第2話 再会、からの

 俺の両親は二人とも理系の研究職を生業としている。

 その関係もあって、俺も幼い頃から海外を転々としていた。アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、インド、アフリカ……恐らく長くて三年程度しか一所には留まっていなかっただろう。

 母国語を理解する幼少期に様々な国の言語を吸収してしまった俺は、小学校入学を迎える年齢になっても世界中でおそらく両親しか聞き取れないであろう不可思議な言語を喋っていたという。世界中の言葉が入り乱れ日常会話すらままならず、文字もほとんどパズルのようだったと両親は笑っていたが、大元を辿ればそれはきちんと日本語教育を施さなかった彼らのせいだった。


 そんな風に俺の両親はどこか大味でズレた人たちだったので、俺のことを一番に心配してくれていたのは日本で暮らしていた母方の祖母……つまり、ばあちゃんだった。

 ワールドワイドに放任され続けた俺を見兼ね、せめて義務教育の間だけでもと自分の元に引き取ることを提案してくれ、俺はそこでようやく母国語である日本語を習得した。そして、言語力と常識がようやく一般的なレベルに達した辺りで、練習代わりにと与えられたものが『源氏物語』だった。


 それは、初めて知る世界だった。

 帝にお妃、容姿才能に恵まれた一人の貴公子。恋をする美しい女君に陰謀渦巻く政治の世界、やがて権力を手にした彼の視点で見る華やかな王朝絵巻。

 ただでさえ母国への愛着が増していた時期だ。その優雅な世界にのめり込んだのは当然の帰結と言えるだろう。俺はばあちゃんの書庫に入り浸るようになり、源氏物語を始め枕草子や竹取物語、伊勢物語といった有名どころから浜松中納言物語や狭衣物語にとりかへばや物語といったマイナーな作品まで読破していった。

 小学校から高校卒業までの十二年間。

 ばあちゃんと過ごしたあの日々が、間違いなく俺の原点となっている。

 ……はず、だったのだが。



「あ、あの、ばあちゃん」

 次の日。

 世界中の誰よりも幸せなんじゃないかと頬をつねった前日から一転、何故か俺は世界中の誰よりも今起きている状況を把握しかねている人間になっていた。

「ば、ばあちゃん、ひとつ聞いていい?」

「おばあさま」

「え」

「あるいはおばあちゃん、と呼んでね、真琴ちゃん」

「お、おばあちゃん……」

「なあに、真琴ちゃん」

 にこ、と微笑んだばあちゃんの笑顔はちっとも変わっていなかった。短めの白髪を丁寧に梳かした、清楚で淑やかな俺の理想の大和撫子。実際に面と向かって会うのは大学の卒業式以来だったので本当に久しぶりだったけれど、純粋に再会を喜ぶ気持ちで居られたのは正味一時間くらいのことだ。

「あの……どうして俺はこんな格好を……?」

「大学に行くからね。ちゃんとした格好をしないといけないでしょう?」

「ちゃ、ちゃんとした……?」

「お二人とも、仲が良いんですねぇ。そちらがお孫さんですか?」

 いかにも人の良さそうなハイヤーの運転手がばあちゃんに話しかけた。

 バックミラーにはとてもじゃないが『ちゃんとした格好』には見えない俺が写っている。とてつもない勢いで目を逸らしてしまった。

「そうなの、娘の子供」

「目元の辺りが似てらっしゃる。可愛い『孫娘』さんですね」

「そうでしょう? ね、真琴ちゃん」

 昔となにも変わらない柔らかな微笑みの下にとてつもない圧力を感じて、俺は曖昧に頷いた。

 柔らかな水色のシフォンスカートに、襟元にレースをあしらった真っ白なブラウス。その上には薄いピンクのカーディガンを着て足下には華奢なミュールを履いている。顔には薄くだが決して下品にはならない程度の化粧が施され、カバンとスカーフは自己主張しない程度に大人しめの揃いのブランド物で統一、いつもの眼鏡は外されて目には慣れないコンタクトが入っている。

 ……ばあちゃんの話ではない。今の、俺の格好だ。



 ――落ち着いて、今日のことを思い返してみよう。

 数年訪れない内に随分と様変わりした東京駅の銀の鈴広場でばあちゃんと落ち合ったのが、大体正午ちょうどくらいのことだった。

「真琴ちゃん」

「ばあちゃん! 久し……」

「早速だけど、これからお買い物に行きましょう」

 お嬢さん育ちなためちょっと天然なところがあるのは否めないが、祖母と孫の再会の第一声がこれだとは誰が想像するだろう。てっきりどこかメシ屋にでも入って再会を喜び合うのかと思いきや、ばあちゃんの力強い手に捕まれ丸の内改札を出た俺はタクシーに押し込まれ、やがて銀座にある高級デパートに辿り着いた。

 きらきらした照明とクラシック音楽の掛かる優雅な店内にはセンスの良い格好をしたマダムやOLさんたちが集う。スーツでなくて構わないと言われていたので俺の格好はダウンジャケットにジーパンという非常にラフなものだった。あからさまに不似合いな空間に借りて来た猫のごとく萎縮する俺。周囲からの好奇と不審が入り交じったような視線をちらちらと投げかけられるのが恥ずかしくて、俯いたまま必死にばあちゃんの背中を追った。

「いらっしゃいませ、お待ちしてました伊藤様」

 到着したのは、フロアの最奥にあるいかにも『ブティック』という単語が似合いそうな婦人服の店。そこで待ち構えていたのはばあちゃんの知り合いらしい品の良い奥様だった。

「お待たせしてごめんなさい。これが、例の孫」

「ああ、この方が。こんにちは。今日はよろしくお願いします」

「よ、よろしくお願いします……?」

 対面し、例の孫と紹介され、訳も分からないまま挨拶をさせられ。

 ……その先は、もうあまり思い出したくない。

 あれよあれよと言う間に連れて行かれた試着室で俺は何故か数え切れないくらいの女物の服を着せられ、胸元になにか柔らかいものを装着させられ、化粧をされ、髪を梳かされ、何か毛束みたいなものを被せられ、動こうとするとばあちゃんと奥様に「動かないで」と怒られ。

 疑問や文句を口にする暇もなく、俺は何故か『女』にさせられていった。



 で、今に至る。

 すっかり様変わりしてしまった俺を出迎えるようにデパートの前に止まっていたのはタクシーではなくばあちゃんお抱えのハイヤーだった。

 車内でにこやかに談笑を続ける運転手とばあちゃんを尻目に、俺は何故こんな格好をさせられてるのかを真剣に考えてみる。が、勿論答えは出ない。

 だって誰が理解出来るというのだ。久しぶりに会った大好きな祖母にいきなり女装をさせられる孫。そんなの、絶対日本中どこを探したって俺くらいだ。

「到着いたしました、学長」

「ありがとう。真琴ちゃん、行くわよ」

「えっ、あっ、はい」

 有無を言わさぬばあちゃんに導かれ、俺はハイヤーを降りる。

 目の前には、都心にあるとは思えないほどの閑静なキャンパスが広がっていた。

 趣のある門扉に飾られた真鍮板には『帝国女子大学校』の文字。正門からは緑の蔦が絡まる建物と近代的なビルが並び立っているのが見える。こぢんまりとしたキャンパスだがさすが伝統校らしく敷地内にはいくつもの有形文化財を有しているらしい。春休み中だからか生徒の姿は見えないが、ベンチと噴水が備えられた広場は一面石畳が敷かれて女子大らしい上品な空間を演出していた。

 ここが四月から俺の職場……になるはず、なんだけど。

 びくびくと辺りを見回していると、ドアを開けるために外に立っていた運転手と目が合い、「いってらっしゃいませ、お嬢様」と微笑まれてしまった。

 お嬢様ってまさか俺のことか。というか俺はこの格好で人前に出るのか。

「あ、あの……お、ばあちゃん?」

「なぁに、真琴ちゃん」

「こ、こんな格好で、これからどこに……」

「理事長室」

 理事長室? 不吉な予感に服を突き破るほどの鳥肌が立つ。

「り、理事長室に、この格好で?」

「ええそうよ。まずは一番偉い人にご挨拶しに行かなきゃいけないからね」

 正門近くにそびえ立つ、キャンパスで一番背の高い校舎に入り、まだどこか新築の匂いのするエレベーターに乗り込むと、ばあちゃんは迷わずに最上階である十二階のボタンを押した。

「ねぇ、この格好なんなの? なんで二十七の男が女装なんか……」

「真琴」

 振り返った顔は真剣そのものだ。迫力に威圧され、押し黙る。

「悪いけど、あなたは今から『孫娘』になってちょうだい」

「……は?」

 この人、今なんて言った? 

「説明は後でするわ。とりあえず今は理事長に会うことが先決なの」

 いいわね、とばあちゃんに指を突き付けられ、反抗する術を俺が持っているだろうか。聞きたいことは散々あったけど、弱気な呻きはエレベーターの到着音でかき消されてしまった。

 とにかく分かったことは、俺は今からこの学校法人において一番偉い人に面通しをされるということ。

 それも、事情が飲み込めないままの、女装姿で。


 もしも夢なら醒めてほしいと切に願ったが、目覚めを告げるアラームの音は一向に鳴らないままだった。

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