第15話 女装講師、下僕になる
「分かりました」
テーブルを挟んで俺と相対した彼女の反応は、俺の予想を遥かに越えてあっさりしていた。
「つまり先生は男の人で、事情があって女装をしているってことなんですよね?」
「そ、そうだけど……」
間違いなくその通りなんだけど。
悲鳴を上げることもなく、変態と罵られることもなく、ただ一言分かりました、と。それを受けて戸惑っていたのはむしろ俺の方だった。
もっとこう、裏切られたとか騙されていたとか変態女装野郎とか、激しい罵倒を覚悟していたのに。振り上げた拳を下ろす先を見失うというのはよく聞く表現だが、こちらとしては振り上げてもらったはずの拳が一向に見つからない。そんな状態だった。
「……いいの?」
「いいの、とは?」
「だって俺、ずっと君のことを騙してたんだよ」
「騙してただなんて、そんな。確かに驚きましたけど……でも別に悪意があってのことじゃないんですよね?」
「も、勿論! そんなことある訳ない!」
「なら、いいです」
けろりと言い放つ彼女の表情に嘘偽りはない。……ないように、見える。
「先生が男でも女でも、別に変わらないです。先生は先生だし、私は私ですから」
そう言って、にこ、と彼女はいつもの微笑みを浮かべた。
こんな風にあっさり受け入れてもらえるなんて、思ってもみなかった。
本当のことを告げれば彼女からの信頼を失うものだとばかり思っていたのに。今まであれこれと考えて積もり積もった罪の意識がさらさらと溶けて行く。安堵で涙が出そうだった。この感謝をどう伝えて良いのか、言葉が見つからない。
彼女の瞳に映っているのは部屋着のTシャツとハーフパンツ、地味な黒縁眼鏡を身に付けた俺の姿だ。ウィッグを被っていなくても綺麗な格好などしていなくても、先生と呼んでくれる喜び。じーんと温かな感動が胸を打つ。
泣きも怒りもしないどころか、それで構わないと笑ってくれる。事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだ。あれこれ気を揉んでいたのは俺だけだった。いざカミングアウトをしてみれば、北山さんはこんなに簡単に受け入れてくれるじゃないか。損をした、とまでは思わないけれど彼女のことを見縊っていたのだと思えばただただ頭の下がる思いだった。
「北山さん、ありがとう。俺は……」
ぴろーん。
「……え?」
改めてお礼を言おうとした時、妙に情けない電子音が目の前で響いた。
彼女は携帯電話を操作していた。
なにやら手慣れた様子で画面をいじった後、俺に向き直る。ずいと見せられた液晶画面には、とてつもなく阿呆な顔をした俺が写っていた。すっぴんでウィッグも無しで、男にしては中性的かもしれないが、どこからどう見てもそれは『男』の俺。
おまけにもう一つ「え?」と零して、ぽかんと彼女を見つめる。
「これ、印刷して大学中に貼っときますね」
「は? ……え? なんて?」
自分の耳がおかしくなったのかと思った。あるいは頭が。もしかしたら両方なのかもしれないとも思い始めた辺りで、もうひとつおまけにぴろーんと写真を撮られる。
「ちょ、き、北山さん? いったいなに……!」
一体何故俺は写真を撮られているんだろう。そして、何故彼女はそれを印刷するなんて言っているのだろう。意味が分からない。意味が分からなすぎて、動揺の余り舌を思いきり噛んでしまう。
「――バラさないって、誰が言いました?」
「……は?」
「私、別に先生が男でも構わないとは言いましたが、バラさないとは一言も言ってませんから」
「な、なに言って……」
「本当は男だってことも、酔いつぶれた私を部屋に連れ込んだってことも。余すところなくすべてバラします。そうしたら、先生の講師生命は終わりですね」
語尾に音符マークが付いていてもおかしくないくらい、北山さんはご機嫌だった。にっこりと微笑む顔がいつもの北山さんだ。しかし、発せられた言葉は俺の知っている北山さんとは似ても似つかない。
「ちょ、ちょっと待ってよ! さっきと話が違……!」
「大声出さないでください。さっきの写真、拡散されたいですか?」
「っ……!」
俺の二手三手先に行く見事な戦術。彼女の突然の豹変ぶりに為す術もなく、俺は目の前でその写真がロックされていくのを見つめているしか出来ない。
「……い、言わないで」
「はい?」
「い、言わないで、お願い」
「声が小さくてよく聞こえないんですけど」
「い、言わないで下さい、お願いします……」
笑っているのに、笑っていない。これは目の前に居る相手をとことん見下す顔だ。
これがあの北山さんだろうか。清楚で可憐な大和撫子で、真面目で優秀な俺の可愛い教え子の北山さん? 信じられない。というより信じたくない。一筋の細い糸を辿るように懇願する。情けないと思いつつも声が震えてしまった。
「うーん、分かりました。先生がそこまで言うなら、言わないであげます」
「えっ、……ほ、本当?」
ぱっと顔を上げる。願いが通じた。神は俺を見捨てていなかったのか。
「はい。私も鬼じゃありませんから」
「よ、良かっ……」
「その代わり、今日から先生は私の下僕です」
げぼく。下僕。召使いの男。下男。しもべ。脳内で次々と単語が浮かんで、泡となって消えて行く。
「あ、意味分かります? 大学の先生なんだからそれくらい説明しなくていいですよね?」
「そ、そりゃ、分かるけど……」
知りたいのは何故俺が君のそれにならなければならないのかということで。
バレた時のシミュレートは脳内で何度もしてきたけれど、これはその中でも最悪の部類に入る展開だ。予想外、というより予想の斜め上過ぎて肉眼で捉えることすら出来ないレベル。
そんな俺の戸惑いをよそに、彼女はとても嬉しそうに笑っている。なんて良い笑顔だろう。ほんの数秒前まで、俺はこの笑顔を至上のものとして拝んでいたはずなのに。
花が咲くみたいに笑う子だと思ったのは、紛れもなく俺だったけれど。
こんな風に、咲いた花の茎の棘で人を刺す子だったとは思いもしなかった。
「じゃあ、そういうことで。これからもどうぞよろしくお願いしますね、先生」
職が決まった。夢だった大学講師になれた。
女装を命じられた。
悪友と再会した。同僚はそれぞれちょっと癖があった。
そして今。
――男だとバレたら、教え子に下僕宣言をされた。
夢であってほしいと強く願ったけれど抓ってみた頬は冗談みたいに痛くって、呆然とする俺に紛れもない現実を告げていた。
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