【といろ浪漫譚―花時雨―】

結樹 翠



桜色の滲む雨の日

遠い夢をみる



「あら、この庭から桜が見えるのね」

縁側に腰掛けた紫がそんなことを呟く。

「ずっと昔からこの家にいたんだろう。知らなかったのか」

「外なんて出ないもの」

ずっと、見えないところにいたのよ、と視線を桜から離さず、紫が続ける。外も中も見えないところ。ただ、己だけが存在する空間に、とぽつり、と呟く言葉を、聞こえない振りをする。お茶を差し出しながら、一度も出なかったのかと聞くと、興味もなかったから、と先ほどの独り言をなかったことにしたいのか、素っ気ない返事が返ってきた。

「きれいじゃない。霧雨に桜の薄紅がけぶるように見えるわ」

「そうだね」

この世のものではないような静けさを、暫し楽しみながら、お茶を口にしていると、紫がそういえば、と口を開いた。

「今日、直哉は来るの」

「原稿が出来たと連絡をしたから多分来るだろう」

「お土産は道明寺がいいわね」

「いいわ…って」

以前の彼女がどういう存在だったのかは、殆ど知らされていない。ただ、人とは異なる、ということだけははっきりしている。また、これほど喜怒哀楽ははっきりしていなかっただろうし、ましてやお土産を待ち望んでいたこともなかっただろう、と思案する。

直哉なら、もうこちらに向かっている頃だろうと苦笑すると、玄関のベルが鳴り響いた。

「直哉ね」

迎えに行ってくるわ、と紫が姿を消す。迎えに行くのは、直哉かそれともお土産の方か。その無邪気な様子に、彼女がこの世の存在とは違う、ということを忘れてしまいそうになる。

すぐには来ないだろう、と、庭の桜の木に視線を向けた。静かで、温かい雨だと思いながら、瞼を閉じる。締切のせいで、もう何日もまともに寝ていない。直哉の相手はきっと、紫がしてくれるだろう。

縁側に横になり、雨音を聴く。雨で桜が散れば、藤が咲く。藤が散れば、入梅も近い。花見の時期が過ぎたら、そうしたら今度は、何をして暇をつぶそうか。もちろん、暇を潰すような余裕もなく、次の原稿の締切はすぐに来てしまうだろうけれど、その前に、季節を楽しむのもまたいいだろう。

そんなことを考えていると、

「ここの主人は、客が来ると分かっていて横になる習慣でもあるのか」

楽しげな声が降る。雨音に寄せていた意識が、現に戻る。起き上がりながら、姿勢を正す。この青年は、意外と几帳面で煩いのだ。

「いらっしゃい、直哉」

「転寝もいいが、風邪をひくなよ」

上着を脱ぎながら、直也が続けた言葉に、口の端には笑みが浮かぶ。彼は、いつもそうだ。私の行動や思考を否定しない。外の空気を運びながら、心は内にあるのだと、告げてくれる。創造は私の全てで、世界を構築するものだと知っているのは彼だけだ。どうしても現実を認められないときも、全て受け入れてくれたのは、彼だった。

「なんだ」

「別に。ほら、お待ちかねの原稿」

原稿用紙の束を受け取ると、直哉は縁側へ座り込み、早速読み始めた。やがて紫も姿を現し、司の新作ね、と声を掛けながら、隣に座る。肩越しに、原稿用紙を覗き込むあどけなさに、笑みを零してしまう。

気が付くと、外の雨はいつの間にか止んでいる。ぼんやりと眺めながら、吐息をついた。溜息とも囁きとも取れる吐息は、原稿に目を通していた直哉の耳にも届いた。

「司、どうした」

「思い出していた」

こんな天気の日だった。直哉に声を掛けられた日も、紫に声を掛けられた日も。全てを失って、手に入れた時も、こんな風に雨上がりの空を見ていた。

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