第4話 からしお付けしますか?

 街が冬に染まらんとする11月末日、私は自宅にほど近いコンビニエンスストアにて、現代の若者(特に女子)の発育過多について比較検討するためのデータ収集に勤しんでいた。これは私の日課であり、私のように強靭な意志を持つ人間にとって、気温の低下ごときはその研究を阻害する敵とはなりえない。しかして私は、一見で明らかに発育過多と判断できる若者(主に女子)の写真を掲載する雑誌を片端から手に取り、食い入るように見つめ、公称として記載されている数値を鵜呑みにすることなく、自らの慧眼をもってしてひたすらデータの蓄積に励んだ。勤勉さここに極まれりと言っても過言ではなく、まさしく学生のお手本と言えよう。ちなみにこの作業をしていると、膨大な量のデータが蓄積されると共に別のものも溜まる。帰宅してからはそれを放出し沈静化させる作業を行わねばならぬことは、世の学友諸氏であれば容易にご理解いただけることと思う。

 それにしても近年の若者(ほぼ女子)の発育過多は目に余る。文化のアメリカナイズによって、ファッションやメイク・言葉遣いなどから古き良き日本の侘び寂びが失われてしまっただけでなく、食生活の欧米化が大和撫子の愛すべき寸胴スタイルさえも奪ってしまったのかと慙愧の念に絶えない。まったくもってけしからん。なんだこのくびれは。

 しかし現実は現実として受け止めねばならない。私は研究者として、自己都合の妄想や思い込みに逃げ込むことだけはしてはならないと、己を厳しく戒めている。よって、いかに腹立たしくとも、ここはぐっと堪えてデータを集めねばならない。まったく学究の徒というのも楽ではない。なんだこの乳は。


「からしお付けしますか?」

 人知れず真理の探究に取り組む私の耳に、突如として店員の声が飛び込んできた。ふとレジを見れば、中年の男性客が豚まんを所望しているところである。先ほどの声は、その男性客に向けて、店員が問うたものと思われる。

「からしお付けしますか」という言葉は、なかなかに興味深い。凡人であれば何の変哲もない言葉と早々に断じてしまうところであろうが、私ほどの研究者ともなると、こうした凡俗たる些細な出来事の中にも価値を見出し、学を究めんとする習性が備わっているのだ。その私のアンテナが、「からしお付けしますか?」という言葉から考察に値する何かを感じ取った。こうした直感は、研究者にとって重要なものである。

 すかさず私は、あらかた見終わった雑誌からのデータ収集を中断し、この台詞への考察を開始することとした。こうした切り替えの早さも、有能な研究者として必要な資質のひとつである。


 考察に当たり、まず疑問として挙げられるのが、何故「付ける」という表現なのか、という点である。これはかねてよりコンビニにおいて疑問に感じていたことであった。

 からしのみに限らず、箸にせよスプーンにせよストローにせよ、必ず「お付けしますか?」と問われる。これは日本語としておかしい。私のように純然たる日本語を愛する者としては、この表現には得心がいかない。この場合、正しくは「ご要り様ですか?」と訊ねるべきである。

 この「付ける」が、「付属させる」という意味であろうことは私にも容易に想像がつく。そういう意味では確かに誤ってはいないかもしれない。しかし、箸やストローならいざ知らず、からしをもってして「付ける」という表現はいかがなものか。

 平常、「からしを付ける」という表現を聞いて、「からしを付属させる」と発想する者はいるまい。いや、研究者として安易な断定はよろしくない。全てとは言わないでおこう。しかし、私の予測するところでは、九割方の人間が、「付属」ではなく「付着」の意味で受け取るのではないか。この予測は正鵠を突いていると思う。

 なんとなれば、私は「からしお付けしますか?」と問われれば、「どこに?」と返すであろう。それ以外に正しい返答はないはずだ。だがこの疑問を解消するだけの答はなかなか見つからない。

 よもや所望した豚まんにレジその場でからしを塗ってくれるサービスなどなかろう。それはそれである種の要望を満たすかもしれないが、マニアックかつコストパフォーマンスが悪い。秋葉原の特殊店舗ならまだしも、大手コンビニチェーンが導入するとは思えない。

 では豚まんではないところにからしを付着させるのかと言うと、それもなかなか考えにくい。からしが調味料である以上、それを食物以外のものに付着させるのはそもそも邪道であり、食材に対する尊敬の念を失している。つまり豚まんしか購入していなければ、豚まん以外にからしを付けるということは根本的にあってはならないことであるはずだ。

 しかしここで私はひとつの可能性に思い当たった。「食べる」という表現を一種の比喩と考えてはどうか。そう考えれば、「食材」という表現も比喩的に演繹することができる。すなわち、本来的な意味においては「食材」ではなくとも、比喩として「食べるもの」だと捉えることが出来るものなら……ということである。

 これに当て嵌まるものを、私は浅学にして一つしか知らない。それは女体である。

 男性が女性の身体を欲するとき、得てして食することを暗喩した表現が用いられることは、論を待たない事実であろう。「貪る」「むしゃぶりつく」「喰らう」などの表現は、スポーツ新聞の風俗面にある連載小説などでもよく目にするところだ。私の妥協を許さない研究の目は、そうした卑俗な出版物のマイナー面も見逃さない。むしろ重点的に読破している。

 そう考えるのならば、先だっての疑問に一つ回答が思いつく。つまり、「からしお付けしますか?」「どこに?」「私に」──と、こうだ。

 店員が女性でなければ成り立たない、いや成り立ってほしくない考えではあるが、一つの考察としては悪くない。むしろ行き詰まりを見せる現代コンビニ経営に一石を投じる可能性があるのではないか。

 より具体的な検討に入ろう。

 客が豚まんを所望する。この豚まんもポイントだ。この後の展開が比喩で成り立っている以上、「豚まん」というファクターも比喩的に捉えるのが筋というものであろう。つまり「豚まんを食べる」という主語述語一体が比喩表現であり、これは明らかに「女体を欲する」という隠喩である。客は「豚まん」という隠語を通して女性店員に春を求めているのだ。

 ここでの女性店員の対応は二つのパターンが推測される。一つは「申し訳ございません。ただいま品切れで……」というもので、これはやんわりと拒否をしている。しかし客の求めを受け入れた場合は、「おひとつですか?」と訊くことになるだろう。つまりオプションとして、複数人での接客も可能だということを示しているわけだ。無論、豚まん二つ分の料金が必要となるに違いない。

 数を選び、互いに交渉成立の意思が通じたところで、いよいよ「からしお付けしますか?」の出番である。

 ここまでの展開からして、当然のごとくこれも比喩表現でなければならない。「豚まん=女体」「購入=性行為」という先行条件を鑑み、では「からし」は何を示しているのか、という考察が必要だ。しかしこれはそう難しい命題ではない。既に述べた通り、からしは「付属」させるものではなく「付着」させるものである。また店員は、あくまでも当然のことのように、豚まんを購入すれば必ずからしの有無を問うて来る。つまり、珍しいものでもマニアックな性的オプションでもないということに他ならない。

 性交時において当たり前のように使用され、なおかつ「付着」させるものと言えば話は簡単だ。そう、これに対する解答は「コンドーム」以外に考えられない。つまり店員は、性的交渉を交わすに当たり、コンドームを付けるか否かの選択を求めているわけである。

 先ほど私は証明中に一つだけミスを犯していた。「からしお付けしますか?」「どこに?」に続く言葉は、「私に」ではなく、「あなたに」であったのだ。何と言う発想の転換だろう。研究とはこうした意外な着想との幸福な出会いでもある。

 全ての疑問は氷解した。これでQ.E.Dだ。


 証明を終え、私はレジの店員を見た。若い女性である。おそらくは大学生かフリーターであろう。茶色い髪やピアス、化粧の濃さなどからの印象としては、いかにも今どきの娘ではあるものの、過度にけばけばしいとまでは言えず、まだ好感が持てる。好みとまでは言えないが、決して悪くはない。

 私はレジに歩み寄り、豚まんを所望した。店員は愛想の良い笑顔で「おひとつですか?」ときく。私は頷き、財布を取り出す。店員は保温器から豚まんを取り出し、手際よく紙袋に包み、私を見上げた。

「からしお付けしますか?」

 私は口の端だけで気づかれぬようににやりと笑い、「いや、いらない」と答えた。


 店の外に出た私を寒風が包み込む。襟を立てて信号を待ちながら、からしを付けない豚まんを一口ほおばった。

 今日はなかなか有意義な考察が出来た。帰宅してからは発育過多の水着の若者(女子)でなく、先ほどの店員と理論上のお相手をしようと決めた。


 からしを付けない豚まんは極めて美味い。

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短編集・濡鴉 @sig-k

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