第3話 理事長との対面

「どうぞ」

 ノックの後、明瞭な声が聞こえた。

「失礼します、理事長」

 理事長室とプレートの掛かった大きな扉を開くと、正面に置かれた机で一人の妙齢の女性がなにやら書き物をしている。

「もうすぐ終わるわ。そこに掛けて待っていて頂戴」

「はい」

 ばあちゃんに促され、俺は部屋の隅に置かれた黒い革張りのソファに腰掛ける。

 ちらりと見回した室内は俺の一人暮らしの部屋が優に二つ入りそうなくらい広かった。大きく取られた出窓に、部屋の両脇にはびっしりと本が詰まっている棚があり、本棚の下のガラス棚には賞状や盾、トロフィーなどが所狭しと並べられている。向かい合わせで置かれたソファとの間には小さなガラステーブルが置かれ、そっと一輪バラが生けてあった。

 ……なんかこう、いかにも理事長室、といった雰囲気だ。


「ふう、やっと終わった。お待たせ、伊藤学長」

「お忙しいところ申し訳ありません」

「いいのよ。どうせサインするだけの書類だもの。……あなたが、光瀬真琴さんね」

 そう言って理事長は立ち上がり、俺たちに近付く。その威厳のある堂々とした立ち姿たるや、何も言われずともつい起立して姿勢を正してしまうほどだ。

 俺の目の前に立ったその人はばあちゃんよりも相当若かった。四、五十代くらいだろうか、きゅっと後ろでまとめたお団子の黒髪と鼈甲のフレームの眼鏡がよく似合う、聡明そうなおばさまだった。

 混同されがちだが大学において学長と理事長は別の役職だ。簡単に言えば教育現場のトップが学長で、経営のトップが理事長。兼任する場合もあるが、帝国女子大学では別々の人間がその座についているらしい。

 非常に小柄だったが、こちらを射抜くような鋭い視線はやはり学校を背負って立つ存在感に裏打ちされている。

「理事長の水野律です。よろしく」

「は、はい。よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げた後、上から下までまじまじと姿を眺められていることに気が付いて思わず呼吸を止める。

 まじまじどころじゃない。ガン見だ。まるで値踏みされているような。

 ……もしかしてもう男だとバレたのだろうか。いやバレない訳はないとは思っていたけれど。酷い罰ゲーム感に、もう既に胃に穴が空きかけている。

「……あなた」

「は、はい」

「伊藤学長によく似ているわね」

「はっ……え、そ、そうでしょうか」

「ええ。清楚で上品なお顔立ちだわ」

 にこ、と優しく微笑まれる。

「いやだわ理事長ったら。口がお上手」

「本心よ。とても美人なお孫さんね」

 清楚で、上品で、……美人?

 およそ今まで縁のなかった褒め言葉にどんな顔をしてよいか分からず、俺は固まる事しか出来ない。ちらりと救いを求めるようにばあちゃんを見遣れば、何故か満足そうな顔をしたばあちゃんに「良かったわね」と囁かれた。

「伊藤学長から話は聞いていると思うけれど、今朝行われた理事会で正式にあなたを講師として採用することが決定しました」

「は、はい。ありがとうございます」

「本来なら講師の採用は一年掛けてじっくり行うんだけど……あなたの場合、特例措置ということになるわね」

「と、特例、ですか」

「ええ。正直に言えば、教授陣の中には例のない急な採用決定に反対する人も居たわ」

「……」

 すっかり浮かれていたが、考えてみれば当たり前の話だ。こんな昨日の今日で、しかも面接もなしに大学講師の職が決まるなんて聞いたことがない。


 小学校から高校まで、教師という仕事には教員免許状が不可欠だ。

 保育園や幼稚園の場合でも別途保育士の幼稚園教諭の資格が必要で、それには大学または専門学校での単位の取得と採用試験の合格が必須になる。

 しかし、最高教育機関である大学の場合だけ何故かはっきりとした規定がない。一般的には大学院の博士課程を終了した人間が採用募集をしている大学に面接に行くのだが、問題はそこから。

 いくら本人が優秀でも採用されるかどうかは運次第。何故なら、大学というのは意外とコネクションがモノを言う世界だからだ。博士論文という高いハードルをクリアしたのに職がない、いわゆる『オーバードクター』の原因がこれ。苦労して勉強をして博士になったのに働く場所がなく、慌てて学部生と一緒に就職活動をするも重たい学歴と年齢が企業には嫌われ、運良く研究室に残っても収入はなくアルバイトで食いつなぐ日々……。まさに、昨日までの俺だ。


 自ら頼るつもりはなかったが、俺にはばあちゃんというとんでもないコネクションがあった。しかし、それでも他の教授達と面接も無しに採用なんて破格のことだ。……採用の話に浮かれていたけれど、もしかして俺、七光り百パーセント? 始まる前から嫌われてる?

「そう畏まらないで、なにも脅しをかけようっていうんじゃないの」

 いかにもありそうな可能性に固まってしまった俺を見て、何故か理事長は楽しげに微笑んだ。

「先日、あなたが書かれた論文を拝見したわ。私は文学が専攻ではないけれど、それでも論理的で無駄のない、それでいて今までの常識を覆す素晴らしい論文だったと思う」

「……」

「伊藤学長のお孫さんというよりも、ああいう風に真摯に学問と向き合える方になら是非うちで教鞭を、そう思って声を掛けて貰ったの。大丈夫よ、理事会でも最終的には全員が納得してくれたわ」

「あ、りがとうございます……」

 喜びと誇らしさで、思わず目の奥が熱くなる。

 半年前までの俺は、寝食を惜しんで起きているほとんど全ての時間を卒論に費やしていた。担当教授にすらちょっと頭がおかしいんじゃないかと思われるほどに打ち込んだそれが、こんな風に認められるなんてその時は思ってもみやしなかった。

 ああ、俺は。

 俺の論文をこんな風に評価してくれたばあちゃんやこの人の期待を、裏切りたくない。

「これから頑張って。あなたなら、きっと良い指導が出来るはずです」

「……はい。頑張ります!」

 俺は幸せ者だ。自分の渾身の研究が評価され、憧れの大学講師にまでなれて。

 七光りだと言われても関係ない。ズルをしたと思われたならその分正当な努力で認めてもらえるように頑張ればいい。目標に向かって努力をすることなら得意だ。俺は今までだってそうやって平安文学に臨んで来たのだから。沈みかけていた気持ちが沸き上がってくるのが分かった。


 そうだ。俺は大学講師になれるんだ。いったいなにを気にすることがあるだろう!


「――でも、あんなに骨太な論文をこんな可愛いお嬢さんが書いたなんて信じられないわね」


 ぴし、と完璧だった世界にあっという間にヒビが入った。

 ……忘れてた。そうだった。俺今、女装してた。気にすることだらけだった。

「ほほ、見た目よりずっと骨太なんですよ、この子」

 再び固まってしまった俺の代わりに、ばあちゃんが如才なく会話を引き継ぐ。

 ええ、その通りです俺って結構骨太なんです。……だって、男ですもの。こんな格好してるけど、俺男ですもの!

「あらそうなの? でも骨太くらいが丁度いいわね、うちの学生は一筋縄じゃいかないから」

「ええ、まったく。ほほほ」

 楽しそうに笑い合うばあちゃんと理事長。一応笑顔を浮かべているつもりだが、自分が今どんな顔をしているのかさっぱり自信がない。

「私からは以上。あとは伊藤学長と引継ぎをして、新年度に備えて頂戴」

「はい、それでは失礼します。行くわよ、真琴」

 ばあちゃんに引きずられ、俺は呆然としたまま理事長室をあとにした。そのままの足でエレベーターに乗り込む。押された八階のボタンがちかりと点滅し、それを胡乱な瞳で見つめながら、俺は掠れた声を上げた。

「あの……ばあちゃん……」

「もう少し黙ってなさい」

「……」

「八階に私の部屋があるの。……そこに行ったら、全部説明するから」

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