第3話 彼のたそがれ(1)


 ――その朝に目覚めて最初に口から出たのは、心からの溜め息だった。次に襲ってきたのが、猛烈な頭痛に吐き気。西日が部屋の中を橙に染めていて、どうやらずいぶん遅い時間のようだった。

 カレンダーには赤丸がされているし、重々しい明朝体で、小さいながらも確かに「X流星群到来か」とプリントされている。

 ランニングにパンツ姿のまま、コップ一杯の水を飲みほした。少しずつ、昨日のことを思い出す。

 昨日は夜まで騒ぐという同僚たちの誘いを断った。帰ったら父は家にいなくて、なんだかむしゃくしゃして気づいたら家じゅうの掃除を始めていた。変わらずに営業していた近所のスーパーで惣菜を買って飯を食い、一人で酒を飲んだ。東北のいい日本酒を、一本開けた。いつだか父さんが旅行の土産に買ってきて大事に取っていたやつだ。特番だらけのテレビはやめて、学生の頃に見た映画のDVDを再生した。映像はセピア色で展開は古典的だったけれど、画面の中、身分を超えて二人が結ばれるのを見ながら号泣した。十年前に死に絶えた携帯番号に電話したけれど、聞こえたのは冷たい電子音だけで案の定繋がらなかった。

 そうだ、寝る前になんだか義務感を感じて、仏壇に手を合わせた。虫の声がいやに響く夜、数年前に亡くなった母さんに語り掛けてみたんだけれど、何を祈ったんだったか。

 で。

 気づいたらリビングでそのまま寝てしまっていたらしい。

 人生を綺麗にすとんと終わらせてやるはずだったのに、独り涙まで流しながら酔って、その挙句酔って寝ちまうなんて最悪の気分だった。体調も最悪だったが。

「なんだよ、終わんねえのかよ」

 つぶやいた声はがさがさにひび割れていた。独りの部屋に、妙にこびりつく音だった。



 ――。

 あの「朝」と同じまま、今日も同じ一日が始まる。

 うたた寝から目覚めた俺は、起き上がって伸びをした。37年ずっと使い続けている部屋は、湿っぽいような「自分の部屋」の匂いがする。カーテンを開ければ、赤みの強い光が弱々しく庭を照らしている。太陽は地平線ぎりぎりで滑り落ちないように全力で力んでいるみたいに真っ赤だった。アレ、酒に弱いくせに見栄を張って飲みすぎた上司の顔をいつも思い出すんだよな。邪魔な雲なんて一つもない、あの上司の頭みたいにまっさらピカピカの夕焼け空だ。

 窓の下を見れば、手入れなんてずっとしていない庭に雑草がわんさか生い茂っている。癖で携帯を起動させるけれど、画面は奇妙に歪んでいた。何日経ったのか、よく憶えていない。遠い昔のことのようにも、二、三日前のことにも思える。いつまで続くのかも、よくわかっていない。とりあえず、電波関係がおかしなことになっていることだけはわかっていた。

 ランニングシャツにパンツの恰好で階下へと降りる。37年間住んでいる家の中に人気はなく、父さんはどこかへ出かけているようだった。

 ひとまずTシャツとズボンを身に着けてから、和室の隅へ向かった。比較的新しい仏壇の中で、穏やかな微笑みがこちらを見ている。

 母さんは、例の予言を聞く前に亡くなった。ときどき逞しくて、いつも穏やかな、尊敬できる母親だった。

 過去にも世界が終わる類の予言じみたものはあったはずだが、今回の隕石説は一味違った。三年ほど前に注目されてから、各地の天文台や研究機関でも確かなデータが次々と出ていたし、それに伴う異常気象や異常現象もいくつか見られていた。死者が出ていたし、壊滅的打撃を受けた地域もあったはずだ。ニュースでは声高に各地の混乱を叫んでいたが、幸いにも(なんて言ってはいけないが)俺の生活に直接かかわるような出来事はなかった。話題にこそすれ、俺の周囲には核シェルターみたいなものを買ったり、いっそ宇宙へ逃げようとしたりした人たちはいなかったし、そうした混乱は、どこかで起きている戦争みたいに、耳元でさざめいていくだけだった。俺が受け入れられなかっただけかもしれないが、「お前もいつか死ぬんだぞ」って言われているのと大差なかった。

 仏壇を整えて、少し手を合わせてから、台所に戻ってスティックパンの袋を手に取った。居間のソファに腰掛けて、パンを咥えながら新聞を手に取る。癖だ。

 テレビもネットもなく、会社からは暇を出されているけれど、俺にとっては、まだ日常は続いている気がしている。

 ……不意に、庭のほうからがさっと物音がした。猫か、それとも。

 正体はだいたいわかっているのだが、窓を開けて庭を見渡す。庭木の陰から、スカートだろうか水色がちらちらしているのを確認して、「気のせいかな」とわざわざ呟いてみた。

 窓に背を向けると、草を踏むさくさくした音が近づいてきて、思わず忍び笑いを漏らした。

「おじちゃーん! 起きてるー!」

「うっわびっくりした!」これもサービス。

 窓を勢いよく開け、堂々たる不法侵入者は満面の笑みで声を張り上げる。

 俺の時代には存在しなかったキャラクターのTシャツに、先ほど覗いていた水色の水玉スカート。靴下にスニーカー……をぽいぽい脱ぎ捨てて、少女――ゆりあちゃんはまた楽しそうに笑った。

「ひでおじちゃん、あっそぼ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る