女は気分を害したのだろう。友達から真面目だと笑われてベッドの下に隠してしまうくらいには。もしかしたら、恥ずかしかったということ以上に大好きな本がバカにされたようで悔しかったのかもしれない。本と一緒に自分の気持ちを守ろうとしたのかも……なんて、講師の欲目だろうか?


「……ねぇ、北山さん」

「なんですか」

「俺もさ、北山さんと同じで小学生の頃から源氏物語が好きだったんだよ」

「……」

 返事はない。でも、姿勢をこちらに向けてくれたのだというのがスツールの軋む音で分かる。

「それまでずっと外国に居たからさ、日本文化っていうか、そういう日本独自のものに余計にハマっちゃって」

 こんなに美しい世界があるんだと一気に目の前の景色が変わって行ったあの衝撃を覚えている。それまで日本語すらロクに話せなかった俺にとって、それはアイデンティティの確立と同じことだった。日本人としての自覚を持つことと平安文学を読むことを同時進行で行った俺は中学に上がる頃にはすっかり源氏物語並びに平安文学マニアと化していて、いわゆる流行りものを好むはずの思春期を、独自の路線で突き進むことになった。

「最低限の話はしても友達ってほとんど出来なくてさ。困ったことに俺も放課後に部活したり遊びに行ったりするより本読んだりしてる方が楽しかったから、全然苦じゃなくて。高校行っても大学行ってもずっと、俺の興味のベクトルは友達とか遊びより勉強に向いてたんだ」

 平安京のあった京都の大学で学びたいと志し、大学院へ行って、博士号を取得した。ずっと幸せだった。好きなものを思いきり好きだと言えて、思いきり勉強出来たから。変わり者だと言われたことは両手で余るほどあったけれど、俺自身そうだと認識していたし、別にそういう扱いをされても困らなかった。だから、決して孤独だとは思わなかった。

「だからなんて言うかさ、せっかく思いきり勉強出来る環境に居るんだから、ちょっとくらい開き直ってみても罰は当たらないと思うよ。周りを気にして遠慮してたら掴めないものもあるって思うし。……あ、そうだ。もし友達には恥ずかしくって見せられないなら、いつでも俺の部屋に読みに来ていいよ」

「……え?」

「源氏物語。あれだけじゃなくて、他にも色んな訳者の源氏が揃ってるから」

 大学と大学院で収集した書籍は二百冊以上。論文のコピーに、図書館並みにバックナンバーが揃っている月刊国文学は十年前の号からきっちり保管してあって、居間の本棚に収まり切らなくなって最近では寝室すらも侵食し始めている。

 もし、彼女が友達付き合いと勉強の両立に困る時が来るならば。

 友達ではない俺が、それ以外のものを守ってあげればいいんじゃないかなんて、柄にもなく、思ったりしてしまったのだ。


「……先生」

「ん?」

「お気持ちはありがたいんですが、私、本を読みたいなら先生の部屋じゃなくて図書館に行きます」

「……ハッ」

 静かな口調に我に返る。

「先生と違って友達付き合いも勉強も疎かにするつもりはありませんし、そんなに不器用でもありません。……ていうか、女子生徒を部屋に呼ぼうとするのはセクハラだと思います」

「う……」

「理解したら、余計なお喋りをしていないで手を動かして下さい」

「ご、ごめんなさい……」

 そう言えば、あの日以来、彼女は俺を部屋には呼んでも決して訪れることはなかった。普段女として生活しているとはいえ、誰が好き好んでむさい男の部屋に来たがるだろう。恥ずかしい。ちょっと格好付けてしまった手前余計恥ずかしい。


「先生」

 とほほと肩を落として調味料を混ぜ合わせていると、ぽつんと落とすように北山さんが呟く。またなにかダメ出しをされるのだろうかと振り返った、先には。

「……お気遣い、ありがとうございます」

 ――笑った。

 たかがそれだけのことで心臓が妙な動きをした。彼女の笑顔なんて毎日見ているはずなのに、何故か動揺したという事実に更に動揺して、俺は手に持っていた片栗粉の袋を思わず落としてしまった。

 あ、と見事に重なった俺と彼女の声。

 ぼふ、という鈍い音の一瞬の後、白い粉が煙のように舞ってまるで靄のようにキッチンに充満する。


 油断の代償は、掃除とやけに固くなってしまったブリの照り焼き。

 ついでに明日のミッションにペナルティが加算されたことは、言うまでもない。

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