第14話 一瞬の油断
数時間後。
俺は、雨の音で目が覚めた。はてここはどこだろうと辺りを見廻して、俺は自分が自宅のリビングのソファで眠っていたことに思い至った。
ぐるりと首を回し関節を鳴らす。昨日は渋谷で歓迎会を開いてもらって、ええと、それから。
徐々にクリアになっていく意識の途中で、俺はあることを思い出した。
「……」
音を立てないように立ち上がり、そっと寝室を覗く。
……夢では、なかった。
『招かれざる客』はおとなしく、なおかつ行儀良く、布団に包まって眠っていた。
あの後俺は先生方に事情を話し、歓迎会を先にお暇させてもらうことにした。
少しだけ吐けはしたものの、結局彼女の顔色は戻らないまま。一刻も早く休養が必要だということで、俺は彼女を連れて渋谷からタクシーに乗り込んだ。
「どちらまで?」
運転手に尋ねられ、俺ははたと気が付いた。送って行くと大風呂敷を広げたものの、俺は彼女の一人暮らしの部屋がどこにあるのかを知らないのだ。学校の近くのマンションだと聞いたことはあったが、ただでさえあの辺は学生用の似たような下宿が軒を連ねている。本人は寝入ってしまって声を掛けても一向に目を覚まさないし、だからといって勝手に手帳や携帯電話を見る訳にはいかないし……。
「お客さん?」
隣には肩に凭れ寝入っている北山さん。前方には訝しむような運転手。
ええい、ままよ。なるようになれ。
二人分の荷物を抱えたまま、俺は自宅マンションの住所を告げた。
彼女がよく眠っていることを確認して風呂場に向かった。
料理とアルコールの匂いが身体中に染み付いている。服はすぐにでもクリーニングに出せるがウィッグは洗うのに少々手間と時間が要る。さすがに彼女が居る間に洗うのは難しそうだ。とりあえず洗面所に置いておくことにして、浴室の扉を開けた。
本当は浴槽にお湯を溜めたかったがいつ彼女が起きて来るともしれない。シャワーだけを手っ取り早く済ませることにして、ひとまずオイルのメイク落しで顔を撫でる。それを落としてから洗顔、そしてシャンプー。続いて身体を洗う。昨日の汚れと疲れが泡と一緒に排水溝に流れて行く様を、見るともなしに見つめていた。
昨日の男子大学生たちはどうやら有名私立の医学部の学生だったらしい。未成年を連れ込んで酒を飲ませたということがバレて大目玉を喰らい、あの店にも出入り禁止の措置を受けていたと、夜の間に届いた本村さんからのメールに書いてあった。ざまあみろと、心の底から思った。
俺自身、つい数ヶ月前までは一応学生という身分だったのだが、あれは俺の過ごして来た学生時代とはまるで違う。馬鹿の一つ覚えみたいに平安文学の研究ばかりしていた俺と、お洒落な店で息を吸うように女の子と遊んでいる奴らとは天地ほどの差がある。どちらが天でどちらが地かは、人それぞれだと思うけれど。
「……はあ」
男に戻った途端、考えないようにしていたことがぷかぷかと脳裏に浮いてくる。
同じ志を持つ人なんて勝手に親近感を持っていたけれど、彼女も年頃の女の子だ。
毎回毎回源氏物語や平安文学の話をするより見た目の整った男子にちやほやされている方が楽しいのかもしれない。昨日だって本当は連れて帰って来られるよりもあいつらと一晩を過ごしたかったのかもしれない。
いやいや、そんなことはない。北山さんはそんなふしだらな真似を好む女の子ではないはずだ。もっと真面目で、しっかりしていて。
でもたかだか一ヶ月しか彼女を知らない俺がそんな風に彼女を語ってもいいのだろうか。
いやだからといってあんな台詞を聞いてあの場所に放置することなんて出来ないし。
「……あーもう、なに考えてんだ、俺は」
たくさんの「でも」を繰り返し、給湯温度をいつもより二度高くしたシャワーをひたすら頭から被り続ける。これ以上ぐるぐるとくだらないことを考えるな。これで良かった。だって俺は講師なのだから。彼女を指導する立場にあってそれ以外の選択肢はなかった。俺は彼女にとって信頼出来る女性講師でそれ以上でもそれ以下でもない。そうだ。そうだとも。
「……よし」
ようやく気持ちが落ち着きを見せたところで俺は立ち上がる。
バスクロックの針が示す時刻は午前九時。今日買い物に行く予定だったので冷蔵庫の中は空っぽのはずだ。雨は降っていなかったようだし、彼女が起きる前に支度をしてコンビニに朝食になりそうなものでも買いに行こう。近くのローソンには彼女が好きだと言っていた期間限定スイーツが売っていたはずだ。その前に大急ぎで頭を乾かして服を着て化粧をして……。
あれこれと算段を整えてから勢い良く浴室の扉を開けた、瞬間。
「……みつせ、せんせい?」
「え?」
眼鏡もコンタクトも装着していない、湯気でぼやけた視界の向こう側。
洗面所の前に立ち尽くす人影は、なにやら茶色い毛束(おそらく俺のウィッグ)を大事そうに抱え、湯上がりの俺の身体(辛うじてタオルは巻いていた)を、上から下までまじまじと見つめていた。
人間は驚きすぎると声が出ない。
俺は、それを生まれて初めて実地で学ぶこととなった。
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