第8話 戦の後もまた戦
「みーつせっ」
授業後、講師室の自分の机で項垂れていると、やけに楽しげな兵頭が顔を出した。応える元気はない。軽く手を挙げるだけに留めておく。
「なんだよ元気ねぇなぁ、初授業、うまくいかんかったの?」
「……いや、大量の女子大生と戦って憔悴してるだけ」
初回ということもあって、今回はまず万葉集などの上代の作品群に軽く触れつつ、中古までの移り変わりを時代背景と共に見るというのが授業の内容となった。
上代における文学とは、まず中国から文字が伝来したことによる口承文学から記載文学へ発展が大きな特徴だ。七百年代後半に編纂されたと言われている万葉集には額田王や柿本人麻呂など有名な歌人の歌が収録されているが、それらはすべて『万葉仮名』と呼ばれる特殊な文字で書かれている。まだ仮名文字が発明されていなかったので、漢字の意味や音で言葉を当てはめて表記されていた。男性風と呼ばれる『ますらをぶり』という言葉に表されるように万葉集は現実に密着した感動を具体的に表現した歌が多く、宮廷歌人だけでなく民衆の気持ちを歌ったものと言われる東歌や防人歌なども残されていて……と、まぁそんな風に丁寧過ぎる説明を施していたらあっという間にチャイムが鳴った。
自分が喋る九十分というのは思いのほか短く、慌ててまとめに入ったが結局五分程度授業を延長してしまい、学生達からは「初回から延長とかマジないわ」「つかこれ平安関係なくね?」などと文句も聞こえ、撃沈している。
「まーまー、いつまでもヘコんでないで。ほら、飯でも食おうぜ」
ドサ、と目の前に置かれたのは仕出し弁当と缶のお茶だった。そういえば昼食なんて買ってこなかった。ちょうどよく腹の虫も鳴き、ひとまず休戦して目の前の飯を食べることにする。輪ゴムで無地の熨斗紙を挟んだだけの簡素な包装を剥がして、弁当を前に両手を合わせた。
パンフレットやホームページでこの学校の沿革や建学精神などを繰り返し勉強して来たものの、それは役に立たないということが今日はっきりと分かった。
当たり前だ。女性の社会的地位が圧倒的に低かった時代とは訳が違う。帝女に通う学生たちは女性の社会での活躍云々という帝国女子大学の理念に共感したのではなく、親に薦められて、あるいは自分の偏差値と相談をして普通に受験をして入って来たイマドキの女の子たちなのだ。日本文学科にだって純粋に日本文学を学びたくて入って来た訳でもない。そうでなければ、いくら俺が教え慣れていない新人講師とは言え四月の一発目の授業で筆記用具すら出さないという暴挙には出ないだろう。
別にそれを責めるつもりも悲嘆するつもりもない。平安文学にさえ触れていれば幸せだという俺がマイノリティだということも分かっている。
ただちょっと、それをまざまざと見せつけられて心が折れかかっているだけだ。
「……なあ、兵頭」
「んー?」
「おまえって、なんでここで働いてんの」
「えー? なによ薮から棒に」
「だって、女子大だぞ。右見たって左見たって女子しか居ないの、つらくないのか」
「別に? ってかむしろ天国じゃね?」
「そもそも広告会社が第一志望だったんだろ。事務職員じゃ業種がまるで違うじゃないか」
「んー、まあ確かにそうなんだけどさ」
兵頭はきんぴらを摘みながら呑気に答える。
「別に、したいことがあったって訳じゃなかったし。ただ広告会社ならモテそうかなって思っただけ。狭き門だし、最初から受かる気はしてなかったんだけどさ。で、ここの事務職員受けたのは女子大生と合コン出来るかなーって思ったから」
「……それ、どれくらい本気で言ってんの、おまえ」
「うーん、八割くらい?」
ほぼじゃないか。俺が採用担当なら絶対にこんな危険人物採らない。
「いやさ、前は学生課だったんだよ。学生課ってあれな、下宿とか課外活動とかのお世話するとこ。だからデートにも誘い放題だったし合コンもし放題だったんだけど、うるさ方のばあさん共にバレちまってさぁ。研究支援課に来たのは3ヶ月くらい前かな。学生と絡みがない部署ってことで、人事の時期でもないのに俺だけ辞令がでちゃって。知り合いもいねぇし特に文学部なんて教授もババァばっかだし超つらかった」
「自業自得だそんなもん」
「そうだけど! でもさ、光瀬がここに来てくれてすげー嬉しいんだ。友達と同じ職場とかレアじゃんか」
「……」
言ってやりたいことは多々あったが、友達という言葉に毒気が抜かれた。
女好きで軽薄でちょっと考えが足りない奴だが、高校時代のクラスメイトを社会人になった今もなんのてらいもなく友達と呼べるコイツが居てくれて気が楽になったのは確かだ。
「本当はSNSとかで報告したいんだけど、名前出したらまずいんだろ?」
「勘弁してくれ。どこからどうバレるか分からない」
「大丈夫だと思うんだけどなぁ。写真上げる訳じゃないしさ、別におまえが女装して講師やってるなんて誰も……」
――コンコン。
次の瞬間、漫画のようなタイミングでノックの音がして、慌てふためいた兵頭が何故か机の下に身を隠した。お前が隠れてどうするんだと思ったがさっきまでの悪行を聞けばそれも仕方ない。声と格好を整えおそるおそる返事をする。がちゃんと扉が開いて入って来たのは、二人の女性だった。
「光瀬先生、お疲れさまです」
「あら、戻ってたのね真琴」
「お、お疲れさまです、本村さん、雪先生」
二人は文学部の講師で、俺と一緒にこの部屋を使っている言わば同僚だ。
本村葵さんは史学科の講師で俺より二つ下の二十五歳、六条雪先生は英文科の講師で年齢は俺のちょっとだけ上(本人談)。小柄で銀縁眼鏡の似合う才女タイプの本村さんと、抜群のスタイルの持ち主で真っ赤なルージュが似合う妖艶な雪先生は見た目からして正反対だが、二人とも新入りの俺に良くしてくれる面倒見の良い優しい先輩だった。
「ねえ、今誰かと一緒に居た? 話し声が聞こえた気がしたんだけど」
「あー……ええと」
どうやら話の内容は聞こえていなかったらしい。ほっと安堵の息を漏らしつつ、ちらりと足下を見遣る。が、そこはもう既にもぬけの殻だった。素早い身のこなしで机の下を抜け出した兵頭は、いつの間にか本村さんの前に立ちはだかっている。
「葵ちゃん、久しぶり。ねえ、この間のデートの話考えてくれた?」
「どうしてあなたがここに居るんですか、兵頭さん」
「やだな、葵ちゃんに会いに来たに決まってるじゃない」
「そういう軽薄な言葉は慎んで下さいと言ったはずです」
「もう、照れ屋さんだなぁ葵ちゃんは」
「名前で呼ばないで。煩わしい」
本人から直接聞いた訳ではないが、どうやら兵頭は本村さんに気があるらしい。
そしてこちらは確認するまでもなく、本村さんは兵頭のことを毛嫌いしている。
肩までの黒髪をきゅっと一つに結んだ彼女は見た目通り真面目な性格で、品行方正な優等生がそのまま成長して社会人になったような人だ。中でも軽さの代名詞みたいな男の兵頭なら、より一層拒否反応が出るのだろう。
この攻防は兵頭が研究支援課に異動になった直後から続いているらしい。知り合いもいなくてつらかったと嘆いていた割に本村さんにきっちりアプローチをしていた辺り、さすがというかなんというか。
「諦めないわねぇ、兵頭君」
くすくすと面白がるように隣の雪先生が笑う。
「女子校育ちの男嫌いと男子校育ちの女好きだものね。噛み合わない訳だわ」
「あの、これ、止めなくていいんでしょうか」
「大丈夫よ、その内治まるから」
けっして冷たい人ではないのだが、世慣れた雪先生はこういった騒動も一歩引いた所から観察して面白がっている節がある。お陰で仲裁のお鉢が廻って来るのはいつも俺だ。
「あら、二人でお弁当食べてたの?」
「あ、ええと、はい」
「兵頭君、葵の次は真琴を口説くつもりなのかしら」
雪先生の言葉に、本村先生を追いかけながら兵頭は「違いますよ」と胸を張る。
「今は俺、葵ちゃん一筋ですもん」
「その割に、随分真琴にも優しくしてるじゃない」
「そりゃそうですよ、実は俺たち高こ……いっ!?」
兵頭のサンダルの隙間から思いっきりヒールを突き立てた。
「……そういうんじゃなくて、ただちょっと、提出する書類関係のことで兵頭さんに教えてもらってただけです」
「あら、そうなの。三角関係になるかと思って期待したのに」
「気を付けて下さいね、光瀬先生。その人、学生達に次々に手出して左遷されて来た要注意人物ですから」
「違うって、誤解だよ葵ちゃん」
「寄らないでください、気持ち悪い」
「じゃ、私はそろそろ行くわね。下で人を待たせてるから」
追いすがる男と突っぱねる女と無関係な俺を残し、雪先生は颯爽と講師室を出て行く。フランスからの帰国子女で有名企業の社長令嬢だという彼女は『ボーイフレンド』と名の付く存在が両手の指ほど居るらしい。兵頭曰く『あの人はいくらなんでも敷居高すぎ』。ランチはいつも彼らの送迎付きで銀座や青山まで食べに行っているという末恐ろしさだ。
「もういや! 私、あなたなんて嫌いだって言ってるじゃないですか!」
兵頭に追いかけ回されて逆上した本村さんはいつの間にか俺の背後に回り、ぎゅっと抱きつくように腕に縋る。ひ、と思わず声が漏れそうになるのを懸命に堪えた。
「私は光瀬先生みたいな落ち着いた女性が好きなんです! 近寄らないで下さい!」
「ええー、そんなぁ」
「はは……」
幸か不幸か、俺は本村さんに気に入られているらしく、こうしてこんな風に密着されることがままある。指を握られたり真下から顔を覗き込まれたり背中に寄り添われたりするのだが、その度に不安になるのだ。
(もし男だと知られてしまった時、俺は社会的に死ぬ前にまず本村さんに殺されるんじゃないだろうか)
授業中も、休憩中も。
やはり女装講師に心が休まる時間などありはしないのだ。
食べかけのお弁当を見下ろしつつ、俺は苦笑いと共に重いため息を吐いた。
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