一、

ほら、あの方

あぁ、お父上が事業に失敗なさって

お母上は病で亡くなられているのでしょう?

後妻の方もご実家へ帰られたそうですわ

それなのに子供は二十歳を超えても働かずに

元は由緒正しい華族のお家柄でしょうに


外を出歩けば、煩い声は常に耳元に届いていた。

身体が弱い為、外で働くことができず、部屋に籠りきりになるその姿を、頼りないと言われても仕方がない。彼らにとって働くということは、外で動くことなのだ。家の中で、筆を手にとり、机に向かうことは彼らにとって職業ではない。

「親不孝者と言われても致し方が無い」

ぽつり、と呟く声は誰にも届かない。分かっていても、それでも止めることは出来ない。筆は進む。

真っ白な原稿用紙は文字で埋め尽くされる。世界が生まれる。何かを創造する瞬間に立ち会う喜び、そして、全てを支配していると言う実感。他の何物にも変えがたい、感動。

(誰に理解されなくともいい。自分が理解していればいい)

それがどれほど傲慢で、孤独か、まだ本当には気付いていなかった頃、世界はたった一人で構築できるのだと思い込んでいた。

近頃度が合わなくなってきた眼鏡を掛け直し、原稿用紙に向かう。こうして時間が過ぎていくのを待っている。結論、どれほどの時間が経っているのかを認識するのは、完全に筆を置いた瞬間だけだ。次の瞬間には、再び世界へ没頭する。それを止められるものはない。

「司」

低い声。そして、伝わる、温もりの気配。

あぁ、そうだ、一人だけいた。

世界を創造すること、破壊することに没頭する自分を止められる人物。

「直哉、もう少し待ってくれ。もう少しで、出来るんだ」

世界が構築される瞬間に、破壊の滴を落とす。黒い世界が広がる。

一文字一文字に込められた想いが、意味を成す。その瞬間が、訪れる。

「司。止めろ」

ぴたり、と筆が止まる。彼の声は、神の声に等しい。世界を創造し、破壊する神よりも、神に近い存在を、何と言えば良いのだろう。

転がる万年筆は、机の端から落ちる。世界が閉じた瞬間を見る。

「すまない」

「いつものことだ」

気にすることは無いと、直哉は告げ、腰を下ろす。ふわりと伝わる、雨の気配。湿った空気と、埃の匂い。

「雨?」

「あぁ、小雨程度だな。時節柄良くあることだ」

「そう、か……春か」

同じように窓の外を見つめる。

静かな雨の夜、密やかに忍び寄る、闇の気配。

「直哉。こんな夜には思い出すよ」

雨音より小さな声で囁く。

こんな夜は、思い出す。父が、亡くなった日のこと。

「司、忘れろとは言わん。だが、思い悩むな」

「分かっているさ。だが母上のことを思うと」

「お前とお母上は違うだろう」

悲しみを同一視するなと、叱る声。直哉の一方的とも思えるこの口調は学生の頃から変わらない。正しいことを口にしているだけだと彼は言うけれど、それがどんなに困難なことか、自分はよく知っている。

「そうだな。すまない」

吐息を吐く。一つ吐く毎に、幸福が逃げていくのだと真顔で告げたのは、直哉だ。逃げてもいい、幸福にならなくてもいいと答えたら、悲しげな瞳をしていた。

あれは、まだ学生服を着ていた頃だ。両親がともに健在で、自分も体は丈夫ではなかったが、精神は健康だった頃だ。一人の時間を好んでいた自分の世界に入ってきたのは、直哉だった。それからずっと、彼は傍にいる。どれだけ自分だけの世界に入り込んでいても、つかず離れず、ずっと、変わらずに傍にいてくれている。それに、どれだけ感謝しているか、きっと彼には伝わらないだろう。

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