第10話 自主ゼミ開講
「あっはっは! 華センパイってば、まーた転んだの?」
「月夜ったら、そんな風に笑ったら可哀想よ」
研究室の中には既に自主ゼミ員が集まっていた。そして、てっきり新入生だと思っていたリスの彼女は驚きの四年生であることが判明した。
「こんにちは! 茅野・J・月夜、三年生です!」
「はじめまして光瀬先生、マスター一年の碇屋夕子です」
「……末松華、四年生です、すみません……」
個性溢れる自己紹介に、俺も「光瀬真琴です」と会釈を返す。
茅野さんは赤いセルフレームの眼鏡を掛けた長身の女の子で、イギリス人のお母さんを持つハーフだという。日本人離れしたはっきりとした目鼻立ちとジェニファーと言うミドルネームを持っているものの、生まれてこの方日本にしか住んだことがないので日本語しか話せないらしい。
片や碇屋さんは真っ黒なストレートヘアが印象的なお嬢様然とした日本的な美人で、丁寧でゆったりとした言葉遣いの端々にいかにも育ちの良さが透けて見える。今日はふんわりとした白いワンピースを着ているが、おそらく一番似合うのは着物だろう。
「ええと、伊藤教授から聞いてるかもしれませんが、私もこれから中古自主ゼミに参加させてもらうことになりました」
「はい、伺っております。今後ともよろしくお願いします」
「ねえせんせー、今いくつ?」
ずい、と茅野さんが机に身を乗り出す。春先だというのに胸元がぱっくり開いた服を着ているため谷間がすごく強調されている。女子にほとんど免疫のない俺には凶器でしかない。視線を逸らしながら曖昧に答える。
「あ、ええと、二十七歳です」
「そうなんだー! 真琴ちゃん美人だねー、大和撫子って感じ!」
「月夜、先生でしょ」
「そうでした! 光瀬先生!」
茅野さんと碇屋さんの会話の只中にあって末松さんは口数も少なく俯いている。気分でも悪いのだろうかと覗き込むと、目が合った彼女は顔を赤くして茅野さんの後ろに隠れてしまった。
「ごめんなさい、華は極度の恥ずかしがり屋で……初対面の人が居るといつもこうなんです」
「人見知りなんだよねー、華センパイは」
「……」
今日は俺と新入生がやってくるということで末野さんはずっと緊張し通しだったらしい。なるほど、だから部屋の前でリスになっていたということか。
「……そういえば、新入生の子は?」
「まだなんです、みちるがロビーまで迎えに行ったんですけど……」
「みちる?」
「ええ、もう一人の四年生です。結構時間も経つのに帰って来なくて」
「また捕まってるんじゃないのー?」
「捕ま……?」
今日ここに集まる自主ゼミは四人。入院中だという二年生を含めればフルメンバーで五人らしい。わざわざお昼休みを潰してまでゼミに集まるような女の子達だから真面目な子ばかりだろうと思っていたが、中々どうしてキャラクターが濃ゆそうだ。ここに普段ならばあちゃんが加わるのだから、一筋縄では行かないだろうことが簡単に予想がつく。
ひとまず先に皆で昼食をとっていると、ふと研究室前の廊下がざわついていることに気が付いた。きゃあきゃあという華やかな声はどことなく黄色い。その賑やかさはなんだか男性アイドルを前にしたファンの歓声のようだ。
「ああ、来たわね」
「……」
「え?」
碇屋さんが立ち上がり、扉を開く。研究室前の廊下には目を疑うほどみっしりと女子学生が鈴生りになっていて、思わず飲んでいたお茶を吹き出してしまった。
「えー、みちるくん行っちゃうの?」
「寂しいよぉ」
「一緒にご飯食べようよー」
「はは、ごめんね。火曜日はどうしても駄目なんだ」
追いすがる学生達の視線の先には、一人の男子の姿がある。恐ろしく整った顔立ちにジャケットにジーンズという格好が高い身長に良く映える。手足も長くそんじょそこらの芸能人よりよほど格好良い。ご丁寧に一人一人の頬を撫でてから、彼は「また今度ね」と颯爽と研究室の中に入って来た。……なんだ、この超絶プレイボーイは。
「遅れてすみません、先輩」
「遅れるのは構わないけど、女の子達は連れて来ちゃだめよ。先生方のご迷惑になるから」
碇屋さんに優しく諌められ、イケメンは肩を竦める。
「でも、皆が勝手に着いて来ちゃうんですよ」
「それをなんとかするのがあなたの仕事よ」
「はい、気を付けます。……あれ、この人は?」
視線がぶつかってしまった。口元のお茶を拭いつつ、ぺこりと会釈をする。
「今日から自主ゼミでご指導くださる光瀬先生。伊藤先生の後任をしてくださるの」
「ああ、あなたが」
俺が立ち上がるよりも前に彼が目の前に降りてくる。戸惑っている内にするりと手を掬われた。ちょうど、跪いた騎士が姫君に挨拶をするような態勢だ。ぞわりと背筋に変な汗を掻く。何度も言うが、女装にそれなりの自信があっても骨格が出やすい手には自信がない。直接触れ合ってしまえばごつさに気付かれてしまう危険性がある。懸命に指を外そうとするが、そっと重なった両方の掌が優しく俺の右手を拘束する。
「あ、あの」
「はじめまして、諸見里みちるです。よろしくお願いします」
「よ、よろしく……」
お願いしますと言うより先に、口から心臓が飛び出そうになった。手の甲に生暖かい息が掛かって、彼がしようとしていることに気が付いたからだ。悲鳴を上げながら唇が触れそうになる直前に慌てて手を振り払う。
「ちょ、ちょっと!」
「あれ、お気に召しませんでしたか?」
心底不思議そうな顔をする彼に大声で突っ込んでやりたい衝動に駆られる。どこの世界に初対面の男にキスされそうになってお気に召す男が居るものか!
「……ん?」
ちょっと待て。自分の思考回路にバグを見つける。……初対面の、男?
彼はどこからどう見てもイケメンの大学生だ。確かに日文の学生比率は女子の方が高いが、男子学生だって居ない訳ではない。九年も大学に居た俺が良い例だ。別におかしなところは……いや、違う。問題はそこではない。そもそも、ここは女子大じゃなかったか?
「女だよ、みちるセンパイ」
俺の思考に答えてくれたのは昼食のメロンパンを頬張っていた茅野さんだ。
「どっからどう見てもただのイケメンだけど、この人一応女子だから」
「ただのイケメンって……失礼だな、月夜は。これでも日々の努力の賜物なんだよ」
一応女子という言葉については不問に処しているらしく、彼……いや彼女はぷくっと頬を膨らませた。
「だ、男装してるってこと……?」
女子なのに男子にしか見えない。自分のことを差し置いて、目の前の性別不詳の生命体に戦きつつ俺は尋ねた。
「ああ、別に男になりたいとかじゃないですよ、こういう格好の方が楽なのと、単に女の子にキャーキャー言われるのが好きなんです」
諸見里さんは爽やかに言い放った。聞けば、彼女は男性用雑誌(!)の読者モデルもしているらしい。他校からの追っかけも居るので夢を壊さないようにと普段からこういう格好をしているのだという。気性の良く似た某悪友が脳裏をよぎる。あれの女好きも筋金入りだと思うが、女子にキャーキャー言われるのが好きだと言い切ってしまう女子もなかなかのものだ。
「華、おまたせ。ご飯食べよう」
「……うん」
諸見里さんがそう声を掛けると茅野さんの後ろに隠れていた末松さんがおずおずと姿を見せた。人見知りの女の子とイケメンとでは正反対のタイプに思えるが、同じ学年だけあって仲が良いらしい。
「あの二人、幼馴染なんだって。、みちるセンパイってば高校まで理系コースだったくせに、華センパイが心配だからって一緒に日文に入学したらしいよ」
「へえ……」
「あら? そういえばみちる、新入生は?」
「え?」
末松さんが広げたお弁当を一緒に突つきつつ、諸見里さんはきょとんと首を傾げる。
「しまった。女の子達の中に置いて来ちゃった」
「ええ、そんな」
どうやら先ほどの人だかりの中に混ざって自主ゼミの新入生が居たらしい。見た感じ諸見里さんファンクラブしか居ないように思えたが……一体どこに居たのだろう。
「すみません先生、私ちょっと迎えに行って来ますね」
「あ、じゃあわたし行ってくるよ」
「そんな、先生にお手間をかける訳には……」
「いいよ、正直ちょっと外の空気も吸いたいし」
「え?」
「あ、いや、なんでも」
ものすごく素直な発言と共に席を立ち上がる。この短時間で自主ゼミ員の構成と関係性が全部分かってしまって胃もたれ気味だった。
「諸見里さん、その子の名前は?」
「ええと、なんだったっけな」
「ちょっと」
「南……いや、北……北川……」
「……」
まあ、行けばなんとかなるか。答えを聞くのを諦めて扉を開いた――瞬間。
「きゃっ」
「うわっ!」
思わず同時に悲鳴を上げてしまう。扉のすぐ真ん前に、一人の女の子が立っていた。
「ごめん、人が居るなんて思わなくて……」
見覚えがあった。
紅茶色の髪も、同じ色のアーモンド型の瞳も、街を歩けば十人中八人が振り返ってしまいそうな美少女ぶりも。透き通るような白い肌に少しだけ頬が上気しているのが分かって、俺は思わずそのピンク色をまじまじと見つめてしまった。
「……あの?」
無言の俺を不審に思ったのか、彼女はきょとんと首を傾げた。
「中古自主ゼミの場所は、こちらですか?」
「あ、ああうん、そうです」
「良かった、一時はどうなることかと」
にこ、と花が咲くように微笑む。間違いない。記憶にある笑顔だ。俺は彼女とどこかで会っている。
あれは確か。
「……この間、授業で」
「はい、中古文学史ではお世話になりました」
やはりそうだ。俺の初めての授業の時にマイクの調整をしてくれた女の子。あの日以来さすがにマイクの扱いにも慣れたので、彼女にご登場頂いたことはなかったけれど。お世話になったなんてとんでもない。むしろそれは俺の方だ。
「えーと……」
「北山です。北山紫」
一瞬だけ脳裏のどこかでその名前が引っかかる。きたやまゆかり。きたやま。
しかし、その正体を掴む前に気配はするりと姿を消した。
「北山さん、折角迎えに行ったのにごめんなさい。ゼミ長の碇屋です。よろしくね」
碇屋さんに倣ってそれぞれが自己紹介をして、最後は俺にお鉢が回って来た。
「ええと、光瀬真琴です。この間はどうもありがとう」
「いいえ、とんでもない。こちらこそ出しゃばってしまって」
「ううん、助かったよ。ありがとう」
一人欠けてはいるものの今期の自主ゼミ員が全員で顔を合わせ、碇屋さんの音頭で今期の簡単な活動内容について決めることになった。
この自主ゼミでは三ヶ月で一つテーマを定め、持ち回りでレジュメを作成し発表するというのが慣例らしい。参考までに去年の話を聞けば、藤原道綱が夫の浮気を嘆く描写が有名な『蜻蛉日記』や藤原定家が書いたと言われる『松浦宮物語』などを取り上げたという。後者に関しては厳密に言えば中世文学に属するが、さすが授業とは関係のない自主ゼミだけあってある程度自由が効くらしい。
「今期はどうしましょうか」
「最近ちょっとマニアックだったし、王道に戻してもいいんじゃないですかー?」
「賛成、せっかく可愛い新入生も入ったしね」
「……わ、私も、そう思います……」
「王道……っていうと、『夜の寝覚め』とか?」
「夕子センパイの王道はマイナーなんだって。ここは一つ目先を変えて説話はどう? エログロ満載の『日本霊異記』とか!」
「華は? なにがいい?」
「えっと……私は、その、……西行の『山家集』みたいな私家集についてやりたいなって……」
「じゃ、私もそれで」
「みちるセンパーイ、自分の意見を持とうよー」
「……」
学年や個性はバラバラでも、四人はさすがに息があっている。あれはどうだこれにしようと次から次へと飛び出る平安文学のタイトルの数々に、思わず心が躍ってしまった。
教壇から見る大教室は広そうで意外と隅々にまで目が行ってしまうものだ。そりゃ俺の講義は未熟で面白くないと思う。けれど、寝たり携帯電話をいじっていたりあからさまに違う作業をしていたりという学生を見つける度、なんだかちょっとずつ精神力がすり減って行く気がしていた。……だから、という訳ではないが、楽しそうに平安文学の話をしてくれると嬉しい。自分が好きなものを好きだと言ってくれる人が居たら嬉しくなってしまう。我ながら簡単な精神構造をしていると思うが、こればかりはどうしようもない。ぽんぽんと繰り広げられる会話を見守りながら、俺は隣に座った北山さんにそっと話しかけてみた。
「北山さんは、なにか好きな話はある?」
「私ですか?」
俺同様目の前のやりとりを静かに見守っていた彼女はうーんと考え込む。
「やっぱり、源氏物語が好きです」
個性豊かな登場人物、煌めく恋物語、息もつかせぬストーリー展開。……繰り返し現代語訳され漫画や映画にも取り上げられ、千年経った今もなお読む者の心を掴んで離さない。平安文学で一番有名な話は? という質問をした時に、間違いなく最大多数の答えが返ってくるのは源氏物語だろう。
「皆さんに比べれば全然知識が足りないので恥ずかしいんですけど……」
「……恥ずかしくなんかないよ」
ぽつんと呟く。だって、俺も。
「わたしも、源氏が一番好きだから」
ばあちゃんのおかげで源氏物語に出会って、平安文学に出会って、俺の人生は変わった。なんの因果か女装をしてまで研究に携わっているのだから、その影響力たるや凄まじいものがある。これまで沢山の研究者達がその真理を追い求めて来たが、見方を変えればいかようにも変えられる多様性を内包していて、研究をすればするほど違う姿を見せてくれる。理系のように結果も結論も出ない学問だからこそ、辿り着く場所は果てしなく深いのだ。
「じゃあ、今回のテーマは源氏物語にしましょうか。光瀬先生と北山さんの歓迎の意味も込めて」
にっこりと笑った碇屋さんの言葉に、全員が頷いた。
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