第一章

プロローグ -reminiscences-

 鉄の塊のような頑丈なドアが少しずつ開き、恐る恐る外の様子を見渡す少年の姿があった。年の頃は六〜七歳だろうか。周囲に誰もいない事を確認するなり、無邪気な笑顔で一歩、また一歩とドアから離れていった。


「これは……僕だ。言いつけを破った、あの日の僕……」

 茜と鉛色に覆い尽くされた空。金属の焼ける匂い。無数の鉄屑の残骸。いつもは木枠のはめ込まれた窓の、そのほんの小さな隙間からしか見る事の出来なかった『外』を、初めて遮る物無く見ている。鉛色の空のあまりの大きさにあっけに取られていると、閉まりかかっていたドアと僕の手が触れた。カチン、と鉄同士のぶつかる独特な音がする。慌てるように近くの物陰に隠れて様子を伺った。


 少年の左手に五指は無く、七〜八センチ程の冷たい鉄の塊が、刃状になって伸びている。


『キトリ』

 聞こえるはずの無い声が聞こえたような気がした。少年は心臓が飛び跳ね、どこかに行ってしまうんじゃないかと思った。その声は彼、キトリの母が毎日のように彼に浴びせる言葉だった。

 

『キトリ、誰にも姿を見せてはいけない。何があっても喋ってはいけない。大きな物音は立ててはいけない。絶対に外に出てはいけない。いいわね』

 ザクッ、ザクッ、と、四本の誓いの槍が、その度に彼の体に突き刺さる。その内の一本だけが今日はやけに痛みが鋭く、その傷は疼いた。それもそのはず、キトリは今日初めて母の言いつけよりも自分の好奇心を選んだ。

 誰もいない。ましてお母さんなどいやしない。遠くに買い物に行ったはずなんだ。キトリはゆっくりと腰を上げ、夥しい瓦礫の山に隠れるようにして一歩ずつ玄関のドアを離れていった。

 

 周囲からは今まで聴いた事の無い沢山の音が聞こえてくる。何かが通る音、空を切り裂くような金属音、小さな風の音、今背にしている壁の向こう側から何やら話し声も聞こえる。全てが初めてで、新鮮だった。こころおどる、とはこういう事を言うのだろうか。キトリは次第にその歩幅を広げていった。壁伝いに歩いた端、明るく開けた道の付近まで来た。

 壁の奥を覗き込む。誰もいない。大丈夫、もうちょっと行ける。キトリの好奇心は最高潮に達していた。大胆にも半身を乗り出す。やっぱり誰もいない。一体此処には何があるのだろう。そんな思いを巡らせ目を輝かせていた所に、じゃりっ、と地面で砂を擦る音が大通りの後ろ側から聞こえた。

 

 慌てて左手を隠すように身を翻す。

 誰か、いるのか。

 誰か。

 誰かが、いる。

 誰だ。

 誰が、いるんだ。

 

 母親の言い付けが頭を駆け巡る。誰にも姿を見せてはいけない。絶対に外に出てはいけない。誰にも姿を見せてはいけない。誰にも姿を見せてはいけない……ぐるぐるとこの世界がひっくり返ってしまったような錯覚に陥る。陥りながらも逃げなきゃ、逃げなきゃ、と単調で膨大な言葉が頭を飛び交っていた。

 背後にいたのは、歳が同じくらいの一人の少女だった。白いワンピースを着ていたが、所々が砂埃で茶色く汚れており、良く目立った。生まれて初めて対峙した、お父さんでもお母さんでもない『ヒト』だった。

 視線が合う。そのときキトリはどんな顔をしていたんだろう。少女は酷く怯えるように顔が歪んだ。じり、と砂を裸足でずるようにしてその場に立ち止まっている。

 見られた。見られてしまった。そう彼が認識をしていた時には、全力で裏路地を走り、重たいドアを必死に開けて部屋に飛び込んでいた……

 

 その夜、晩御飯に口をつけないキトリに、父が〔食べなさい〕と言わんばかりの視線で見つめながらキトリの頭をくしゃっと撫でた。彼は小さく「ごめんなさい」と呟いて、少し温くなったスープを口に運んだ。母の顔は、怖くて見る事が出来ないでいた。

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