虹待ち二重奏
高瀬拓実
虹待ち二重奏
綿を敷き詰めたような鈍色の空が、重みに耐えかねて瀑布のごとく雨を落としている。そのせいで視界は悪く、窓の外の景色全てが煙って見える。近くの雑木林も田畑も民家も全部がぼんやりしている。
雷は鳴っていない。でも、鳴りそうなくらい空は暗い色をしている。
こりゃ当分止みそうにないなあ……。嘆息し、窓から目を離す。
時刻は四時十分前。六時間目が三時十分に終わったから、もうかれこれ四十分も待機していることになる。
机の上にはいくつか鞄が放置されていて、クラスメイトがまだ残っていることを示しているが、教室には俺一人だけ。きっと友人と集まって駄弁っているのだろう。図書館辺りで。
俺もそうしたかった。でも、友人は全員帰ってしまった。大抵は親が車で迎えに来ていたが、中には恵みの雨だー! って傘も差さずに駆け出していったやつもいた。俺はそいつではなく、そいつの鞄を心配した。中の教科書類が使い物にならなくなってしまうんじゃないかって。でも、杞憂だった。あいつは置き勉派だ。机の中に教科書とプリントと、友人から借りたオトナな雑誌が紛れ込んでいるのが見えた。なるほど、あいつの背中で鞄が大きく揺れていたのは、そういうことだからか。俺は今更になって妙に得心した。
結局、そのバカを筆頭に俺の友人は一人残らず消えてしまった。
俺だって一人寂しく教室に残っていたいわけじゃない。これには理由がある。
いたってシンプルな理由だ。
親は仕事で迎えに来れない。さらにバスが遅れて帰ろうにも帰れないのだ。
教室で一人雨が上がるのを待っているのは仕方がないことなのだ。
時期的には梅雨が終わり、いよいよ夏が始まろうとする頃。そう、梅雨は終わったはず。それなのに、雨が続いたり、かと思えば晴れたり、また雨が降ったり。梅雨がおもしろがって去ろうとしていない感じだ。
そして今日は、晴れのち雨という一番最悪な天気となった。その時点ですでに最悪なのに、さらに悪いことに、この時期の雨はじめっとしていて、しかも気温も高いから嫌な汗をかく。
はあ、とため息をついて俺は教壇付近に置かれたオンボロ扇風機のところまでふらふらと足を動かす。ただ歩くだけなのに木の床が大げさに軋む。黙ってろ、という意味を込めて強く踏みつけると、ギシィィ……とまるで生物のように声を出す。
俺はその声を無視して扇風機の前にしゃがみ込む。コンセントをさしてスイッチを押す。風量全開で稼働させると、ガタガタと怠そうな音を立てながら風を送ってくる。
嫌そうにすんなよ、と扇風機に声をかけ、とんとんと叩くと首がガクッと下がった。おっとやってしまった。オンボロ扇風機はそっとしておかなくてはいけないのだ。それじゃあ現役引退させた方がいいんじゃないの? ってなるけど、まったくもってその通りだ。とっとと引退すべきだと思う。でも、それができないからこの扇風機に頑張ってもらっているというわけだ。
服の裾をパタパタさせて風通しをよくする。送られてくる風は少し生温いけど、汗は十分乾きそうだ。
汗が程よくひくと、俺はオンボロ扇風機に気を遣って電源を切ってあげた。ありがとな、と感謝を告げてとんとんすると、また首が下がってしまった。
まあ、休んでいるって感じがするからこのままでいっか。
…………。
俺はなぜだか合掌して席に戻った。多分、その姿は燃え尽きて灰になった姿と紙一重に見えたんだと思う。
席につくと、ギターケースを開いた。退屈は体に毒だ。
俺は軽音に入っている。部室に行ってセッションでもしたいところだけど、例に漏れずバンドメンバーも帰ってしまった。つくづく沈んだ気持ちになる。
完全に取り残されてしまっている。俺はその理不尽さをギターに当てる。ギターにとってははなはだ迷惑な話だろうけど、ストロークせずにはいられなかった。
アコースティックギターが深みのある音を教室に響かせる。
俺の組んでいるバントはガチガチのロック趣向ではない。最近の曲もやるにはやるけど、一昔前の曲を演奏することが多い。主にアコースティックギターやピアノが主旋律となるようなゆったりした曲。バンドメンバーはそういう類の音楽が好きなのだ。もちろん、俺も。
今日は雨だから何かしっとりした曲がいいかな。
乱雑に動かしていた手を止め、振動した教室の空気をならす。
そしてアルペジオで寂寥感漂う教室に静かなメロディを広げていく。
…………。これじゃあ余計教室の雰囲気が暗くなってしまうかなあ。
手元で顫動する弦に目を落としながら苦笑する。でもやっぱり雨の日にはこの曲がいい。とある女性歌手の曲。男女の別れをテーマにしている。
こんな状況で弾いているからだろうか、気分が沈んでしまいそうになる。やはり選曲ミスだったか。
それでも一度奏で始めたらもう手は止まらない。気分に反して手は次へ次へとコードを抑え、弦を弾いていく。
窓際後方の隅の席で、対角を向いてギターを弾く。誰も聴いちゃいないけど、ギターを弾くと常に誰かを意識してしまう。
顔を上げると、教室の全景が広がる。整然と並んだ机。その上にまばらに置かれた学校指定の紺の鞄。
黒板には親を待っていたクラスメイトが書いた先生の似顔絵が残されている。
オンボロ扇風機は相変わらず首を垂れている。
数時間に一回程度で点滅する蛍光灯が、今まさにその寿命をさらに縮めた。
結構前からこんな状態だから、ついている間もその光は弱くて教室が薄暗い。特に今日は雨だから、いつもよりも陰鬱としている。
教室を眺めていても手は止めない。曲が二番に入った。
依然として雨は勢いを緩めない。それどころか強まっているように感じる。窓を叩く音が激しさを増している。窓に目を向けると、やはり視界が先ほどよりも悪くなっていた。
ここまでくるとむしろ思う存分降ってくれと諦めてしまう。
雨音がギターの音と混じる。雨の音はノイジーで、一歩間違えば不協和音という危険性をはらんでいながらも、絶妙にギターの音と調和している。アルペジオで弾いているからか、それとも選曲の影響か。……おそらく両方だろう。
こんな組み合わせもあるんだなあ。なんて感心していると、それは突然やって来た。
演奏に合わせて歌声がした。ちょうど最後のサビのところだった。俺はギターを弾くだけで歌は歌っていなかった。
扉に目をやると、一人の少女が首を伸ばして教室を覗き込んでいた。そいつは濡れた髪をべたりと顔に貼り付けて幽霊みたいな風体をしていた。でも、髪の隙間から見える大きな目と、口元の笑みが幽霊らしさを消し去っている。
少々面食らったが、演奏は止めない。なぜなら、その幽霊もどきが歌っているからだ。演奏に熱がこもる。
より響くようにと弦を弾く指に力を込め、それでいて優しく扱う。
幽霊もどきが次のフレーズを歌う。しかも歌詞になぞらえて対角線上にいる俺に向かって湿っぽい視線を送ってくる。
あざとい。俺はむっとしながらも弾き続ける。
そして幽霊もどきも教室に首だけを突き出して歌い続ける。
幽霊もどきの声は、やはりもどきだけあって幽霊みたいに嗄れて淀んだものではなかった。むしろ伸びやかで柔らかい声をしていた。
やがて演奏は終わった。彼女はパチパチと小さく拍手し、それからぴょこんと教室に足を踏み入れた。と同時に古い木の床が鈍い音を立てて、彼女から水滴が滴り落ちた。
「何やってんの」
と俺が訊くことを予想していたのだろう、
「渡り廊下、誰が一番濡れずに渡り切れるかやってたの」
とこいつは胸を反らして言った。
「バカなの?」
「うーるーさーい。いつもテストは互角でしょ。まああたしの方がちょっと上だけどさっ」
「んなことねーよ」ニカッと笑う間も、彼女の髪や服からは水滴が滴っている。俺はギターをそっと壁に立てかけ、鞄からタオルを取り出す。そしてそれを丸めて彼女に投げる。「風邪引くぞ」
「かもねえ。なんか寒いや……」
「だからバカだっつったんだよ」
「バカは風邪引かないもんねーだ」
「じゃタオル返せよ」
「そこは一応借りておこう」
「へっ、都合のいいことを」
一通り拭き終わると、彼女はタオルを返して隣の席に腰を下ろした。そしてふあぁっと大きなあくびを一つ。
「ところでさ、何でそんな曲演奏してたの?」
「結構古い曲なのによく知ってたな」
「まあ、ね。で、それで? 何でなの?」
「雨降ってるから」
「たーんじゅん」
「雨降ってなきゃこんな曲弾かねーよ」
その言葉は建前だった。お前が来ると知っていたら弾くことなんてなかった、というのが本心だった。でも、こいつは俺のその心を見抜いていた。
「辛い?」
「別に」
「強がっちゃって」
「あのなあ、人の気持ちをからかうなよ。てか、誰にも言いふらしてないよな?」
「さすがにそんな悪趣味はしないよ」
「絶対言うなよ」
「二人だけの秘密ね」
「そんなキラキラしたもんじゃねーけどな」
「えー、あたしは大切にしたいと思ってたんだけどな」
「よく言うぜ。俺にとっちゃシクシクなんだよ」
「シクシクってあんたが言うと気持ち悪いよ」
「うっせえよ。俺はお前がわかりやすいようにと思って言ったんだ」
「じゃあ、難しく言ってみてよ」
「…………」
何も思い浮かばなかったので、俺は彼女から目を逸らし、ギターを鳴らす。
「人をバカ呼ばわりしといてあんたも似たようなもんじゃない」
「うっせえ……」
いつも言い合いでは負ける。それどころか言い合いのみならず、実は彼女の言った通り、テストでも彼女の方が少し成績はいい。唯一勝っているのは身長位なもんだ。でも、それもほんの数センチ程度の話で、後ろめたさなしに誇れるものでもない。
っち……。少しは見下してやりたい。
しかめ面して適当に弦を弾いていると、鏡で髪を整えながら彼女が言った。
「でもさ、その曲ちょっとずれてるよね」
「え?」
「だって、あたしたちそんな関係じゃないじゃん」
「…………まあ」
「何、もしかしてあんたそういう妄想してたの? だからその曲弾いてたんでしょ」
「何でそうなるんだよっ!!」
「それにしても妄想しておいて、そういう方向に持っていくなんて救いようがないわねぇ」
「だから違うって!」
「あはははは。じょーだん! ね、他に何か弾いてよ!」
ふん! と鼻を鳴らし、ギターの音をとめる。
「他に何かって言われてもなあ……」
「明るい曲ね」
そう言って彼女は髪を一つにまとめる。
「うーん……」
正直そんな気分じゃないんだけどな……。明るい曲明るい曲……。
彼女がポニーテールを完成させ、前髪をささっと払ってこっちを見てくる。両手を両膝の間に置いて、少し前かがみになっている。先ほどの幽霊の面影は完全に消えて、活発で小悪魔な印象が前面に押し出されている。
濡れてつやつやした髪、上気して赤みがかった頬、その仕草。「ね、まだ?」と小首をかしげて顔を覗き込まれ、俺は思わず顔を逸らして考え込む。えーっと――
ああ、あるじゃないか。俺たちの望む近い未来を歌った歌が。
イントロをゆっくりと進める。本来の曲はもう少し軽やかに進んで行くが、ここは俺のアレンジでバラード調へと変更した。何せ雨だから。
イントロが終わるとAメロへと入る。今回は弾き語りにするつもりだったから、歌い始める。
すると、俺の歌に合わせて彼女も歌い出す。ご満足いただけたようで、目を合わせると彼女は照れたようにはにかむ。
それが嬉しくて俺の手は踊る。
俺と彼女の二重奏が世界を満たす。
やっぱりこうやってこいつと二人で歌うのは本当に楽しい。俺の歌声と彼女の歌声が混ざり合い、ギターの音に乗ってどこまでも広がっていく感じ。他の誰かと歌っても得ることのできない感覚。一度それを覚えてしまったら、もう二度と手放せなくなる。
だからずっと隣で歌ってほしい。
今なら伝わるかもしれない。気持ちは歌に込めて。
露骨に伝えるのではなく、それとなく伝える。
だからちょっと声が大きくなってしまった時は焦った。
気づかれていないかと横目で彼女を確認する。彼女は目を閉じて曲の世界に浸っているようだった。
少し強気なところの多い彼女も、歌う時はいい表情をしている。歌うことが好きだっていう想いが強く伝わってくる。
俺も歌うのが好きだから、その気持ちがよく分かる。その旋律、その歌詞、そして楽器に乗って流れていく自分の歌声。全てがまとまって一つの曲になる瞬間。その時に訪れる感動がたまらない。きっと彼女もそうだろう。
その時だった。
暗灰色の世界が急に色づき始めた。
俺たちの演奏が、魔法のような力を持ってそれをしているようだった。
赤、青、黄、オレンジ、 緑、 水色、 紫。七色の旋律がゆらゆらとゆらめきながら世界を虹色に染め上げていく。その様はまるで水彩絵具のような淡くて温かみのあるタッチだった。
鮮やかに染まっていく世界に見とれていると、彼女もまた目を開けて驚いた顔をした。俺たちはお互いに顔を見合わせて微笑み合う。
窓の外に目をやると、虹色の旋律が雨粒を煌めく宝石の雫に変え、雲を吹き飛ばして太陽を出迎えた。雨上がりの太陽がささやかな光を注ぐと、輝く雨の雫は意識を持ったかのように色とりどりの旋律に乗って空の彼方へと消えていった。
やがて演奏は終わった。最後の音がゆらりと漂う。虹色のそれは俺と彼女の前で停滞したあと、きらりと光って宙に溶けた。
それが合図だった。
気づけば教室はもとの冷たい様子に戻っていた。あの鮮やかさは皆無だった。そして、いつの間にか机の上の鞄は跡形もなく消えていた。きっと演奏中に取りに来たんだろうけど、まったく気がつかなかった。
ふと彼女を見ると、じっとこちらを見つめていた。
「何だよ」
居心地の悪さを感じてそう口にする。
「雨、上がったね」
振り返ると、一面が重い雲で覆われていた空に、青空が顔をのぞかせていた。その切れ間から地上に向かって薄明光線が伸びている。雨上がりの神秘的な光景。どこか虹色に光っているように見える。
「鞄、取ってくるね」
不意に彼女の声が聞こえたが、俺はずっと外を見ていて他人事みたいに「うん」と返事した。
ほんの数秒後、俺は飛び上がった。
「……え⁉」
彼女はちょうど扉付近にいた。振り返って無邪気な笑みを見せると走っていった。
俺も慌てて荷物をまとめると、慌てて追いかける。
「おい! 待ってくれよ! 一緒に帰ってくれんの!?」
「さあーねー」
「あっ、ちょっ、待てよ!」
「早く行かないとバス来ちゃうよー」
いまだ追いつけない彼女を目指して俺は走り続ける。木の床が激しく軋むが、気にしない。
ようやく彼女の後ろ姿を捉えた。でも、すぐに曲がり角を曲がって見えなくなった。ここぞとばかりに俺はより速く疾走する。
ふと、窓の外に目をやる。
すると、そこには真っ青な空と真っ白な入道雲があった。一足早い夏空に、くっきりと虹のアーチがかかっていた。
夏はもうすぐ目の前だった。
梅雨は完全に開けた。
俺の塞いだ気持ちもあの演奏とともに空の向こう側へ飛んでいった。
「あのさあー!」聞こえていると信じ、見えないあいつに向かって俺は叫ぶ。
「なあにー?」昇降口辺りで声がした。
「話、あんだけどー!」
「…………」
返事がない。やはりだめなんだろうか……。
「あとでゆっくり聞いてあげるから早くしなよー!」
自分でも顔が綻んでいるのがわかる。俺は再び廊下を駆ける。
きっとうまくいく。なぜだかわからないけど、そんな根拠のない確信があった。
だって、あんなカラフルな幻想の橋がこの先不幸をもたらすわけがない。暗く沈んだ色ならまだしも、あれは鮮やかな七色。幸福の象徴に違いない。
そう結論づけると、光が射し込んだような温かい気持ちになった。
俺は彼女を追いかける。
いつか、追いつける日を夢見て。
虹待ち二重奏 高瀬拓実 @Takase_Takumi
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