いづれの御時にか、哀れな求職者ありけり
第1話 はじまりの電話
「『今後ますますの発展とご健勝をお祈り申し上げます』……」
これで、合計十通目のお祈り通知。
大きくため息を吐いて座椅子ごと後ろに倒れ込む。
呻き声と共に丸めた紙をゴミ箱めがけて放り投げてみたが、ノーコンの俺では入る訳もなく、ぽてんと情けなく部屋の隅に転がったそれはいつまでもしつこい存在感を放っていた。
ああ、もう。こんなことまで思い通りになりゃしない。
誰か、俺に仕事くれ。ギブミージョブ。お願いします、後生です。仕事ください。
日本を未曾有の経済危機が襲って早数年。
少しずつ上向きの兆しは見えて来たものの、この国の景気は相変わらずの低空飛行を続けていた。
数ヶ月前見ていたニュースによると昨年の完全失業率は四パーセント。まだお祈りメールが三通目を数えたばかりで大した危機感も持っていなかった俺は「それでも百人中九十六人は働けるんだなぁ」などと楽観的に考えていた……のだが。
そもそも失業者とは『無職の状態にある者』、完全失業者とは『働く意志や能力や資格があり、求職活動をしながらも無職の状態にある者』のことらしい。働きたいという熱い意思を持って行動をしている人が百人居ても四人は路頭に迷うということで、それが二十代前半の若年層に話が及べばその数字が二倍近く跳ね上がるという事実を知り、俺はようやくそのやばさに思い至った訳だ。
……自慢じゃないが、それなりに学歴は良い。
一応この春、世間様にそれなりに名の通った地方国立大学大学院の博士課程を卒業している。
俺のとった博士号は『博士(文学)』。
字面にすると安っぽいクイズ番組の称号みたいになってしまうが、より詳しく言えば『博士(文学)・日本文学研究科中古文学専攻』となる。中古、とは別に新品でないという意味ではない。日本文学科の習わしで奈良時代までを上代、平安時代を中古、鎌倉から室町までを中世、江戸を近世、明治以降を近代と呼ぶことに由来し、中古文学とは要するに平安文学のことだ。
平安時代は国風文化の隆盛によりかな文字が完成し、日本的な情緒が表現しやすくなった時代でもある。それまで一部の上流貴族に牽引されてきた文学はその裾野を広げ、女房階級の女性たちの手によって更なる隆盛を見た文学の夜明けとも言える時代で……いや、こういう話をしだすと止まらなくなるからやめておこう。
早い話、俺は心から平安文学を愛しているということだ。
大学の文学部になんの迷いもなく進み、更にその先の大学院博士課程にも迷いなく突き進んでいったのだが、俺は今になってはじめて迷っている。何故かと言えば、職がない。最近ではオーバードクターという言葉がよく聞かれるようになったが、まさにそれだった。
文学部は実学ではない。医学部に行って医者とか法学部に行って弁護士とか、そういう分かりやすい道がないのだ。別に文学部が就職に不利だと言いたいのではない。教職免許を取って教師になる人も居れば、銀行や生命保険会社などいわゆるホワイトカラーと呼ばれる企業に勤めている人だってたくさん居る。
だから、問題は俺個人のこと。……俺の希望はと言えば。
――大学教授になって、思い切り平安文学の研究をすること。
言わずもがな、大学教授は狭き門だ。
在籍していた大学は講師の空きがなく、担当してくれていた教授も思い当たる節を当たってくれたがどこの大学からもいい返事は返ってこなかった。
最低限の教養科目以外はほとんど全てを文学部の授業で埋め、資格などもまるで取っていなかった俺。改めて自己分析とやらをしてみるが、得意なことは崩し字が辞典なしでも読めることと論文の速読が出来ることくらい。いったいその特技をなにに生かせばいいのだろう?
縋る気持ちで出版社の門を叩いてみはしたけれど、そういうクリエイティブな会社に求められているのは若さと創造力と根性とユーモアを持った人材であって、俺にそのスキルはない。残念ながら全部ない。そもそも平安文学に強い出版社は規模が小さく求人自体がない。
そして、話は振り出しに戻る。教授を諦め出版社を諦め、いわゆる一般のサラリーマンになるべく就職活動を始めるもこの未曾有の不景気とスタートダッシュの遅さ、そしてオーバードクターという三重苦。いつのまにか、俺の手元にはお祈り通知ばかりが集まっていた。
「あー……しんどい……」
八畳一間の部屋に西日が差し込む。カーテンを閉めたいのに立ち上がる元気すら出ない。眼鏡を外し渋る目を擦り、築地市場で売りさばかれるマグロの気持ちでごろりと転がってみる。
考えてみれば俺はまともにバイトしたことすらないという恐ろしい学生だった。大学に入る直前の春休み親戚に頼まれて一度だけ家庭教師をしたことはあったが、後にも先にもあれだけ。勉強をしている時間が一番楽しかったから休みはほとんど大学の図書館で過ごし、交際費はほぼゼロ、食費も光熱費も奨学金で事足りていた。
しかし暦は如月、季節は間もなく春。二十七歳男独身、人生的に待ったなし。
とりあえずはニート回避の為にもフリーターになるしかない。持ってくるだけ持ってきて床に放置していた無料求人誌に目をやって、にじりにじりと匍匐前進で近付いた。
ビビッドなイエローを基調としたポップな表紙には「やる気・元気大歓迎! 高校生バイト大特集!」と書いてあって、なんかもうやるせなさを通り越して軽く死にたい気持ちになる。とりあえず目を通してみよう。もし条件に合えば……いや、もう条件とかいい。単純作業で頭数を純粋に求めている仕事でいい。日がな一日酢飯を混ぜ続ける仕事とかでいい。
とりあえず働こう。働いて、金を稼ごう。そうでなければ俺は、もう――。
机の上で携帯電話が鳴ったのは、もう少しで求人誌に手が届くという時だった。
遠慮なく電子音を響かせるそれに一瞬だけ身体が竦んで、匍匐全身を諦めて立ち上がる。
液晶に表示された番号に見覚えはなかったが、もしかしてどこかの会社から採用の電話だろうかと胸を踊らせてTシャツの襟を正して通話ボタンを押した。
「はい、もしもし」
電話の向こうに居たのは。
『久しぶり、真琴ちゃん。お元気?』
「――ばあちゃん! 久しぶり!」
母方の祖母である琴絵ばあちゃんは、俺がもっとも尊敬する人だ。
都内の女子大学で長年教授をしており今は学長も勤めている。大和撫子を地で行く上品な人で、俺に平安文学の楽しさを教えくれたのもばあちゃんだった。
「どうしたの、なんかあった?」
季節の変わり目には手紙でやりとりをしているが電話とは珍しい。久しぶりに聞くばあちゃんの優しい声に胸を弾ませていると、会話のキャッチボールが予想外の方向から返って来た。
『ねぇ、琴音から聞いたんだけど、あなた今職探ししてるんですって?』
「なっ」
ちくしょう、母さんめ。ばあちゃんにだけは絶対に言うなと言っておいたはずなのに。
「えーっと……も、もう当たりはつけてあるんだ、だからあとは結果待ちって言うか」
『あら、もう決まりそうなの?』
「う、うん」
思わず嘘をついてしまった。
優しいばあちゃんのことだ、オーバードクターの俺が無職なんて話を聞いたら絶対に心配されるに決まっている。
物心つく前から両親の仕事の都合で海外を転々としていた。ばあちゃんが日本での面倒を見てくれたおかげで、俺は日本語も日本人としての常識も誇りも、そして生き甲斐すらも見つけることが出来たのだ。もう既にたくさんのことをしてもらったのに、これ以上心配を掛ける訳にはいかなかった。
……しかし、そんな俺の思いとは裏腹に、電話の向こうのばあちゃんは何故かがっかりしたような調子で息を吐いた。
『そう、なら仕方ないわね』
「仕方ない?」
『いえね、あなたさえよければって思って、働き口の話を持って来たの』
「えっ」
まじっすか。出掛った言葉を飲み込む。
『うちの大学で欠員が一人出ちゃってね』
「……大学?」
『ええ。でも、決まってしまったのなら仕方ないわね。残念だけど……』
「ちょ、ちょっと待って、いや待って下さい」
『なぁに?』
「じ、実はまだ決まってはいないんだ。あくまで未確定っていうか……予定は未定で決定ではないというか……」
『あら、そうなの?』
「う、うん。一応、どんな話か聞いても良い?」
逸る鼓動を抑える。
心配を掛ける訳にはとか七光り云々とか言っていた自分はどこへやらだが、これは、閉塞していた状況に俄に差し込んだ光だ。いったいそれがなんなのか聞いておいて損はない……というか、むしろ積極的に聞かせて頂きたい所存だった。
『いえね、実は、あなたの博士課程の卒業論文を読ませてもらったの。そうしたら私が開いている学会で評判になってね。新しい視点での源氏物語論だって絶賛されたの。嬉しくって、実は私の孫なのって言ったら、皆とっても驚いてた』
ばあちゃんは、都内の女子大学で長年教授をしており今は学長も勤めている人で、更に付け加えるとするなら、中古文学の権威とも呼ばれている人だ。
その人が。その人が開く学会の教授達が。俺の卒論を褒めてくれた。規定枚数の十倍を超え、担当教授にすら「読むのに三日かかった」と文句を言われたあの博士論文は、俺の大学と大学院合わせた九年間のすべてが詰まった集大成だ。命の次に大切な宝物だと言っていい。それを評価してもらえたのだ。
嬉しい。素直に。思わず鼻の奥がツンとする。
『それから真琴がどんな子かって話になってね。高校まで一緒に暮らしていたこととか、誕生日には必ずプレゼントを贈ってくれることとか、年賀状だけじゃなく暑中見舞いや寒中見舞いも欠かさないこととか。もうとにかく、優しくて可愛い孫なのよってたくさん自慢しちゃったの。えーとそれで、なんの話だったかしら。真琴の自慢をして……あ、そうそう、それでね、理事会から、そんなに優秀ならうちの大学に来てもらったらどうかっていう話が出て。今ちょうど、中古の講師に空きが一人出ているの。四月からは私が学長職と兼任で授業を持つことになっていたんだけど……もし、あなたが良ければって思って』
携帯電話を耳に当てたままその場にへたり込んで、目を閉じる。
講師。
就職の世話をしてもらえるだけでも目玉が飛び出るほどありがたいのに、講師。
それは、俺が最初に諦めた、大学教授のへ続く道への第一歩だ。
『でも、急すぎるわよね。いきなり講師だなんて、真琴ちゃんもいや……』
「い、いやじゃない!」
「え?」
「あの、いやじゃないっていうか、是非!」
『あら、いいの? 会社からのお返事は?』
「大丈夫それはこっちでなんとかするから! 講師やらせてください! 俺で良ければ!」
『本当?』
ただごとでない俺のテンションに気付いているのかいないのか、電話の向こうのばあちゃんは華やいだ声を上げた。
『ありがとう、真琴ちゃん。一緒に働けるのね。おばあちゃん嬉しい』
俺も嬉しい。信じられなくてまだ目がちかちかしているくらいだ。
『じゃあ申し訳ないんだけど、詳しくお話させてほしいから東京まで来てくれる?』
「うん、勿論! いつにする?」
『そうね、じゃあ――明日』
「え? あ、明日?」
『だめかしら? なにか予定ある?』
「いや、特にはないけど……」
特にはないけど、明日とはまた随分急な。
のんびり屋のばあちゃんにしては珍しいが、新年度まではあと二ヶ月というギリギリの採用なので仕方ないのかもしれない。俺に別段予定はないし、それで四月からの就職が確かなものになるならば、なにを差し置いても駆けつけたいと思う。
「直接ばあちゃん家に行けばいいの?」
『いいえ、ちょっと先にやらなきゃいけないことがあるから、東京駅で待っていて頂戴』
先にやらなきゃいけないこと?
久しぶりに会う孫とゆっくりお茶でもしようということだろうか。
それもいいな。俺としてもばあちゃんにきちんとお礼が言いたいし、お喋りしたいことだってたくさんある。
「じゃあ、また明日」
『ええ。楽しみにしているわ』
電話を終え俺は再び畳へ大の字に寝転がる。
今度は絶望ではなく、喜びに打ち震えて。
職が決まる。しかも、都内の名門女子大の講師。言葉にならない感情の昂りが俺を突き動かして、喚きながらじたばたと手足を叩き付けた。
「……っしゃあああ!」
これで俺は、一生平安文学の研究をし続けることが出来るのだ!
東京行きの準備を早々に終えた俺は、午後九時には床に入った。
遠足前の小学生のようにあれやこれやとこれから先の夢を思い描き、結局眠りに就いたのは夜明け頃。
春はあけぼの、なんてまだ春でもないのに浮かれたことを呟いて、ようやく夢の世界へと落ちて行った。
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