この左手が -reminiscences-
一度だけ、薪を抱えて運んできたキトリが父の前で妙な出っ張りに躓いて転びそうになった。両手の塞がったキトリが小さな悲鳴をあげるのと、父がそれに気付くのはほぼ同時だった。父は滑り込むようにキトリを抱きかかえてくれた。その時だ、包帯で雁字搦めにされているキトリの左の手の先が父の右腕に突き刺さったのだ。
『……ぐっっ』
くぐもった声でうめき声をもらした父は、ただ懺悔と血の紅に怯えるキトリの溜まり始める涙を見るなり、強張っていた口元をふっ、と緩め、作った事など殆ど無いような笑顔で
〔大丈夫だ、大丈夫だ〕
と、言わんばかりにキトリの頭をくしゃくしゃっと撫でた。キトリはというと、真っ赤に染まって行く父の右腕と、この左手の悪魔を呆然と見つめてただただ泣くだけだった。
それは当然、帰宅した母に知られる事になる。製鉄場に行っていた『令』破りと父に怪我を負わせた二重の罪があってから、毎日母は買い物に出かける前になると、必ず一息でキトリに『令』を言い放ってから外出するようになった。
父は、それから当分の間製鉄場に来なかったキトリも、やがて再び顔を出し謝るキトリも、いつも同じ暖かい目で見て不器用に頭を撫でまわした。
結局一度怒られてなお製鉄場で手伝いをしてはいるが、これがキトリにとっての唯一の生きている実感だった。
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