偶然のゆかり

高瀬拓実

偶然のゆかり

 彼女はきれいだった。と同時に僕はその差を悟った。僕は冴えない感じでかっこよくないけど、彼女は長めの黒髪に大きな眼と紅い唇をしたかわいらしい顔をしていた。

 そう、一目惚れだった。

 その瞬間は周りの時が止まったんじゃないかと錯覚してしまうほどに強い衝撃を受けたから、そんなこと理解できなかった。でも、今ならわかる。あれはきっと一目惚れだ。午後の授業が始まった今でも、降りしきる雨を視界に僕はあの瞬間を途切れることなく思い返していた。

 今朝、僕は寝坊をしてしまった。本来なら少しくらいは遅れても大丈夫だろうと気楽に考えるところだったけど、不幸なことに一時間目からテストが予定されていた。大急ぎで支度をした僕は、どうにかいつもより一本だけ遅い電車に間に合った――はずだった。電車が向かいのホームを遮る直前に、僕は一人の少女を捉えた。それが彼女だった。でも、すぐに電車が視界を遮ってしまった。

 僕は待った。早く行ってくれ。そう願うことしかできず、歯痒い時間が延々と続くように感じられた。ようやく電車が動き出しホームを去った後には、彼女の姿はなかった。

 風の電車がホームを走り抜け、天から水滴がその重みに耐えかねて落ちてきた。遠くでタイヤが地面を擦る音が聞こえる。いつしか次の電車が警笛を鳴らしながらホームに入ってきた。僕は我に返ったように濡れた車体を見やった。

 結局、僕は遅刻してしまった。テストも散々だった。でも、そんな些細なことなんか頭にはなく、常にあの衝撃的な光景だけが能を支配していた。

 午後の授業も終わり、僕は傘をさして足早に駅へと向かった。梅雨は去ったはずだけどあの時から変わらない勢いで雨は降り続いている。電車に乗り最寄り駅を目指す。半時間ほどで電車を降りた僕は、手近なベンチに腰を下ろした。僅かな希望を抱いて向かいのホームを見やる。でも、彼女の姿はなかった。それもそうか。今まであんな少女なんて見たことがなかった。たまたまあの時間、あの場所にいただけなんだろう。そう、言わばあれは一期一会。偶然がもたらした出会いなのだ。……でも、もしも偶然が重なれば……。そんな空想を広げながら、僕は駅を去った。


 翌朝、僕はいつも通りの電車を待った。当然、向かいに彼女の姿はなかった。昼休みになると、僕は昨日の出来事を友人に話して聞かせた。

「あはは、お前そんなことで昨日遅刻したの?」

「わっ……笑うなって」

「わりーわりー。でもな、それって偶然だろ。ま、もしまた会えたとしてもお前意気地なしだから声なんてかけられないだろうけどな」

 彼は僕を嘲りけらけらと笑った。

「……うっせーよ」

 僕は無意識のうちに声のトーンを下げていた。萎れたような姿の僕に見かねたのだろう友人は、「はあ……。じゃあさ、明日も遅刻ちてみたらいいじゃん」と言ってきた。

「……」

 ふと窓に目をやるとたくさんの水滴が付着していた。そのうちの一粒が出し抜けに動き出した。右に左に軌道を変えながら下へと伝っていく。やがてその粒は途中で他の粒と重なり合い、速度を上げて落ちていった。

「……偶然も重なれば運命に変わるのかな」

 つい口を割って出た言葉に友人は、「は?何言ってんだお前」と若干引き気味で言った。

「あっ、いや……今のは何でも……」

「まあ恋は盲目って言うしな。早いとこ目覚ませよ」

 彼はそう言うなり立ち去っていった。


 次の日、僕は普段乗る電車を複雑な目で見ていた。毎日この電車に乗れば余裕をもって学校に着くことができるけど、一本遅らせばギリギリ間に合うといったところだ。でも、あの時はその電車が入ってくるところで彼女を見たんだ。つまり、彼女と会うためには今の電車とこの次の電車を見過ごす必要がある。そう、昨日の友人の言葉がよみがえる。僕は高校に入学してから遅刻はしたことがなかった。そんなやつが後ろめたさを感じずにいられようか。

 足を踏み出そうとした。と同時に、脳裏に彼女の姿が浮かんできた。電車が彼女を隠す寸前に見た、風に舞うきれいな髪をおさえる仕草。一瞬のことだったけど驚くほど脳に焼き付いていた。やっぱり……彼女のことが好きなんだな。

 電光掲示板にはすでに次の電車の時刻が表示されていた。向かいのホームに止まっていた電車が動き出した。結局、僕はそのまま駅に残った。罪悪感がないと言えば嘘になるけど、もう決心はついている。

 そろそろ電車が来る頃だ。僕は立ち上がり線路に近づく。そして向かいのホームを見渡す。スーツを着た人や僕と同じように半袖のカッターシャツに身を包んでいる学生がちらほらうかがえる。しかし、肝心の彼女の姿が見えない。アナウンスが入り僕は焦り始める。どこか。どこかにいてほしい。そう願い目を凝らしてみるけど……。電車はその願いを眼前で断ち切ってしまう。早く行け。あの時と同じようにそう念じる。しかし、またしてもあの時と同じように彼女の姿はそこにはなかった。


「お前ほんとに遅刻してくるとはな」

 授業後の休憩時間のことだった。友人は驚きの色もわずかながらに含ませた嘲笑をしてみせた。僕はふてくされたように降りしきる雨をずっと見て、彼に耳を貸さない素振りをした。バカにされるのはわかっていた。

「残念だけどあれは単なる偶然だよ」

 至極もっともなことを述べる友人。

「……うん。僕だってそう思うよ」

「だったら――」

「でも……。望みがないわけじゃないだろ。いつもあの時間に待っていたら――」

 彼が諦めろよと言おうとするその前に、僕は言葉を紡いだ。でも、言ってから気づいた。

「お前、毎日遅刻するつもりかよ」

「そ、それは……」

 確かに毎日遅刻するわけにはいかない。それに、たとえ遅刻して待っていても彼女が現れるとは限らない。やっぱり……。

「淡い幻想を抱いてたのかな……」

 僕は机に目を落とし、つぶやくように言った。

「一目惚れするなとは言わないけど、お前のそれって叶いっこないじゃん。ま、諦めるこったな」

 手をひらひらさせて澄ましたように言ってきたから、僕は「やなヤツ」と捨て台詞を吐いた。

 学校が終わり、またしても僕は彼女が現れないものかと待った。最寄り駅のベンチで、天から降り注ぐ雨をぼんやりと眺めながら待った。

 あの時はああ言ったけど、やっぱりまだ諦められない。向かいのホームを見渡す。制服を着ている学生は少なく、一人ひとり顔を確認するのは簡単だった。彼女はいなかった。

 まあ、それもそうか。

 僕は心のどこかでそれが当たり前なんだと悟るようになっていた。駅を後にした僕は、なんだかそのまま家に帰る気になれなくて駅と直結している書店に入った。特に目当ての本があるわけでもなかったけど、おもしろそうなものがないか適当に手にとってみる。

 それから十分ほど本を見て回った僕は、そろそろ店を出ることにした。外は先ほどよりも雨脚が強くなっていて、前を横切る車のワイパーの忙しない動きがその強さを如実に表していた。横断歩道を渡ってもいいけど、何しろ雨が強い。あまり雨には濡れたくなかったから、屋根の下を歩いて帰ろうと思った――。

 何度同じ表現をしただろう。時が止まったのかと思った。雨で視界が曇っていたけど、それでもはっきりとその姿を捉えることができた。横断歩道を渡ったその先、駐輪場付近で彼女は空を見上げていた。きっと雨宿りをしているんだろう。そう思った。

 …………。

 強く再開を望んだその相手が今目の前にいるというのに、僕は逡巡していた。彼女に話しかけなきゃ歯車は回らない。そうわかっていても、胸の鼓動は早鐘のように高鳴り、少し息苦しさも感じてしまう。いっそのこと逃げ出したいと思った。でも、その時。友人の言葉が頭の中で反響した。

 気がつけば僕は彼女の前にいた。目の前の彼女は、大きな眼をより一層大きくさせて驚いたような表情をしていた。どうしてそんなに驚いたような表情をしているんだろう。もしかして、僕の顔がものすごく真っ赤になっているからだろうか。ああ、それもあるだろうけど、傘を差し出しているからか。そりゃあ驚くよな。何か言わなきゃ……。

「あ……あの。よかったらこれ、使ってください」

「えっ」

 紅くて潤いのある唇がそっと開いた。彼女の声は高くて澄んでいた。

 このまま彼女の潤んだ瞳を見つめていたらどうにかなってしまいそうだ。僕は無意識のうちに彼女の手を取り、傘を握らせると一目散に駆け出した。彼女は何か言っていたような気もするけどよく覚えていない。少し走ると、僕は足をとめた。上を向く。大粒の雨が顔を打ち付ける。

 全部……洗い落としてしまえ……。

 今になって自分のしたことを振り返ると激しい後悔の念が押し寄せてくる。きっと緊張のせいでひどい顔をしていただろう。声も上ずっていたに違いない。こんなことなら声をかけなかったらよかった。時が戻ってくれたらなあなどとあり得ないことを望んでしまう。

 だけど……。間近で見る彼女は本当にかわいかった。

 遠くからでも確認できるほど艶やかな髪は、近くで見ると一本一本が滑らかで絹糸のようだった。瞳は涙で濡れていてキラキラしていたし、肌はきめが細かくて白かった。彼女に近づくことで、さらに強い恋心を意識した。

 そんなことを考えていると、急に体が熱くなっていくような感覚を覚えた。次第に体が重くなっていく。なんだか変だ。帰ったら少し横になろう。


 それから僕は一週間ほど熱で寝込んだ。二回の遅刻のあとに一週間の欠席。これはかなりの痛手だ。さらに悪いことに、登校を再開しようとした今日も遅刻が確定している。さすがにこれ以上休むと授業についていけなくなってしまうから、遅刻をしてでも学校に行くことにした。

 駅のホームで電車を待つ。あれから一週間、ずっと寝ていたから当然会えるわけもなくて。かと言って今日遅刻したから会えるとも限らない。でも、そうとわかっていても、もしかしたらって……。


 もしかしたら。

 今日はセミも待ち望んでいたかのような晴れだ。かなり暑い。向かいのホームから電車が出発する。

 そこに、彼女はいた。

 辺りをキョロキョロと見回し、誰かを探しているようだ。すぐに、それはわかった。両手でしっかりと黒い傘を持っている。と、僕と目が合った。彼女も僕に気づくと声は聞こえないけど、あっと言葉を発したように唇を開いた。

 気づけば僕は走っていた。何も考えずに階段を駆け上がる。急げ。彼女がいるうちに。やっとの思いで最後の一段を上り切る。そこまでたどり着くのに長い長い時間を要したような気がした。角を曲がり、再び走り出そうとしたその時、前方の突き当りの角から彼女が姿を現した。僕を見据えたまま胸に手を当てて息を整えている。その瞳を見ていると吸い込まれそうになるから僕は目を逸らしたかった。でも、それじゃあいつもと同じだ。逃げるな。自分に言い聞かせ、僕は一歩を踏み出した。次第に彼女との距離が縮まっていく。

「……」

 僕達はお互い手の届く距離まで近づいた。彼女が傘を差しだしてくる。

「あの……これ、ありがとうございました。すごくたすかりました」

 彼女は頭を下げ、そして微笑んだ。

「あ……いえ」

 僕はそっと彼女の手から傘を受け取った。

「私、ずっとあなたに傘を返さなくちゃって思ってて……。でも全然会えなくて……。やっとこうして会えてよかったです」

 彼女はそう言うと微笑んだ。

 静寂。僕の頭は何か言葉を紡がなきゃと高速で回転を繰り返す。

「遅刻……しちゃいましたよね」

 と、唐突に彼女が苦笑を浮かべて言った。

「えっ」

 ああ、すっかり忘れていた。でも、今となってはもうそんなことどうでもいい。もっと大切なことがある。

「はい。確かに遅刻確定ですね」

 そう言うと彼女は申し訳なさそうな表情をするから、「でも、それはあなたも一緒でしょう?」と付け足した。

 少し間があって、彼女は頬を緩めてはいと答えた。

「それと……」

 これから言おうとしていることは、きっと今までで一番おもい言葉だろう。胸の鼓動が速まっていくのがわかる。彼女は、続きは?と言わんばかりに怪訝な表情を浮かべている。

 電車はすでに出発してしまっている。それに乗れば安全な場所に連れて行ってくれただろう。だけど、もう退屈な毎日には飽きたんだ。ほんのわずかでも勇気を出せば、未知なる世界に足を踏み入れることができるはずだ。

 僕は深呼吸し、ゆっくりと口を開いた。

「初めて見た時から……あなたのことが――」

 警笛を轟かせて電車が過ぎていくのがわかった。右の窓から夏の日差しが射し込んでくる。聞こえなかったんじゃないか。急にそんな不安が押し寄せて来た。恐る恐る彼女の顔を見る。

 僕が傘を差し出した時と同じように、彼女は目を大きく見開いていた。が、やがてゆっくりとその小さな顔に優しい陽だまりのような微笑みを滲ませたのであった。

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偶然のゆかり 高瀬拓実 @Takase_Takumi

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