白矢の雨
晴見 紘衣
第1話 雨を降らせる魚は人も食べる
泥のにおいが喉を締め上げた。
「サヤ! まって!」
体を起こしながら叫ぶ。祭司さまが腕と肩を掴んで放してくれない。サヤの背中があっという間にかすんでしまう。
嫌な雨だ。こんな雨、大嫌いだ。
ねえサヤ、いかないでよ。
助けたいよ。
助けさせてよ。
大好きなんだよ。
「サヤ!」
サヤが振り向いた。
容赦ない雨に瞬きを繰り返した刹那、はっきりと見えた。しぶきを浴びながらサヤは笑っていた。
「フウナ! わたし、フウナに救ってもらったよ!」
サヤが両手を自分の胸に当てた。そして「救われたよ」と繰り返した。
「ありがとう! 目、閉じて! 雨、あがるよ!」
サヤがくるりと踵を返す。
ためらわない背中が見えた。
瞬間、泥まみれの手が凍った。
白い雨のむこうに目を凝らす。
見失ってしまった姿を探した。
銀色の鱗が光って、ひときわ大きな水音がした。
沼が膨れた。
* * *
「雨だ」
「ええ? 雨?」
縁側でひなたぼっこをしていたおじいちゃんが空を見上げた。
草むしりをしていた手を止めて一緒に見上げる。水がぱらぱらと光をはじいて降ってきた。
でも空は青くてまぶしい。日差しも強くて雨雲なんて見当たらない。
「お天気雨だね」
「いや」
「おじいちゃん?」
おじいちゃんは両耳の後ろに手を添えていた。何か聞こえるんだろうか。真似をして耳を澄ました。
そよ風が吹いた。冷たくて乾いている秋の風だ。
遠くに水の音が聞こえた。川が激しく流れているような、滝のような音だ。
おかしいな。
そんなに流れの速い川も、滝も、この近くにはないのに。
「阿芽か」
おじいちゃんが溜息をついた。
「また降ったか……ああ、二十年ぶりくらいかの」
重そうに腰を上げたおじいちゃんが裸足のまま庭を横切っていく。庭いじり中のわたしと違ってたくし上げていない袖がヒラヒラと動いた。誘われるように黙って追いかけた。
小道をしばらく歩いて立ち止まる。道の先にひろがっているのは、うちの田んぼだ。
「青いのお」
これほど悲しげなおじいちゃんの声を初めて聞いた。
まいったなあ、とお父さんが言った。
囲炉裏を囲んでいるのはお父さんとご近所の大人たちだ。お母さんと一緒にお茶を出してまわりながら聞き耳をたてた。
「収穫までまだひと月はかかる」
「日は照っているが」
「
「ぐずぐずしてると根腐れだな」
「虫もつく」
「音もしないような小降りなのに」
「油断しちゃならねえよ」
「言い伝えを甘く見るな。あれは教訓なんだ」
「このままだと収穫できねえぞ」
「村長はなんて言ってる」
「祭司さまと話してる最中だそうだ」
「じゃあ……」
「覚悟しとけよ。近いうちにお
場が静かになった。
お茶をすする音がいくつも重なって、不吉な囁きのように聞こえてくる。
お人身さま。
小さい頃から聞かされてきた言葉だ。
友達とその話をしては、こわいねえ、と怯えたこともある。だけど半信半疑だった。まさか本当にこんな日が来るとは思ってなかった。
深刻そうな空気は居心地が悪い。気づかれないようにそっと表に出た。
今日も青空だ。お日さまが東の空で熱い光を放ち、村に飛んでくる水のつぶてを照らしている。だけど気分は晴れない。
阿芽のせいだ。
木陰を目指して走った。雨を浴びたくなかった。だって生臭い沼の水だから。いくら小降りでもすでに四日も降り続いているから、村全体に嫌なにおいが染みつき始めているような気がする。
お人身さまなんて。
白矢の雨なんて。
ぜんぶ阿芽のせいだ。
阿芽が悪いんだ。
昔、長く続く天気雨の謎を突き止めようとした村人たちがいた。
周辺の村の様子を見に行って気づいたことは、雨はこの村にだけ降っているということだった。
この村の外れには原っぱがあって、そこには白矢の沼という大きな沼がある。雨はこの沼に近づけば近づくほど激しくなった。
原因は阿芽だ。
阿芽が沼の水を噴き出していた。
その勢いは強烈で、天高く打ち上げられた水は弧を描き、原っぱを越えて村にまで落ちてきていた。
阿芽は魚だ。
あれは魚ではない、とよそからやってきた人が言ったらしいけれど、水の中で生きているのだから魚だ。ちゃんと尾びれも背びれもあるし、鱗もある。
ただし、巨大な魚だ。
顎の先から尾びれの先まで、成長した阿芽は人の背丈より大きくなる。今まで確認したなかで最も大きかった阿芽の全長は、大人の男の三倍だったらしい。
なぜ阿芽が沼の水を噴き上げているのか。
村人たちはさらに調べようと沼に近づいた。するとぬかるみに足を取られて一人が沼に落ちた。とたんに阿芽が一斉に群がってきて、その村人は食べられてしまった。
そばにいた別の村人はどうすることもできずに眺めていたという。
村人を食べているあいだ、阿芽は水噴きをやめていた。食べ終わっても、もう水を噴き上げることはしなかった。そうしてひと月以上にも及ぶ天気雨はやんだ。
阿芽が降らせる天気雨、いつからかこれを「阿芽の水噴き」とか「白矢の雨」とか呼ぶようになった。
阿芽はいつも人を食べるわけじゃない。
白矢の雨を降らせているときだけだ。
だからお人身さまが選ばれる。
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