光瀬真琴(♀)、名のみことごとしく広まりたり

第5話 まさかの邂逅

 女として働くことを決めた俺は、大学院の卒業式まで、二ヶ月間に渡って東京のばあちゃんの家で寝泊りすることを義務付けられた。

 祖母と孫の楽しく愉快な時間を持つため……ではない。女性のなんたるかをばあちゃんとそのご友人からみっちり仕込まれるためだ。ご友人とはいつだかのブティックの店長さんだった。品の良い奥様だと思ったのも当然、彼女は副業でマナー講師もしているらしい。

 生きる大和撫子のばあちゃんとマナー講師の奥様によるコンボ攻撃で、俺は二ヶ月で見違えるほどの淑女教育を施された。

 普段は気にしないところにも男女の違いは出るらしく、箸の持ち方、ご飯の食べ方、ハンカチの使い方、着替え方電話の出方歩き方髪の梳かし方に至るまで、正しく出来るようになるまで延々とそれを繰り返すという苦行を課せられ、諸々の動作を俺は強制的に矯正させられた。別にうまいことを言った訳ではない。本当にそんな感じだったのだ。

 つらい日々だった。

 京都の一人暮らしの部屋はいつの間にか引き払われていて逃げ場はなく、元々ない体重も二キロ減ってしまい、更に華奢な体つきになった。それを満足そうな顔で見ているばあちゃんに心底恐怖を覚えたことは秘密だ。

 心配していた洋服やら鞄はばあちゃんが買い揃えてくれた。脚の形がはっきり出ないふんわりしたスカートをメインにストッキング着用を厳命され、それに伴い無駄毛の処理をマメにすることを義務付けられた。知る由もなかったが、世の中の女性は生足でスカートを履くのは女子高生までらしい。下着類に関してはぴっちり股間を押さえつける薄手ボクサーパンツを数着特注、あとはパット付きのタンクトップが何着も用意された。

 すべて合計するとおそらく俺の目玉が飛び出るほど高い金額になるだろう。が、ばあちゃんは決して教えてくれなかった。こうなれば、いよいよ働いて恩返しをしなくてはいけない。それを見越しての出資なら、俺の祖母は本当に策士だと思う。



 並行して、帝国女子大学についての勉強も行われ、資料だと渡された入学パンフレットにはこう記載されていた。


『帝国女子大学。明治三十四年、キリスト教の洗礼を受けた教育者・羽田野剛造によって設立された日本初の女子高等教育機関。男女の社会的不平等さが当然のものとして受け入れられていた時代から女性の可能性を追究し続け、女性が社会に出ても才能を発揮出来るように思考力と実践力を育み続けて来た。都心という立地条件に加え、創立からおよそ百十年を数える現在も伝統ある女子大学として保護者や企業からも絶大な信頼を勝ち得ており、特に私立女子大で唯一の理学部と、著名な教授を揃えた文学部の人気は高い』


 ……正直に言おう。実は俺は、帝国女子大学略して帝女のことを少し舐めていた。

 都内にはいくつか有名私立女子大が存在するが、帝女に関しては他と一線を画すデータがある。それが、『伝統』と『就職率』だ。大学全入時代と言われ新設大学が増える昨今において創立百年を越える大学はそう多くはない。それが女子大学かつ旧師範学校など前身を含めずという話になれば日本中でもたった二校だけになる。

 更に俺の度肝を抜いたのは就職率九十九パーセントという驚異的な実績だ。各業界に多くの卒業生が居ることと、女子大にしか来ない企業からの求人というのが強みらしいが、それにしたってとんでもない数字だ。こんな実績を提示された日には、娘の将来を案じる親御さん方はこぞって帝女に入学させたくもなるだろう。

 生徒総数二千人以上、都心のほか郊外にもう一箇所別キャンパスを持ち、総学部数は全部で四つ。更にそこから枝分かれした学科が十五ある。そのうち文学部日本文学科だけで人数は約二百名……。

 今更ながら、もしかして俺は結構とんでもないところに就職しようとしているのではないだろうか。しかも、女装という余計なオプション付きで。


 ばあちゃんはずっと一緒に住んでも構わないと言ってくれたが、さすがにそこまで世話になる訳にはいかず、俺は帝女まで歩いて三十分という絶妙な位置にマンションを借りることにした。私服より倍近くある女装道具と、学生時分よりも多少自由になる金額とを考慮した結果選んだのはウォークインクローゼットのついた1LDKの部屋だ。対面式キッチンという一人暮らしの男の部屋には無用の長物と思われる機能まで付いて来たが、そこはまあ目を瞑ることにしよう。

 帝女のキャンパスは文京区、豊島区、新宿区が隣接する都内でも有数の文教地区に建っており、他にも多くの学校がひしめき合っている。学生専用の住居も多いが、帝女生の場合は敷地内に建てられた寮や雑司ヶ谷の方面に部屋を借りる生徒が多いということで、俺は新宿寄りの西早稲田に新居を構えた。近くには有名私立の理工学部があるため近隣には男子学生の部屋が多い。俺としても四六時中女子学生に囲まれているよりそちらの方がいくらか気が楽だった。


 家具やら服やらを運び込み、そうこうしている内に日付は四月一日。

 俺……いや、『わたし』光瀬真琴は、記念すべき初出勤の日を迎えた。



「……よし」

 なんとか無事に辿り着いた正門前で俺は気合いを入れ直す。

 と言っても、今日は授業をしに行くわけではない。講師室に荷物を置きに行くことと、諸々の書類を提出しに行くことが主な仕事内容。いわば小手調べのようなものだ。 

 今日の格好は、シンプルな白ブラウスに丈の長い濃いオリーブ色のざっくり編みニット。白に近いパンツは細身だが腰回りにゆとりがあるタイプだ。ロングチェーンのネックレスにトレンチコートを羽織って、太めのヒールのパンプスを履いている。

 この二ヶ月、熟読した女性ファッション誌の冊数は延べ二十冊に及ぶ。勉強すればしただけ身に付く習性で良かったような、逆に恨めしいような。少なくとも家からこの格好で出て来た時に怪しむような視線は浴びなかった。

 以前ばあちゃんと来た時にも乗った事務棟のエレベーターに今度は一人で乗り込み、身体にかかる重力を感じながら目的地へ向かう。目指す先は五階、学務部研究支援課。まずはそこで採用に必要な書類を提出する。


「……あれ?」

 しかし、辿り着いた部屋には誰の姿も無かった。

 再度入口の名前を確認するがここで間違いない。いかにも事務室といった風情だが、『受付』とご丁寧に札が置かれた窓口から呼びかけてみても返事はなかった。中庭に面した大きな窓にはブラインドが降ろされ、十脚ほど向かい合わせに並べられた机は一つを除いて綺麗に片付いている。土曜日であっても誰かしら出勤していると聞いていたのに、いったいどこへ行ってしまったのだろう。

 身を乗り出して、一度咳払いをしてから注意深く声帯を細める。地声よりも高い音を出すためだ。勿論ばあちゃんたちから仕込まれた技術だ。

「すみませーん、どなたかいらっしゃいますか」

「はいはーい! 今伺いまーす!」

 部屋の奥の、半開きになったドアの隙間から軽いノリの返事が聞こえた。どうやら職員に若い男がいるらしい。

「すいません今ちょっと飯食ってて! すぐ行きます!」

 なんでこんな時間にもう飯食ってんだよ。

 心の中で突っ込みながら、職員が来るまでに必要な書類をカウンターに用意しておく。

「はーい、お待たせしましたー」

 部屋から出てきたのは予想通りというかなんというか、茶髪のチャラい兄ちゃんだった。見た目は二十代後半で俺と同じくらい。いかにも遊んでますというような軽めの容姿に適当に着崩したスーツ、ついでにたれ目。腕のアームカバーだけが事務員らしいポイントだった。

「すみませんね、なんの御用でしょ?」

「あ、この書類、ここに提出するって聞いて」

 差し出した書類を見て、兄ちゃんは不思議そうな顔をする。見たことがないのか、何度も顔に近づけたり遠ざけたりして、一向に受理してくれる気配がない。

「んー? お姉さん、学生じゃないですよね?」

「え、あの、先日講師として採用された者なんですが……」

「ああ! 学長先生のお孫さん!」

「……そ、そうです」

 心得たといわんばかりに兄ちゃんがパンと手を鳴らした。音がでかい。ついでに声もでかい。

「はいはい、伺ってますよ。……ってことはこれ課長行きの書類かなぁ。すみません、俺配属されたばっかで難しい書類とかよく知らなくて。でも学長先生のお孫さんがいらっしゃるのは聞いてました! いやー、想像よりお若くて綺麗な方なんでびっくりしちゃいましたよ!」

「はは、どうも……」

 バレずに済みそうなのはありがたいが、同い年くらいの野郎にお若くて綺麗などと言われても素直に喜べない。返答に困って、とりあえず曖昧に笑っておく。

「えーと、確かお名前が、光瀬……真琴先生?」

 兄ちゃんは再び書類に目を落とし、俺の字をなぞる。

 そして、ぴたりとその動きを止めた。

「光瀬真琴?」

 突然表情を変えた兄ちゃんは勢い良く俺の顔を覗き込む。

「みつせ、まこと……?」

 なんだ、急にこいつはどうしたんだ? 

 今にも飛びつかれそうなリアクションに身を引くが、相手も負けじとカウンターの向こうから距離を詰めて来る。

 ……しかし、俺自身にも何故かそいつに見覚えがあった。

 軽そうな、女の事しか考えてないようなその顔を人生のどこかで拝んだような気がする。最近、ではない。研究に没頭していたため大学で親しい友人付き合いなどして来なかった。

 ではいったいどこで? 

 フル回転で必死に記憶を辿り、人生の走馬灯を猛スピードで回し切って、ようやくこの顔が学ランを着ていた瞬間を思い出した。


「……み、光瀬!?」

「……ひ、兵頭!?」


 そこにいたのは兵頭秀明。

 あろうことか、高校時代の俺の悪友だった。

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