第9話 新たな指令
働き始めておよそ二週間。
講師デビューは残念な結果に終わったものの、もう一つの懸念材料である女装がバレることは一切なかった。
俺は文学部の新しく来た講師(♀)として教授陣や事務の人たちから暖かく迎え入れられ、ありがたくはあったが男としては手放しで喜べないというなんだか複雑な感情のまま日々を過ごしていた。
目尻に入れるアイラインも失敗することはなくなったし、ビューラーで目蓋を挟まなくなったし、コンタクトを外すのも鏡無しで出来るようになった。つくづく慣れとは恐ろしい。
突如ばあちゃんに呼び出されたのは、そんなある日の昼下がりのことだ。
「……自主ゼミ?」
机を挟んで相対したばあちゃんは「そうなの」と頷く。
「毎週火曜日のお昼休みに私の部屋に集まって行ってるゼミなんだけど」
「卒論のゼミとは違うの?」
「自主ゼミは授業とは関係なくて、希望者なら誰でも入れるのよ」
「へぇ、そんなのあるんだ」
最近では卒論がない大学もあると聞くが、帝国女子大学ではどの学部でも必ず四年時に必修の卒業論文がある。三年の段階で教授を選び、先輩の発表を聞きながら一年かけてテーマを決めてじっくりと準備をするという昔ながらのスタイルに好感が持てたが、イマドキの女子大生にとってそれは喜ぶべきことではないらしい。卒論など無くてもきちんと授業に出て単位が足りていればいいじゃないかという意見も分からなくはないが、せっかく文学部に入ったのなら一生に一回くらい真剣に文学と向き合ってみてほしいものだ。
聞く所によると希望者なら学年を問わず入れるという自主ゼミは現在のところ五人だという。ティーチングアシスタントを務めている大学院生が一人、四年生が二人、三年生が一人、そして不幸なことに春休み中に病気を患い入院中だという二年生が一人。単位も学年も関係なく全員が好きなように好きな平安文学の研究をして発表しているなんて俺にとってはまるでワンダーランドのような空間だ。聞くだけでそわそわと胸が躍る。
「でね、今年の新入生で一人、入会を希望してくれた子がいるんですって」
「ふぅん」
まだ届け出は出ていないものの、日文研究室にその旨希望があったらしい。あの大教室の中で自主的にゼミに入る子が居るとは。一体どの子だろう。
「実は、そのことで真琴にお願いがあって」
「なに?」
「その子、早速明日来てくれることになっているんだけど、私ちょっと出張が入っていて昼前から出掛けなくちゃいけないの」
「俺に面倒を見ろ、と」
「『わたし』でしょ、真琴ちゃん?」
「……わたしが面倒を見れば良いの? おばあちゃん」
「ええ、その通りよ」
呼び出された時から正直そんなところだろうと思っていた。そして当然のように俺に拒否権は存在しない。
「ついでに自主ゼミの皆にも挨拶しておいて頂戴ね。これからは真琴がメインで運営して行くことになるから」
ばあちゃんは学会などで全国を飛び回ることも多く、授業のほとんどを俺に明け渡して最近では大学にもあまり来ていない。無責任と言えば無責任だが、本来大学の学長とはそういうものだ。教育現場のトップである以上やることは湯水のように沸いて来る。ばあちゃんのように少しでも講義の時間がある教授の方が珍しいのだ。
「了解」
手を挙げると満足そうにばあちゃんが微笑んだ。
「うちの孫は物分かりが良くて助かるわ」
「おかげさまで」
「どう? もうここの生活には慣れた?」
生活全般のことなのか講師生活についてなのか、それとも女装という意味なのかは分からない。しかし、全部ひっくるめて答えは「イエス」だ。
女子トイレに入ることだけは最後まで抵抗があったが、男と違ってすべてが個室なので音さえ流しておけばなんとかなるものだ。
「この間ね、上代の館林先生に『美人で優秀なお孫さんで羨ましいわ』って言われちゃった」
「それはどうも……」
館林先生は四十代半ばのマダムだ。いつも穏やかで優しい人だがご多分に漏れず女子大教育原理主義者なので話す時は必要以上に距離を取ることにしている。どんな理由であれ嬉しそうなばあちゃんを見るのはやぶさかではないけれど、だからと言って諸手を上げて喜ぶことも出来ないのが辛い。角が立たない程度に笑ったところで、午後の授業が始まる予鈴が鳴り響いた。
「じゃあ、次も授業だから」
「ええ、またね。たまにはご飯食べにいらっしゃい」
「うん。近い内に行くよ」
じゃあと別れを告げ、俺はばあちゃんの研究室をあとにした。
次の日。
「……」
弁当を片手に約束通りばあちゃんの研究室に出向くと、やけに小柄な女の子がドアノブを掴んだり離したり、あっちに行ったりこっちに行ったりとうろついていた。
俺が見下ろせるくらいの大きさということは百四十センチ台だろうか。落ち着きのないその様子はさながらどんぐりを探すリスのようだ。
もしかして、この子が自主ゼミに入会希望だという女の子だろうか?
「……あの」
「ヒッ」
女の子が飛び上がった。比喩的表現ではない。ありのままの事実として、床上から十センチほど浮いたのだ。短く悲鳴を上げた彼女はそのままドアに背中を張り付け俺と向かい合わせになった。
記憶力は悪い方ではないはずだが、そばかすの散った小さな顔に見覚えはない。ええと、と言葉を探すと、突然彼女が深々と頭を下げた。
「す、すみません! こんな所に立ってたら邪魔ですよね、すみません!」
「え、あ、いや」
こんな狭い空間で大声を出されるのはまずい。新人講師が学生に頭を下げさせていたなんてばあちゃんの耳に入ったらどうなることか。慌てて俺は手を振る。
「だ、大丈夫、あの、ひとまず落ち着いて」
「すみません、すみません……! あの、すぐどきますから……!」
「あ」
危ないよ、と注意する間もなく、彼女は見事にロングスカートの裾を踏んづけ、そして。
「ひゃあ!」
俺の目の前で、盛大に転んだのだった。
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