第2話 かりそめの街(2)

 校門を出て、少し過ぎた辺り。後ろから自転車の音と、「立木さん!」と低い声が飛んできた。

 日向くんだ。


 日向くんはクラスメートだ。英語の班活動では一緒だったけど、私は彼の名前をひなたと間違え、彼は私の名前をたちぎと間違えた、それくらいの仲。

 彼は私が驚いたのにも気づかず、家こっちなの? と聞いてきた。

 そうだけど。

 俺もこっちなんだ。あのさ、ちょっと寄り道してくれない?

 私がもごもごしているうちに、日向くんは銀色の自転車を私の水色の隣につけてしまった。え、うん。私の小さな声に、彼は自転車を飛ばし始めた。


 川沿いを併走する二台の自転車。夕焼け空には薄雲がかかっている。青春映画みたいなシーンで、私の自転車だけがきいきいと軋む。お父さんが直してくれるはずだった。いい加減直さなきゃいけない。自分でどうにかするしかない。


 寄り道先はマックだった。誰もいないけれど、窓ガラスが壊されていて、中に入れるようになっている。奥の席に二人で座る。静かだ。他人の喧噪も機械の動作音も、何もない。互いの呼吸だけの距離。――息が詰まる距離。



 今となっては、あれが『何日前』の出来事だったのかもよくわからない。日向くんはあれ以来学校に来ていなかったし、きっと私は心のどこかでその事から逃げようとしていた、と思う。自分が何を言ったのか、無意識に忘れようとしていた。


* * *


 明日まであと十分というとき。

 私が十八歳になることは永遠にないのか――。そんな考えがふっと頭をよぎった。そっか。そりゃそうだった。私は何年も前から、そのことを教えられていたんだった。

 布団を頭まで被って、枕元においたリュックを抱きしめた。そっか、私ってまだ十七年しか生きてこなかったんだ。気がついたら、私は泣いていた。びっくりするくらい自然に涙は溢れてきた。私も知らなかった、ただの十七歳の私。世界が滅びるなんてありがちな予言を信じてしまう子供の私。わかんないよ、って言えるいつものクールな私なんてそこにはいなかった。わかってたはずだもん。いままでそれを心の奥底に封じ込めていた私の理性は呆然として、それからちょっと笑ってしまった。なにこれ、私ってこんなにガキだったわけ。馬鹿みたい。

 そんなときだったのだ、まだ繋がっていた携帯電話が鳴ったのは。

『あ――たちぎさん、だよね。言いたいことがあって』

 日向くん。電話越しに声を聞いたのは初めてだった。戸惑ったような声は一瞬だった。一呼吸の後に放たれた言葉は電波を伝い空気を震わせ、私の心を強く揺さぶった。思い描きさえしなかった、キラキラした感情。真っ直ぐすぎるその四文字。え、どういうこと。嘘。いつもの冷静で大人な「お返事」ができなかった。

「えっ、嘘、私――」

 何を言ったかなんて覚えていない。携帯の向こう側が言葉を失ったのが、よく聞こえたことだけ、痛いくらいに覚えている。


* * *


 ――俺さあ、じいちゃんちまでチャリで行ってきたんだ。川の向こうに住んでんだけど。いつもは車で行くようなとこ。どれくらいかかったのかな、時計壊れててわかんなかったんだけど。足ぱんぱんになるまでチャリ漕いで。一応無事だったけどずっとお経ばっかり唱えてるじいちゃん見て、ようやく実感が湧いたって言うかさ。ああこれやばいな、って。もう一生、全くの元通りになるなんてことはないんだろ。

 正直、あのときのことは自分でもよくわからないんだ。何でいきなり立木さんにあんなこと言っちゃったのか。世界が終わるんだし、最後くらい伝えたいことを伝えようと思ったのかもしれないけど。恥ずかしいな。でも、後悔はしてない。結局生きてる今だから言えるんだけどさ。

 答えが聞きたい訳じゃない。否定されてもいい。でも困らせてしまったなら、ごめん。

 それだけ言いたかった。


 日向くんの声はどこか大人びていて、なぜか心を落ち着かせてくれている気がした。私はうつむいていた顔を上げ、口を開いた。


――今、クラスの何人も姿を見なくなって、どうしてるのかもわからなくなってるんだよ。正直、きっと無事じゃない人もいると私は思ってる。こんなこと言うと冷たいやつだと思われるかもしれないけど。


 冷静な私は本当の自分との間に白線を引いた。その向こう側にいたのはただの女の子ひとり。あの夜私はそれを知った。あの日から、誰かの涙する肩に共鳴して私の心臓も震えていた。私だって怖かった。みんなの恐怖に、私は恐怖していた。


 ――『今』がずっと続けばいいなって思ってた。いや、きっと未来なんかこなければいいと思ってたんだ。このまま高校生活が送れれば良かった。このまま何もない日々が続けばいい。今の居心地のいい居場所を失いたくない。そのために私は白線を引いた。何事にも動じない私を作るために、純粋な私を向こう側に追いやるために。だからきっと、君が見ている私は私の全部じゃない。


 ……この世界が終わるのなら、さっさと終わってしまえばいい。私には自分で生きる強さも誰かを支える優しさも十分にはない。死ぬ覚悟だってできてたはずなのに、隠してきた醜い部分を曝すのも、他人の弱さを直視するのも嫌なんだ。


 どうか醜い部分を見せないで。綺麗なものだけ見せるのもやめて。


 日向くんに向かって話しているのか、独り言をつぶやいているのかわからなくなっていた。自分でも不思議だった。泣きそうだったけど、瞳は乾いたままだった。言葉は揺らいだ。話しているのはまるで私じゃないみたいだった。どれだけ日向くんに通じたかはわからない。いや、そもそも私はどこまで声にできたんだろう。日向くんは、これまで私が瑤子や委員長やほかの友達にそうしていたように、でも少しためらったように、私の髪に触れた。ぱさぱさの髪の毛。優しく撫でてくれたその手は大きかった。


 結局、俺らは生きてんだよ。もう誰も守ってなんかくれない。俺たちで、どんなになっても生きるしかない。

 あのとき俺は…もう終わりならいいや、って覚悟だったし。それに……今、立木さんと話せてるだけでラッキーだと……思う。そういう意味では、生きてて良かった。なんて。


 日向くんはそう言って、はにかんだように笑った。夕焼けが彼の顔を赤く染めていた。店を出て、割れたガラスに一瞬だけ映った私は今までにみたことが無いような酷い顔をしていた。なぜか今は、この赤光が美しく思えた。


 世界が終わるとわかってしまった時点で、私たちはこれまでを失ったのだろう。受験も卒業もなくなって私たちは永遠に高校生なのかもしれないけれど、代わりに夢や未来はくすんで消えた。

 私たちは今果てしない終わりの中にいる。いつホントの終わりがきて、糸が断ち切られてしまうかはわからない。この狭間の中で、この一瞬の中で、永遠に大人でも子供でもない私たちは、曖昧な孤独の中でただ存在し続けるために生きている。『明日』が来るまで。

 果たしてそこに、私が望むような終末があるのかはわからない。

 私は向こう側から目を背けていただけだ。

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