三、

父が亡くなって一年後、義母が現れた。

父の遺産を食い潰すことは許さないと、はっきりと宣告する義母の腕の中には、生まれたばかりの赤ん坊が抱えられていた。

『お義母さん……』

『この子は、旦那様のお子です。遺産を継ぐ権利は当然、この子にもあります。司さんだけのものではないのですよ』

その子どもが真実、誰の子どもであろうと、もう関係なかった。ただ、この人は、安心したいだけなのだ。その為に、必要なものだけをはっきりと要求しているだけなのだ。

『わかりました』

もう、それだけしか言うことはなかった。その言葉を発した瞬間の、彼女の微笑みは忘れられない。実に満足そうな、満ち足りた笑みだった。

その後、両親の思い出の残る家に一人で住むのも息苦しくなり、売り払って見つけた家が、今の家だ。

雰囲気がよく、ここならば周囲に邪魔をされずに自分だけの世界を描くことが出来ると思った瞬間に声を掛けてきたのが、紫だった。

『ここは私の家よ』

地に足がついていないことも気にならなかった。

ただ、生気に溢れた姿に、圧倒されて、変わることができると、希望が生まれた。

いつまでも、誰かに依存してしまう心。変わりたいと願いながら、それでも、変わることのない、弱い自分。

紫との出逢いは、確かに、始まりだった。

それから二年が過ぎて、出逢いも別れもあって。気が付けば、いつも傍らには紫と直哉がいて、あまりにも自然にそこにいるものだから、あの時振り払った手を弁解する機会はないままだ。

今でも、言い出すきっかけが掴めずにいる。逃避しているのだと分かっている。理解していても、言い出しづらい。差し伸べられた手を振り払ったのは、そうしたかったわけではなく、ただ、独りが怖かっただけなのだと、伝えればよかったのだと気付いたのは、ずっと後になってからだ。

(今なら理解できるのに)

彼はどこまでも優しくて、縋り付いてしまいたくなる。そして、それを赦してくれる。

「花見に行こうか。皆で」

せっかく原稿も渡したし、今日は皆で出かけよう、と声を掛けると、紫は首を振り、直哉は上着を手に立ち上がった。

「紫は行かないのか」

「ここで桜を見ている方がいいわ」

微笑みに、少しの翳りが見えるのは、気のせいではないだろう。縛られているわけではないが、紫はこの家から離れることを好まない。以前、その理由を聞いたことがあるのだが、上手くはぐらかされたままだった。いつか、話してくれる日が来ることを待っている。

「二人でいってらっしゃい」

いつもと変わらない笑顔と、送り出す言葉。

何も、不安に思うことはないのに。

「お土産を買ってくるよ。何が良い」

「そうね……なんでもいいわ。司が選んでくれるものなら」

「そう、じゃあ、紫に似合いそうなものを見てくるよ」

「えぇ、楽しみにしているわ」

微笑む姿は、義母のそれとは異なり、本当に心からのものだ。底知れない恐ろしさは秘めていない。それになんとなく安心し、直哉を伴い、外へ向かった。しばらく沈黙が続き、耐えられなくて、口を開く。

「すまなかった」

ぽつり呟く言葉に、直哉は微笑むだけだ。なにが、とは言わなくても、意味は、きっとわかっているのだろう。同じ年のはずなのに、彼にはこうした、手の届かない領域を持っている気がする。立場は常に同じでありたいのに、いつまでも追いつけないような。

「あれは、誰のせいでもない。まして、司。お前が故意にしようとしてしたことでもないことは、俺はよく知っているよ」

優しさに満ちた言葉に、涙が溢れる。どうした、と頬に添えられた手に、手を重ねる。伝わる温もりに、春の暖かさを重ねる。

「紫に、何を買えばいいかな」

微笑むと、そうだな、と直哉は笑みを返す。

簪がよいか、リボンがよいか。それとも流行のものを選んだ方がいいか。

春の陽射しの下。

夢ではない、温かさに。

雨が、止む。



【了】

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【といろ浪漫譚―花時雨―】 結樹 翠 @shigukoi

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