第34話
「君達が来ることは分かっていた」
彼はゆっくりと、言葉を選ぶようにして話し始める。
「今階下で起きている抗争が何を目的としているかも、ね。質問があるなら、答えよう。話せないことも多くあるが」
茅乃はカップを置き、ミネットにコーヒーを飲むように促して、彼に向き直った。
「王楼学院高等部二年生、浦瀬茅乃です」
「おっと、自己紹介がまだだったか。大黒学院客員教授、
彼が──。
ミネットはカップを口元に傾けたまま、木肌の顔をじっと見つめた。
「お招き頂きありがとうございます、木肌教授。単刀直入にお聞きします。何故、貴方はオブザーバを……
「賢い質問だ。そうだな、どこから話そうか……」
木肌がテーブルの側面を数回タップすると、天板の上にホログラムのディスプレイが現れた。
東京全域のマップだ。
赤い点は恐らく、現存する学院を示している。
王楼、白木院、南陽、大黒……加えて、幾つか点在する他の学院。明北が灰色の点で記されていたことにミネットは気付いたが、何も言わなかった。
「この東京には今、せめぎあう三つの世界がある。分かるかね?」
「……いえ」
「一つは、大人の世界。東京は荒廃し、人の住める区域ではないし、人は住んでいないとする、世間の目。君達の親御さんも、今すぐ東京を出て疎開先に来て欲しいと願っているだろう」
あの大災厄の後、母親からしきりに電話が掛かってきた時のことを茅乃は思い出した。それでも彼女が残ったのは、この災厄の中でも家庭の事情で帰れない者が居たこと、そして──。
「二つ目は、子供の世界。君達の世界だ。この世界は大人から見れば極めて狭く、限定的なものにすぎない。だから、君達はそれを守ろうと必死で戦う。……この
そう。茅乃は、東京に生きる子供達は、ただ、自分の世界を守りたかったのだ。
大人に従って地方に移り住み、新しい生活を育むことも可能だっただろう。
でも、それには今まで築き上げてきた世界を捨てなければならない。この学院で過ごした数多の思い出を触れることのできない遠い所に閉じ込めて、忘れなければならない。
茅乃は分かっていた。
いつか、そうしなければならない時が来ることを。それが、大人になるということだと。
しかし、それは今じゃない。
彼女は、戦う道を選んだ。
そうして同じ選択肢を選んだ者達が、共に生き、そして生き残るために、戦ってきた。
「三つ目は、研究者たちの世界。東京の異常を直し、全てを元通りにするために活動する、正義の世界。──建前は、ね。この大黒に来たということは、君達も何かを掴んでいるはずだ。それが真実かどうかはさておき……彼らの正義もまた、他の二つの世界と相容れないものだ」
「……貴方は?」
「私にとってもね。……私は昔、EDDAの人間だった。といっても、災厄よりは随分昔の話だが」
木肌は椅子に深くもたれこみ、壁に立てかけられた棚を見据えた。
ネットワークや電脳に関する分厚い技術書が立ち並び、一角には木肌蒙凱と著者に書かれた本もあった。その一方で、上段には見慣れない書籍が並んでいる。
発達心理学入門、青年心理学、子供との対話の仕方。
「私は、研究者でありながら、大人でありながら、子供の世界を守りたいと願った、言わば異端者だ。無論、直接関与することはできないから、
「
「夜間の戦闘は精神的にも肉体的にも良くないからね」
茅乃はテーブル上のマップに視線を落とす。
仕組まれた、と言えば聞こえは悪いが、そういう見方をすれば、彼女たちは結局大人の用意した遊び場で駆け回ってただけに過ぎない。
では、彼女たちの戦った意味は? 茅乃は、自分自身を見失いそうになる心をぐっと抑えて、尋ねた。
「……貴方は私達の戦いを〈観測〉して、何を得ようとし、何を得たのですか?」
木肌は彼女の感情を察するようにゆっくりと頷き、言葉を続ける。
「可能性だ」
「可能性?」
「そう……子供たちの世界だけが持ちえる〈可能性〉。東京を救うための、もう一つの選択肢」
木肌はブラインドを開ける。
弱々しい陽光が、部屋に三筋の光を差した。
「大人たち、そして研究者たちは彼らの世界が持つ強大な力をもって、君たちの世界を破壊しに来るだろう。いつだって、大人たちは真実を知っている。そして、真実を知らない子供たちを見下そうとする。
だが、それは答えだろうか。違う。彼らの言う真実とは、行き詰った彼らが仕方なく導き出した、ただの結論だ」
窓の外には、大きな校庭が広がっていた。
大黒学院の誇る、子供たちのための世界。そして今まさに、連合軍と大黒学院の最前線が、ぶつかろうとしている戦場。
「本当の答えは、君達の世界の〈可能性〉だけが導き出す。メモリーに収納されたARウェポンも、あらゆる抗争の戦術も、東京で生き抜く術も、君達が生み出したものだ。私は、ただそれを観測していただけの老兵に過ぎない。
……見たまえ、また新たな答えが、大黒の築いた要塞を打ち砕こうとしている」
イコナは、ボストンバッグから黄土色の筒を取り出し、真鈴に渡す。
炸裂と共に広範囲に特殊な材質の紙片をばら撒き、レーダーや射撃などを無効化する壁を生み出す、通称チャフグレネードだ。
「それを、どうするんですか?」
「決まってるだろう。投げるのさ」真鈴は筒を軽く振ってジェスチャーする。「その後ろから、有効射程に入ったナナが攻撃する」
言葉は少なかったが、イコナはすぐに理解した。
チャフの防壁はポセイドンの照射でさえ防ぐが、ナナのインフェクション・ブレードの投擲なら貫通することができる。
「……ブレード投擲の射程はかなり短いです。目算しても、このグラウンドの広さでは……
「ふふ、自信はあるぞ。アスリートだからな。……まあ、このグラウンドを横断させるには、ちょっと力不足だが」
恐らく、オリンピック選手ほどの力量が必要になるだろう。
「だから、別の手段を準備した」
軽快な足音が聞こえてくる。
一歩一歩が確実に地面を捕らえ、それでいて的確に前方に進むだけのエネルギーを放出して離脱する、歯切れのいいステップ。
コンマ一秒早ければ力は宙に発散され、遅ければ重力に囚われてしまうだろう。この職人技のように洗練された足運びは、ひとえに長きにわたる鍛錬の結果としてのみ現れる。
引き締まった褐色の身躯。
真鈴は彼女にチャフグレネードを手渡し、
「頼む」と短く言った。
恵理は、無言で頷く。
そしてすぐに、グラウンドへと駆け出した。
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