寝られたまはぬ夜に、不幸な出会い

第11話 日常は綱渡り

 九世紀後半、菅原道真により遣唐使が廃止されて花開いたのが国風文化だ。

 国風文化、つまり平安文学とは和歌に始まる。日本的情緒の表現の幅が広がり、万葉集の頃のような素朴で直截的な表現から理知的で技巧を凝らした和歌が増え、天皇や女御主催の歌合が繰り返し行われたことによってその芸術性が高まった。やがて和歌は宮廷文学の主流を占めるようになり、その後の物語や歌謡にも多大な影響をもたらした。

 不遇な身の上の嘆きや恋の苦しさや喜び、目に映る自然の美しさ、そして人生の真理まで、三十一文字に自分のすべてをかけ、平安時代を生きた彼らは歌を詠んだ。

 平安の歌人と言えど千年前は俺たちと同じ血の通った人間だ。分かろうと思って分かち合えないことなどない。俺たちが理解し、歩み寄れば、彼らが生きて夢を見て恋をした千年前の息吹をそのままに感じることが出来る。春は桜が、夏は夜明けが秋は紅葉が冬は雪が綺麗で、野心を抱いて出世を夢見て愛しい人に恋い焦がれて、時には生きるのが辛いと涙を零した彼らの感性は今も俺達に受け継がれている。優美な衣装を着てうふふおほほと顔を隠して歌を詠んでいるだけではない。そこにあるのは、千年前を生きた紛れも無い『人』の姿なのだ。


『それではまず、古今和歌集の序文を引きます。ここには選者である紀貫之による六歌仙それぞれの説明と、後世に多大な影響を及ぼした和歌論が書いてありますので、順を追って見ていきましょう……』


「先生」

「北山さん、お疲れさま」

「先生もお疲れさまでした。今日の授業、とっても面白かったです」

 大教室で授業を受ける学生達は相変わらず勝手気ままだったけれど、以前程気にならなくなったのは視界の端で彼女を捉えられるようになってからだ。熱心に板書を写す姿は俺の挫けかけていたモチベーションを支えてくれるのに非常に有効で、ある種の開き直りと自信を持って講義に望むことが出来るようになっていた。

「六歌仙って、全部の時代の中で一番和歌のうまい人たちなのかと思ってました」

「うん、勿論優れた歌人たちではあるよ。でも、元々貫之が絶賛しているのは山部赤人と柿本人麻呂の二人でね。六歌仙というのはその後の時代に『まあまあ評価してもいい』っていうスタンスで取り上げている六人なんだ」

 僧正遍昭は技術はあっても真情がない、在原業平は心ばかりが先走って言葉が足りない、文屋康秀は技巧ばかりで身の丈に合わない、喜撰法師は言葉選びがうまくなく初めと終わりがはっきりしない、小野小町は赴き深いが強さがない、大伴黒主に至っては歌のありようがみすぼらしく品がない……とすべてが酷評されているようにも見える。けれど、その後の記述で『この六人以外は評価にも値しない』と述べているので、相対的に褒められてはいるのだろう。

「そもそもこの六人を選んだ基準もはっきりとは明記されていないからね。小野篁や在原行平といった有名歌人も除かれているし」

「そうなんですね、知らなかった」


 お喋りをしながら、二人でキャンパスを歩く。ぽかぽかと春の陽光が暖かい。

 中古文学史は火曜の二限に行われている。いつの間にか二人で自主ゼミに向かうのが習慣となって、その間の会話は自然と授業の延長になることが常だった。

 自主ゼミ員は皆それぞれ優秀だったが、一年生ながら北山さんも負けず劣らず優秀だった。元々の知識に差はあれど、俺が感心したのは学ぶ姿勢と吸収の早さだ。一度教えたことは必ず頭に入っていたし、分からないことがあればその都度きちんと論理的な質問が出来る。実に理想的な学生と言って良かった。高校時代もさぞ優秀だったのだろうと気軽にそんなことを尋ねてみれば、そんなことは、と彼女は思いきり首を振った。

「……高校時代、私ちょっとだけ反抗期で。真面目に勉強を始めたのって高校三年生の夏くらいだったんです」

「へぇ、そうなんだ。ちょっと意外」

 生まれも育ちもお嬢様で、そんなものには無縁のような気がしていたが。

「だからその分、今が楽しいんです。好きなことを思いっきり勉強出来るのってすごく面白いんだなって実感してて」

「うん、分かるよ。わたしも大学に入ってからがものすごく楽しかった」

 中学高校がつまらなかった訳ではないが(一応兵頭という悪友も居たし)、休み時間にクラスメイトたちとサッカーもバスケもしなければどうしたって浮いてしまう。だから、同じものに興味がある仲間たちと思う存分語り合えた日々は心から楽しいと思えた。ばあちゃんに寂しがられつつも京都で一人暮らしをしていた九年間、俺は盆と正月以外で東京に戻って来たことはない。


「こんにちはー……って、あれ」

 辿り着いた研究室にはまだ誰の姿もなかった。碇屋さんからはティーチングアシスタントの業務が長引きそうだと連絡があったが、他の三人はどうしたんだろう。

「みちる先輩は、多分女の子と一緒ですよね」

「……末松さんはそれに巻き込まれてて、茅野さんは碇屋さんが遅いからのんびりしてるってとこかな」

 信憑性のある推測に二人で笑って、先にお弁当だけでも食べておくことにした。他愛のないお喋りをしながら、ふと彼女が思いついたように言う。

「そうだ、あの、先生にお伺いしたいことがあって」

「なに?」

「論文の検索の仕方が今ひとつ分からなくて。もし良ければ教えて頂けませんか」

「うん、構わないよ」

 ありがとうございます、と北山さんはメモを取りだした。

 本来ゼミとは、学生同士が持ち回りで発表を担当するというスタイルが基本だ。授業を受けてテストで良い点を取るという高校までとは違い、自発的な行動が必須となる。テーマの決め方から図書館の蔵書検索の仕方、リソグラフの印刷の仕方など下手をすれば永遠に知らないままということも結構たくさんあり、それがそのまま成績に直結するのだから、大学というのは意外と恐ろしい場所なのだ。

「図書館の蔵書検索は分かる? データベースに著者名とか書名を打ち込んで、館内を探す。あるいは欲しい資料がなければ他館から取り寄せる」

「はい、それは何度か試してみました」

「論文検索もやり方は同じなんだ。ただちょっと、探し方が難しいんだけど」

 持ち込んでいたノートパソコンを開き、『国文学研究資料館』と打ち込んだ。立川にある日本文学に関わる書籍の収集・閲覧や研究などを行っている施設だ。日本文学科に所属する生徒なら大抵在学中に必ず一度は足を運ぶ。

「このページの『電子資料館』の中にある『国文学論文目録データベース』ってとこをクリックして……そう、それね。詳細検索にして、知りたい情報を入力する。そうだな、じゃああとりあえず『全ての項目』のところになんでも好きなキーワードを入れてごらん」

「好きなキーワード……」

 やや考える間があって、彼女の指先が『紫の上』と入力する。源氏好きには大体贔屓の女君が存在するが、北山さんのお気に入りは紫の上なのだろうか。そんなところも俺と一緒だと妙に嬉しくなってしまう。検索の後、出て来た論文件数は三百件近くに上る。

「これが今までに発表された論文の数。検索の仕方を変えれば絞り込むことも可能だよ」

「こんなにあるんですね。ええと、これはどこで閲覧が?」

「紀要……大学や研究機関が出してる定期刊行物や専門誌に載るんだ。一般の書店にはほとんど並ばないことが多いかな」

「そうなんですか。じゃあ、やっぱりこれも図書館で?」

「うん。この検索画面のこれが掲載誌の名前と、載っている号数。これをメモしたら、もう一回図書館のデータベースに戻って雑誌検索をしてみる。とりあえずこれにしてみようか」

「……ありました。ええと、日文研究室と、図書館の地下に配置がついてます」

「そう、だからもし北山さんがこれを閲覧したい場合は、所蔵場所と請求記号、あと刊行年月日を確認して論文を探しに行く、ってことになる」

「なるほど」

「書籍になるのって本当に一握りの有名な教授だけだし、圧倒的に雑誌論文の方が数はあるんだ。新しい史実が発見された場合も論文ならすぐに対応出来るし。うちにない場合は書籍同様司書の人にお願いすれば、一週間くらいでそのページのコピーだけ取り寄せてもらえることが可能だよ」

「はい、わかりました。……あ、じゃあこれで検索したら、先生の論文も拝見出来ますか?」

「え? うん、多分」

「ちょっとやってみていいですか? えーと、『光瀬真琴』……」

 以前書いた論文が紀要といくつかの学会誌に載っているはず。かたかたと名前が打ち込まれて、画面が一瞬ブラックアウトする。そして、そこに映り込んだ自分の姿を見て俺は現在置かれた状況を劇的に思い出した。まずい。

 ――俺、今、女装してる。


「こんにっちはー!」

 その瞬間、茅野さんが元気よく登場した。音量調節機能が壊れてしまっていると碇屋さんに評されているその声は広くない研究室内に響き渡り、俺と彼女は揃って飛び上がって驚いた。

「あっれー、二人だけ? 皆は?」

「こんにちは、月夜先輩。皆さんまだいらっしゃってないみたいです」

 彼女の意識が茅野さんに向いている間に、俺は凄まじい早さでパソコンを強制終了した。長押しなんて必要ない。九年選手の俺の愛機はノートパソコンのくせに充電ケーブルを外せばすぐに眠りに入ってくれる親切設計になっている。

「……」

 落とす前、ちらりと見た画面には『光瀬真琴』のキーワードでヒットした論文が五つ表示されていた。名前と大学名は出るものの性別が載っている訳ではない。一瞥しただけでバレることはないだろうが、一箇所でも危険な箇所のある橋は渡りたくないというのが本音だ。というか、全力で遠慮願いたい。

「そう言えばさー、あたしこの間見ちゃったんだけど」 

 もぐもぐとクリームパンを頬張りながら茅野さんが言う。

「せんせ―って、もしかして男――」

「げっほ!?」

 予想外の所から投げられた豪速球。思いきりほうじ茶が気管に入って派手に噎せ返った。

「うわ! ちょっと、なに」

「先生! 大丈夫ですか?」

「げっほ……だ、大丈夫……げほっ……」

 北山さん似背中を優しく撫でられ、涙目になりながら呼吸を整える。

「ふーん、動揺してるってことは、ほんとなんだー」

「な、なに? なにが?」

 穴という穴から変な汗を掻いているのが分かる。どきどきして心臓がうるさい。にやにやと面白がるような笑顔で俺を見つめる茅野さんを直視出来ない。怖い。もしかして俺はなにかとんでもないヘマをしてしまっただろうか。『辞職』の二文字が脳内をぐるぐると巡って血を拭きそうだった。一体茅野さんはなにを見て、なにを言おうとしているというのか。

「せんせーってさぁ」

「……」

 居るかどうかも分からない神様に必死で祈って、俺は膝の上でぎゅっと拳を握った。

「男、居るでしょ」

「……は?」

 盛大に素っ頓狂な声が出た。言葉の意味を理解するのに数秒を要して目を瞬かせると、じれったそうに茅野さんが「だからぁ」と地団駄を踏む。

「あたし、見ちゃったんだよねぇ。いつも一緒にご飯食べてる男の人、恋人なんでしょ?」

「……恋人?」

 誰と誰が? いつも一緒にご飯を食べてる男の人が? ……それって、もしかして。

「……兵頭のこと?」 

 腹の立つ程呑気な笑顔が頭を掠める。なにをどこでどう見誤ったら俺と兵頭が恋人同士になってしまうんだろう。

「名前は分かんないけど、なんかちょっと天パ気味でたれ目の情けない系イケメン」

「いやうん間違いなく兵頭だと思うんだけど」

「あの人、いつもお弁当持ってせんせ―のとこ行くじゃん?」

「いや、それは単に学務部に届く仕出し弁当をまとめて持って来てもらってるだけで……っていうか、なんでそんなこと茅野さんが知ってるの?」

「それは企業秘密ってやつっすよ〜」

 なんの企業だ。突っ込みたい所は山ほどあったが、妙な噂を流される前に全力で否定しておく。

「……悪いけど、天地神明に誓って恋人じゃない」

「えーそうなの? じゃあなんで毎日一緒にお弁当食べてるの?」

「なんでって言われても……」

 興味津々と言った顔は納得のいく答えを聞くまでは引き下がらなさそうだ。変に隠して兵頭の所に行かれても困る。あいつはへらへらチャラチャラとした適当な奴だが、昔から嘘を吐くのだけは下手なのだ。

「……兵頭とは高校の同級生なんだ。まさかこんなところで再会するとは思わなかったけど」

「じゃあ彼氏じゃないんだ?」

「違います」

「これから彼氏になる予定は?」

「ありません」

「えー、同級生と職場で再会なんて運命的なのにー」

 なにがなんでも俺と兵頭をくっつけたかったらしいが、いくら積まれたところで問屋にも卸さない。心底つまらなそうに茅野さんは頬を膨らませる。

「月夜先輩は、そういうお相手はいらっしゃるんですか?」

 北山さんが尋ねる。興味があってというよりはおそらく話題を逸らしてくれたのだろう。

「今はいなーい。女子大って合コンのお誘いは多いけど、そう言うとこに来る男ってハズレが多いんだよねぇ」

「そうなんですか」

「紫は? 可愛いんだから引く手数多でしょ?」

「生憎。女子校育ちなもので、そういうのには全然縁がなくて」

「女子校! お嬢様っぽいもんね」

 恥ずかしそうに北山さんは首を振ったが、それに関しては俺も同意出来る。さすが名門女子大だけあってキャンパスにはお嬢様らしい学生が多いが、北山さんと碇屋さんは群を抜いて育ちが良さそうだ。縁がないということはそういう相手も今の所居ないということだろう。……別に俺には関係ないけれど。

「気を付けなよぉ、一年女子なんてカモだよカモ。油断するとすーぐロクでもない男が寄ってくるからね」

「はい、気を付けます」

 ……というか、なんでこの子はそんなに合コン事情に詳しいんだ? 疑問に思って尋ねると、茅野さんは「昔取った杵柄ってやつ?」と悪戯っぽく笑う。

「あ、こんな話紫にしたって夕子センパイには内緒にしてね。また叱られちゃう」

 まだまだ深くまで理解したとは言えないけれど、自主ゼミ員の力関係は徐々に見えて来た。とりあえず今度から茅野さんが暴走したら碇屋さんに報告することにしようと心に決めて、すっかりぬるまってしまったお茶を啜った。

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