二、
暖かい雨の日だった。
湿った土の上に、広がる赤い液体。
人々の喧騒。
重たい、金属と木の感触。
頬に当たる、柔らかな雫。
足が悪くなった父に合わせ、ゆっくりと、ふたりで歩みを進めていた。
突然誰かの悲鳴が響いた。
振り返ると、暴走した馬車がこちらへ向かってくるところだった。。
自分を目掛けてやってくる黒い塊に萎縮され、恐怖で硬直し、咄嗟に動くことができず、棒立ちになった。
これで終わるのだと思い、安堵したのかもしれない。
生きることが苦しくなっていたから。
『司』
叫ぶ声。
聞き覚えのある、懐かしい。
いつまでも聞いていたかった声。
そして腰に伝わる衝撃。
頬に当たる、湿った土の感触。
『司、大丈夫か』
抱き上げられて伝わる温もりに、これが現実なのだと悟る。
自分の傍には、直哉がいた。
横たわった姿勢のまま、心配そうに自分を覗き込む姿がある。何故いるのかと口を開こうとして、気付く。あるはずの、ものがない。
ふたり、並んで歩いていたのだ。
足の悪い父親とともに。
ゆっくりと、歩みを。
『父上、は……』
掠れた声。
ぼやけた視界。
いつも見ていた世界が、ない。
『司』
頬を伝うのは、雨の雫か。
それとも別のものか。
分かるのは、もうあの暖かい温もりには触れられないということ、優しい時間を、もう持てないのだということ。
『父上……』
永遠の喪失は、こんな風に唐突に訪れるのかもしれないと、思った。
意識は遠のき、次に目覚めた時にも、隣には直哉がいた。白い天井と、静かな雨音だけで満たされた部屋に寝かされていた。彼は、寝台の傍の椅子に腰掛け、片手は膝に置いた本を押さえ、もう片方の手は額に添えられていて、微動しない。
文字を追っているのか、それともただ息を潜めているのか。閉じられた瞼は、夢の世界を見ているのか、それとも書物の世界を覗いているのか。静かな空間に、ひっそりと、初めからそこに在るかのような、錯覚を覚えさせる存在。
静か過ぎて、ほぅ、と吐息をついた。
「目が覚めたのか」
見上げると、ほっとしたような表情を浮かべる直哉がいた。先ほどの静寂は嘘だったのだろうか、と首を傾げる。けれど、彼の手には本が、ある。栞のない本。それが彼のお気に入りの一冊だと言うことを教わったのは、学生の頃だったか。
「父上は…」
恐らく、知っていた答え。直哉もまた、気付いていたのだろう。
「静かな、お顔だった」
それだけ告げるのに、どれほどの力を有したのだろう。直哉の手から本は滑り落ち、拾おうと伸ばした手を、掴まれた。温もりに、ここが現実なのだと気付く。
「司」
止めて欲しい。そんな、優しい声は、聴きたくない。
「司、聞いて欲しい」
嫌だ。
嫌だ。
その手を離して欲しい。耳を塞ぐこともできない。
「俺はいる。ここに、いるから」
ふと、心に響く、言葉。
ここに、いるということ。
ここに、存在するということ。
「直哉……」
「お前の傍に。何があっても、変わらずに傍にいる」
他の誰が離れたとしても、決して離れないと、真摯な瞳と声で約束を、してくれた。
「いら、ない」
「司」
「そんなものは、いらない!」
手を、振り払う。
傷付いた瞳と、痛む心は、今でも忘れられない。思い返せば、どれほど傲慢だったことか。どれほど、自分勝手だったことか。
けれど、あの時は、あの時だけは、何も考えられなかったのだ。
母を失い、父を失い。血の繋がりのない母は、自分の欲求だけを要求し、誰も、味方がいなかった。
直哉でさえ。
その時には、救いにはなりえなかった。
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