第12話 戸惑いの歓迎会

 世間はいわゆるゴールデンウィークに突入した。  


 学生達は春休み以来の連休に浮かれ、直前の授業などでは気の早い生徒がもう自主休講をしていたため教室の人口密度も通常よりあからさまに減っていた。

 この休みで部活やサークルの新歓合宿なるものも多く予定されているらしく、生徒用の掲示板には急性アルコール中毒に注意するようにという旨の注意書きが貼られている。特に他大学の男子も含むサークル活動に所属している学生には『ハメを外さず学生らしい節度のある行動を』という具体的なんだか抽象的なんだか分からない注意まで喚起されており、他人事ながらもモラトリアム期間の学生達に対してどこまでこの大人の論理が通じるだろうかと少し不安になってしまった。

 北山さんも友達の付き添いでとあるサークルの新歓コンパに顔を出すと言っていた。しっかりした子だから大丈夫だとは思うが、妙なことに巻き込まれないようにと人知れず願っておく。 

 世間に認められた休日とはいえ、俺みたいな新人講師には腐るほど仕事がある。休み明けの授業の準備であったり個人的研究のために図書館にこもったり。


『光瀬先生へ・歓迎会のお知らせ!』というメールを受け取ったのはそんな忙しい日々の合間でのことだった。



「あ、光瀬先生こっちです!」

 待ち合わせ場所の渋谷のモヤイ像には、既に本村さんの姿があった。普段はスーツに近い服装しか見たことがなかったが、休日の今日はシャツワンピースにレギンスという年相応の若々しい格好をしている。指定された時間から五分程度遅れてしまった。手を挙げて駆け寄る。

「遅れてごめんなさい、出口間違えたみたいで迷っちゃって……」

「大丈夫ですよ。分かりづらいですよね、渋谷」

「すみません。ええと、皆さんは?」

「お店が遠いので先に行ってもらいました。私たちも行きましょうか」

 辺りを見回せば大学生と思しき集団がそこら中に点在していた。それぞれが部活の旗やら段ボールに書いたサークル名を掲げ、その周りにはそれぞれ何重にも人垣が出来ている。大声で笑ったりふざけあってもつれて転んでいたり、そして、既に出来上がっているのか男女でべたべたと抱き合ったり。思わずと言った様子でため息を吐いたのは俺ではなく、本村さんだ。

「まったく、公共の場でこんなに騒いで。なにを考えているんでしょうね今日びの学生は」

「そうですねぇ……」

 人垣の中には授業で見たことのある学生の顔もある。本村さんが知れば更にご機嫌を悪くしてしまいそうなのでその事実は飲み込んでおいた。これが他大学の男子を含むサークル活動、というやつなのだろう。呆れもするし一般の方に迷惑を掛けるのは良くないとも思うが、こういった人種には出来るだけお近づきになりたくない。

「じゃあ行きましょうか」 

 歩き出すと自然と本村さんの手が俺の袖を握った。ひ、と声が漏れそうになったが堪える。大丈夫、今日は万一を想定して少し固い手触りのGジャンを着用してきた。これで、多少の感触なら誤摩化せるだろう。身長が百五十センチ程度しかない彼女からしてみれば人混みをすり抜けるのも一苦労なのだろうが、それでも相変わらず距離が近いのでダブルミーニングで心臓に悪い。心の中で南無阿弥陀仏と経を唱えつつ、俺たちは道玄坂のダイニングバーへと移動した。


 生まれて初めて訪れた日本でも有数の歓楽街は、確かに見るからに怪しい店や派手なネオンも見え隠れしていたが、それ以上に雰囲気のあるバーやレストランも多かった。雪先生が予約を取ってくれたというその店はさすがのお洒落さで、エントランスもまるで高級ホテルのように広い。モノトーンで統一されたいわゆる和モダンと呼ばれるシックな内装はいかにも女子受けが良さそうな佇まいだ。こんな機会でもなければ一生足を踏み入れることはなかっただろう。

「光瀬先生、奥どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 やや抵抗はあったものの、本日の主役だからと一番奥に通された。高そうな手触りのソファに腰掛けグラスにワインを注がれると、学部長の口上と乾杯で宴会が開始された。文学部全体の飲み会ということで、ばあちゃんと数名を除く教授陣二十名弱、オール女子。コミュニケーション力が決定的に不足している俺としては名目が歓迎会でなければ理由を付けて断りたかったのが本音だ。

「ちょっと葵、真琴だけじゃなくて私にもお酌してよ」

「嫌です、雪先生すぐ酔っちゃうじゃないですか」

「酔うのが楽しくて飲んでるんだからいいじゃない。ねぇ、真琴はお酒強いの?」

「強くはないですね。すぐ顔が赤くなるので……」

「やだ可愛い。じゃあ今日はいっぱい飲ませちゃおうかなぁ」

「雪先生! 無理強いしちゃだめですよ」

「はは……」

 お誕生日席の両脇を固めるようにして座った二人が、俺を挟んで至近距離で口喧嘩をする。見た目も中身も正反対だが二人はとても仲が良いらしい。見ている分には微笑ましいが、巻き込むのは勘弁してほしい。


 ワインとカクテルをちびちびと飲みつつ、渋谷の町並みを見下ろす。

 まさかこんな場所で酒を飲むようになるとは思わなかった。だって去年の今頃は、俺は一人大学院の図書館にこもってひたすらに研究に没頭していたのだから。

 望んだ仕事に決して望んではいない女装というオプションがついて、早一ヶ月。

 ありがたいと思う気持ちと何故女装をしなくてはならないのだという戸惑いの気持ちと、……最近では正体を隠していることに対しての謝罪の気持ちが芽生え始めて来た。学生や教授たちもそうだが、とりわけ顕著なのは自主ゼミ員――特に北山さんに対してだ。

 必修授業を受け持っているということもあるが、彼女は俺が担当する授業のほとんどを履修している。授業後にもマメに質問に来てくれるし、自主ゼミの時間以外でもレポートやレジュメを見てほしいと講師室にもちょくちょく顔を出すようになった。どうやら、彼女はものすごく俺のことを信頼してくれているらしいのだ。

 光瀬先生、と北山さんが笑顔を向けてくれる度に罪悪感は少しずつ増していくようになった。平安文学というマイナーなジャンルにおいて長年人付き合いより自分の研究を優先して来た俺にとって、彼女のような存在は希有だった。傍にいて、話を聞いて、面白いと感動してくれる。吸収した知識を生かし新しい疑問を見つけてそれをぶつけてくれる。誤解を恐れずに言えば、彼女と過ごす時間はとても楽しかった。


 しかし、俺はそもそもの根底から彼女を騙している。学長に命じられたとは言え女子大学に雇われるために男が女装をして、毎日毎日化粧をしてストッキングを履いて。信頼していた女性講師が実は男だったなんて、一体誰が想像出来るだろう? 

 いっそすべての事情を説明してしまおうかと思ったこともあったが、職を失うかもしれないという不安と軽蔑されるかもしれない恐怖が勝って、結局身動きは取れないまま。俺が女で居ることはばあちゃんに対しての恩返しでもある。とどのつまり、俺の前に広がる道はひとつだけ。結局罪悪感を押し殺したまま、俺は『光瀬真琴(♀)』で居るしかないということだ。


「……はぁ……」

「なーにため息吐いちゃってるのよ、真琴ってば」

 つ、と首筋を爪でなぞられた。思わずひゃあと妙な声が出て、雪先生が玩具を見つけた子供のように目を輝かせる。

「もしかして、首筋弱いの?」

「ちょ、ちょっと! やめてくださいよ!」

 助けを求めようと本村さんに視線を送れば、「雪先生ばっかり」と何故か反対側から首元に抱きつかれ、耳に息を吹きかけられた。

「わあ! ちょ、本村さんまでなにしてるんですか!」

「だって、雪先生とばっかり仲良くしてて狡い!」

「ず、狡くないですよ! 本村さんと雪先生の方が仲良しでしょう!」

「あら、真琴妬いてるの? 大丈夫よぉ、私どっちも好きだもの」

「や、やめて! やめてください! ぎゃあ!」

 最高学府で教鞭を取る人間の集まりとは言え、ある程度酒の入った人間は等しく判断力も真面目さも失うものだ。うるさくし過ぎて周りの教授達に叱られるかと思いきや、彼女らは若い講師達が仲良くはしゃいでいる様をまるで親のように見守っている。ちっともありがたくない。この場に置いてはその優しさは不要だ。

「わ、わたし! ちょっとお手洗い!」

 両脇に絡み付く二人を振り切るように立ち上がって、俺は勢い良くその場を逃げ出した。



駆け込んだ先のトイレも店内同様やけにスタイリッシュな内装が施されていたが、そんなことを楽しむ余裕はなかった。

 しばらくの間個室でぐったりとしていると、バタンと乱暴に外側の扉が開いた。連れ立って入って来た声は若い。学生だろうか。

「なあ、おまえどうする?」

「俺、あの子にするわ。茶髪でショートの子」

「ああ、アレな。オッケー」

「……?」

 なにか違和感を感じて、すぐさまその正体に気付く。

 ――しまった。ここ、男子トイレだ。

 自宅と大学以外の場所に赴いたのが久しぶりすぎてうっかり男子用に入ってしまったらしい。誰にも見られなかっただろうか。気付かれないように息を潜めた。女装男が居るとも思わず、彼らは周囲を気にするこなく会話を続けている。

「なぁ、今回の帝女の一女、当たり多くね?」

(……帝女?)

 もしかしなくても、帝女とは帝国女子大のことだろう。個室に居た時も遠くから少し賑やかな声がすると思ったら学生の団体が居たらしい。

 まずいことになった。改めて言わなくても未成年の飲酒は法律で禁止されている。帝女の一女、……つまり帝国女子大学の一年生が居て飲酒しているとなれば、教授や講師まで居るこの状況で見ないフリをすることは出来ない。

「思った。去年サイアクだったからな」

「ひっでえ、なんだかんだ速攻彼女作ってたじゃん」

「一発ヤってすぐ別れたよ。顔はまぁまぁだったけど性格最悪でさ」

 聞くに堪えないレベルの軽口を叩きながら、彼らは下品に笑い合う。


『一年女子なんてカモだよカモ。油断するとすーぐロクでもない男が寄ってくるからね』


 何故か思い出したのは茅野さんの言葉だ。あの時は大袈裟なと話半分で聞いていたけれど。

「おまえは? やっぱあの清楚系狙い?」

「おう、超可愛じゃんあの子。あと一杯くらい飲ませれば多分潰れる」

「処女っぽいのが好きだよなー、お前」

「好き好き。なんにも知らない子を調教すんのがたまんねー」

「うわあ最悪、ユカリちゃん可哀想ー」

「――」 


 抑えきれず、身体が跳ねた。

 ガタンという音に反応したのか男子学生はそれきり口を噤む。足音が扉の向こうに消えて行くのを、俺はじっと耳にしていた。

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