第7話 初授業

 入学式を終え、新入生達が一通りのオリエンテーションを済ませた四月十日。

 俺は、ついに運命の日を迎えた。


「光瀬真琴、です。み、皆さんよろしくお願いします」


 すり鉢状になった大教室にずらりと並んだのはおよそ二百人の女子大生。教壇で挨拶をするとこちらに向けられた視線が一斉に俺に突き刺さって、情けなくも足が震えた。

 我ながらヘタレだと思う。だが言わせて貰いたい。

 怖い。女子大生超怖い。

 見渡す教室の半分以上は茶髪で、更にその半分は巻き髪。ただでさえ女子に免疫が無いのに、いきなりこれでは尻込みもするというものだ。

「か、カリキュラム表とは違いますが、伊藤教授の代わりに私がこの中古文学史を受け持つことになりました。ふ、不束者ですが、一年間どうぞよろしくお願いいたしましゅ」

 くすくすとささめくような笑い声が広がり、噛んだ、と教室のそこここから囁かれた。恥ずかしさで頬が熱くなる。死にたい。なんで俺はこんな大人数の前で女装しているんだろう。

 ……そもそも最初に受け持つ授業が大学内で一番広い教室だという辺りに無理がある。しかも日本文学科の一年生全員の必修の授業ともなれば、もう拷問でしかない。

『教科書に沿って文学史を説明するだけだもの、簡単でしょ?』

 ちっとも簡単じゃないよばあちゃんこんちくしょう。

 気軽に言ってくれた祖母に脳内で悪態を吐きつつ、俺は一度大きく深呼吸をする。

 確かに、講義の内容自体はそこまで難しくはない。それこそばあちゃんの言う通り教科書に沿って説明をすればいいだけだ。

 ヘタレだという自覚はあるが、大学院生だったのだから一応研究発表やら学会やらで人前で話すことには慣れてはいる。しかし、それは自分より知識のある人たちに向けての発表だ。こういう風に圧倒的に知識のない人たちにゼロから物を教えるということは初めて……いや、いつだかの家庭教師以来で、実は昨日は緊張でほとんど眠れなかったくらいだ。


「それでは授業を始めます。皆さん、テキストの三ページ目を……」

「せんせー」

「うわっ、はい!」

 体を竦ませると、再び女子大生たちから笑われた。声の主は大教室の真ん中くらいに陣取った巻き髪茶髪のちょっと太めのギャルだ。独特かつ少し濃い目の化粧がとてつもないインパクトを与える。

「な、なんでしょう?」

「聞こえないんでマイク使ってくださいー」

「ま、マイク?」

 すっかり失念していた。当たり前だ、こんな大教室での授業はマイクが必需品じゃないか。九年も大学と大学院に居て俺はなにをやっていたんだ。マイクマイクと学生に背中を向けうろうろ探していると、またもやくすくすと笑い声が聞こえる。もうなんだか公開処刑されている気持ちだ。ようやく黒板の右下にあった棚からマイクを見つけ、ほっと息を吐く。

 しかし、これで一安心だとマイクの電源を付けた――次の瞬間、突如けたたましいハウリング音が鳴り響いた。金属を引っ掻くような不快音が大音量で耳をつんざく。たまらず学生も俺も悲鳴を上げた。

「うるさーいっ!」

「なにこれ超音デカいんですけど!」

 いや俺も同感なんですけど!

 予想外の展開に慌てふためき、マイクの音量装置と思われるツマミを左右に動かしてみるがちっとも音が小さくなる気配はなく、むしろ大きくなったような気さえする。その間もスピーカーからは迷惑な音が鳴りっぱなし、鳴り止まないわ女子大生からの文句が凄いわで、教室は完全にパニックの渦だった。

 俺は、俺はこれからいったいどうしたら!


 しかし、鳴り出したのと同じくらい突然、その騒音は止まった。

 いつの間にか、俺の側には一人の女の子が立っていた。

 華奢な手には騒音の元だったマイクが握られている。思わぬ救世主の登場にぽかんと顔を見つめていると、にっこりと微笑まれる。  

「すみません、お困りのようだったので一度電源を切っちゃいました」

 淡い小花柄のワンピースにベージュのジャケット。鎖骨辺りまで伸びた紅茶色の髪はくるんと内巻きにカールされており、同じ色の瞳は綺麗なアーモンド型だ。形の良い唇が口角を上げれば清楚に笑顔を象って、柄にもなくどきんと胸が高鳴った。

「よろしければ、お手伝いしますね」

「あ、ありがとう……」 

 あまり女性の美醜に詳しい方ではないが、俺から見ても彼女がものすごい美少女であることが分かる。ふわりと鼻をくすぐる甘い香りに、頭にキンキンと響かない柔らかな声。鈴が鳴るというのはこういうことを言うのだろうか。彼女に和歌を音読してもらったらきっととても綺麗だろうなんて場違いな感想を抱きながら、ただただ彼女の作業する手元を見守っていた。

「これで、大丈夫だと思います」

 彼女にそう言われ渡されたマイクの電源を恐る恐るオンにするとハウリング音はもうしない。とんとん、と編み目の部分を叩くとちょうど良い音量で教室に響いた。

 呆然としたままお礼を言うと、いいえ、と微笑んで彼女はひらりと身を翻す。前から五列目、メイン通路のすぐ右側の席に着席するのを見送って、ゆっくりと深呼吸。 そして、ゆっくりとマイクに自分の声を乗せた。


『……それでは改めて授業を始めます。テキストの三ページを開いて下さい』

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