文京区辺りから世田谷まで、御偲び歩きのころ
第16話 一変した日々
「ねえねえ、お姉さん一人?」
「暇? なら一緒に遊ばない?」
「友達が店やってんだ、奢るから遊ぼうよ」
人生で二度目の渋谷は雨が降っていた。
入れ替わり立ち替わりやってくる男達に、俺はひたすら愛想笑いを浮かべてお辞儀をする。
友達と待ち合わせをしているから、もう帰らなくちゃいけないから、彼氏がいるから。お断りの理由はその都度違うが、声をかけられる度に心は音を立てて折れて行く。
……なにが悲しくて、俺は男にナンパをされなくてはいけないのだろう。
薄桃色のひどく女性らしい傘を差した俺は、ご主人様(決して本意ではないが便宜上こう呼んでおく)の命により休日だというのに女装して渋谷の街角に意味ありげに佇んでいた。
別になにか明確な目的を与えられている訳ではない。
『女装して渋谷の街角に意味ありげに佇むこと』。それが今日の彼女の望みなのだ。
鞄のサブポケットに入れた携帯電話が鳴る。折りたたみ式のそれを開いて通話ボタンを押せば、耳元に朗々とした彼女の声が聞こえた。
『今のところ、三十分に三人ですね。いいペースです』
「あの、北山さん……」
『はい?』
「この行為に、いったいなんの意味が……」
『意味?』
それは食べられるものですか? とでも言いたげな口調に、望む答えは得られないことを悟る。
意味。そんなものは存在しないのだ。
本当は分かっていた。ないと分かっていても砂粒みたいな可能性に掛けてしまったのは俺の罪だ。
『あと二人に声を掛けられたら、今日のお務めは終了です。美味しいオムライスのお店があるので、連れて行ってあげますね。お金を払うのは先生ですけど』
「……」
『あれ、嬉しくないですか? じゃあ追加ノルマであと十五人……』
「ごめんなさい嬉しいですオムライス大好きです」
『ですよね。じゃあ頑張って下さい』
ぷつんと切れた通話の向こう、真後ろのビルを振り仰げば、カフェの窓辺の席で実に楽しげな表情で微笑んでいる彼女と目が合う。さながら皇室を思わせる優雅なお手振りだった。
……こうなったら、早くこの苦行を終わらせよう。そして早くこの場を去ろう。例えその後の昼食がすべて俺の支払いであっても、今の居たたまれない現状よりはずっとずっとマシだ。
「ねえ、彼女。良かったら一緒にメシでも……」
「ごめんなさい、間に合ってるので大丈夫です」
オムライスという名の解放区まで、あと一人だ。
「端から見てる分には仲良しに見えるんだけどなー」
「おまえの目は節穴か」
次の日、五限が終わった後例によって講師室でぐったりしていると、いつもの調子で兵頭がやって来た。今日も本村さんに逃げられたというしょうもない理由で管を巻きに来た兵頭に、俺も缶コーヒー一本を賄賂に愚痴をこぼす。
「だって、ゆかりんおまえと居ると楽しそうじゃん」
「あれは、コケにしてるって言うんだよ」
窓の外は今日も雨が降りそうな曇天。
梅雨まっただ中、日本上空を覆った雨雲はまだしばらく居座るらしく、まだまだ傘が手放せない天気だと今朝も予報士が言っていた。
雨は好きじゃない。洗濯物も乾かないし、傘に遮られて視界も悪いし、気圧のせいでなんとなく頭も重いし。結局今日も防水加工を施したショートブーツと合わせたシャツとタイトスカートという代わり映えのないコーディネートになる。この短期間で、すっかり俺の思考も女子になってしまったようだ。
「つーか、ゆかりんってなんだよ」
「えー、紫だからゆかりん。可愛いっしょ?」
「馴れ馴れしすぎるだろ、おまえ」
下僕という名目の役割を与えられ、約一ヶ月。これまで俺が彼女になにを命じられてきたかと言えば。
アルバイトがあるから迎えに来て下さい。
アルバイトが終わったから迎えに来て下さい。
観たいDVDがあるので借りて来て下さい。
プリンが食べたいから買って来て下さい。
お腹が空いたから晩ご飯を作りに来て下さい。
高いところにあるものが取れないので取りに来て下さい。
お買い物に行きたいから荷物持ちとして付いて来て下さい。
基本的には一日一ミッションだが、昨日はオムライスを奢らされた後プリクラを撮らされるという複合技だった。先週可愛い下着屋でブラジャーを試着して来いと言われそれだけは勘弁して下さいと泣きついて、まけてもらった分のペナルティだそうだ。
「なんでこんなことになってんだろうなぁ……」
以前は『女装』だけが悩みの種だったのに、最近ではそれに『下僕』が加わっているのだから俺の人生は訳が分からない。
先生、とあの頃と変わらぬ同じ笑顔で北山さんは無理難題を突き付けてくる。勿論自主ゼミや授業の最中は以前と変わらぬ態度だが、二人きりになった瞬間に鋭いボディブローをお見舞いしてくるのだ。身体だけでなく心を折ることも忘れない。上下関係を利用し恐怖心を叩き込み、思考力を奪って命令は絶対だと認識させる。世が世なら、きっと優秀な訓練教官になれただろう。
「ゆかりんも別の男見つけたらそのうち飽きるって。女子大生ってそういうもんよ」
気怠げに伸びをした兵頭は、机の上に置きっぱなしにしていた源氏物語の資料を摘まみ上げた。
今纏めているのは他学部向けの教養科目のレジュメだ。文学部向けの専門科目とは違い、主に理系の生徒が受講するので出来るだけ易しく作成したつもりだったのだが、一瞥した彼女に『専門的知識がない人にとても不親切な内容ですね』と微笑まれてしまったので、今作り直しを余儀なくされているところだ。
「源氏物語かー、いいよなぁ光源氏。俺もなりたい」
「一応聞くが、なんでだ」
「え? 豪邸でハーレム作れるくらい権力あるから?」
さすがチャラ男代表、想像通りの答えだ。
物語の中盤、源氏は自分と関係の深い女君達を自らの下に呼び寄せて住まわせる。しかしそれは別にハーレムを作りたいという俗物的な欲ではなく、困窮していた女君を助けこれまでの恩に応えたいという人間的な気持ちから為された行為だった。一夫多妻という現代と違う結婚形態を取っているため聞きかじった範囲ではどうしてもハーレムと思われてしまいがちだが、それは源氏という一人の男を表す上で好ましくない表現だと俺は密かに思っている。
「あ、あとアレ。『紫の上計画』」
「なんだ、それ」
「えっおまえ知らねーの? 平安文学の教授なのに?」
「まだ教授じゃないっていうのに。……で、なんだよそれ」
「あれだよ。あの、ちっちゃい可愛い女の子を、自分好みに育ててくってやつ有名なやつ」
「初耳だ」
「マジで? 俺の知識結構すごくない?」
ハーレム同様随分有り体に纏められてしまったものだ。確かに源氏は十八歳の頃、病気の療養のため訪れた場所で後の紫の上となる可愛らしい女の子を見つけ手元に引き取って育てるが、あれも別に最初からやましい気持ちがあった訳では……。まあそんな主張を兵頭相手にしても仕方ないので、コーヒーと一緒に飲み込んでおく。
「あれいいよなあ、なにも知らない無垢な女の子を俺色に染めてくっつーの?」
「今おまえがそれやったら犯罪になるからな」
「やらねーよ! 別に女の子には困ってないし」
「ああそうかい」
そういえば、下僕宣言の後、彼女とも紫の上の話をしたことがある。
論文検索の時真っ先に入力したくらいだからきっと好きなのだろうと話題に挙げてみれば、予想とは正反対の反応が返って来た。
曰く、「紫の上? 大嫌いです」。
彼女は紫の上のことを『源氏に追従する自分の意志がないお人形』だと酷評した。攫われていいように調教され、結局不幸なまま死んで行くなんてバカだと扱き下ろしたのだ。
俺が源氏で一番好きな女君は紫の上だ。理想的な女性だということもさることながら、彼女は紫式部の手により最も辛い宿命を負わされたヒロインだと思っている。つまり、彼女こそが源氏物語のテーマの体現者であり、院生時代に論文だって書いているくらいだが……勿論、無駄な主張であったことは最早言うまでもない。
「あ、そういやおまえさ、最近葵ちゃんとよく飲みに行ってるらしいじゃん」
「……別に本村さんだけじゃない。雪先生も一緒だ」
「それさぁ、なんで俺も呼んでくれないの?」
「そういう場合、男二人女二人ってのが定石でしょうよ」
「俺を男カウントするな」
歓迎会の仕切り直しということで雪先生が改めて場を設けてくれたのだが、その後もコンスタントに三人で飲みに行くことが増えた。相変わらず俺はコミュニケーション下手だしバレないように気も遣うけれど、身近で仲良くしてもらえる人が居ることはありがたいことだ。そう説明すると、兵頭は如何にも不満と言った表情を浮かべる。
「なぁ今度連れてってくれよ、葵ちゃん、絶対二人じゃ出掛けてくんないんだもん」
「……おまえさ、なんでそんな本村さんに執着すんの? あんなに嫌わ……避けられてんのに」
それは、実はずっと抱いていた疑問だった。
幼稚園からずっと女子校育ちだったという本村さんは非常に潔癖な人だ。初対面での兵頭への態度からもビンビンに感じていたが、男に対しての苦手意識や嫌悪感は想像よりも根強い。飲み会で好きな男のタイプを雪先生から聞かれたときも「ありません。男というだけでマイナスです」ときっぱり言い切っていた。
嫌いなタイプは、と言えば。「そうですね、特に嫌いなのは、頭と下半身の緩そうな男です。兵頭さんみたいな」。……さすがに気の毒なので、本人には言わないでおいてやろうと思った。うーん、と兵頭が言葉を探す。
「可愛いなって思う子とか遊びたいなーっていう女の子とかはいっぱい居るんだよ。でもさ、葵ちゃんは違うんだ。なんつーか、うまく言えないんだけどさ。ただそこに居てくれるだけでいいっつーか」
研究支援課に異動になったばかりの頃、兵頭は同僚から干されていた時期があったのだという。異動の理由が理由だけに周囲から特に歓迎されず、兵頭自身も腐っていたので溶け込む努力もせず、異動から半月経っても一月経っても全体の仕事を把握することが出来なくて教授や各研究室に連絡不備など幾度か迷惑を掛けてしまったらしい。それを、初めて面と向かって叱ったのが本村さんだったらしい。
「やる気がないのは勝手だけど、社会人なら与えられた仕事をきちんとこなしてから文句を言えって。うちの課長に対しても課内感情など関係ない、迷惑が掛かるので割り切ってしっかり指導しろって。いや、あれは格好良かったねー。だから俺、それ以来葵ちゃんのこと超信頼してんの。嫌われてんだろうなとは思うんだけどさ、なんだかんだいつもちゃんと相手してくれるから、嬉しくって」
「……ふぅん」
見た目がタイプだからとか、逃げるから追いかけたくなるとか、そういうくだらない理由が返ってくるものだと思っていたのに。意外と真面目な答えに素直に感心する。
「んー、でも童貞の光瀬クンにこの高尚なキモチはまだちょっと早かったか?」
「……」
前言撤回。
やっぱりこいつはただの頭と下半身の緩い男だった。
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