第二章:車窓の消失点

 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。

 少年は両腕を広げて伸び上がると、膝を伸ばして脱いでいたシューズを履き直す。


 この部活用のシューズ、そろそろきついんだよな。

 服も学校のジャージに通学用のロングコートを羽織った格好だから、他の人が見たら変に思うだろう。


 でも、それしかなかったんだから、どうしようもない。

 普段、外に着ていくためのあったかいフリースも、セーターも、ジーンズも、スニーカーも、全部泥水に漬かってしまった。


 まあ、この格好の方が却って不登校の家出少年だと思われなくて済むかもしれない。


 何か聞かれたら、「今日は学校の創立記念日でお休みで、部活の朝練だけあったので、その帰りです」と答えればいいんだ。


 学校のジャージを着ていれば「悪いことをしそう」と疑われることもないだろうし、見咎められるような真似をするつもりもない。


 どのみち、補導されるような時間帯まで、俺はもう生きていないから。


 ガタン。

 線路の途上で、電車は急に動きを止めた。


「停止信号です。しばらくお待ちください」


 車窓に目を移すと、線路のすぐ傍に、小さなクリーム色の水仙が群れて固まるようにして咲いていた。


「お急ぎのお客様には、大変ご迷惑をお掛けします」


 風に微かに揺れる花々は、それぞれ優しいクリーム色の花の中にこれから新しく花開くべき鮮やかなオレンジ色の小さな蕾を含んでいるように見える。


 眺めていると、うっすら甘い香りまで漂ってくる気がした。


 俺が死んだら、いつかドラマで見たみたいに、教室の机の上にも、花を挿した瓶が置かれるのかな。


 車窓の桟に少年は頬杖を突く。


 休んでる間に席替えでもしてなきゃ、窓際から二列目の、一番後ろの席だ。

 どのみち、あと一月で春休みだから、そこで消えちゃう場所だけど。


――高村たかむら君が亡くなりました。


 初めて持った教え子が自殺なんて、先生も最悪だろうな。

 想像の中で、まだ女子学生にしか見えない担任の教師は紙のように白くなった顔に沈痛な表情を浮かべて俯いている。

 先生のせいじゃないよって言ってやりたい。

 学校が嫌で死ぬんじゃないんだから。


――高村、自殺したんだってさ。

――ずっと学校来ないで、不良グループに入ってたしね。

――そこでもボコられて自殺したらしいよ。


 水仙の花の置かれた席を遠目にクラスメイトたちが囁き合う姿が浮かんできた。

 他人の話として聞けば、俺だって、そんな奴、バカだと思う。

 それが、自分なんだ。


 ただ、俺はグループでパシリにされてボコられたのが悲しくて死ぬんじゃない。

 そのままでいても殺されるから、自分で少しでも楽な方法で死ぬことにしたんだ。

 川で溺れ死んでいないと知ったら、あの人は今度はあのばかでかいカッターで俺の首を掻っ切ろうとするだろう。

 イスラムの武装集団が人質を殺す時みたいに。


 仲間をやめたいと言ってしまった以上、俺はもう、あの人たちにとってパシリでさえない。

 消すべき裏切り者なんだ。


 ショッピングモールでの万引きだの神社での賽銭泥棒だの、あの人たちが普段やっていることはショボい嘘やごまかしばっかりだったけど、振るわれた暴力だけは容赦のない本物だった。


――かわいそう。


 多分、学校の皆は大体、そう言ってくれるだろう。

 死人を憐れむ余裕のある子がほとんどのはずだから。


 あの人たちに呼び出され、顔を合わせるたびに痣や擦り傷が増えるようになってから、何度、こんな想像をしたか分からない。


 でも、俺は死んだ後に気の毒がって欲しいわけじゃない。


 助けて欲しかったんだ。

 生きていたかった。

 今も、誰か救いの主が現れるのを待ってる。


 見上げる車窓の空が、水色のまま滲んだ。


 ガタン、と空の色のまま霞んだ視野が揺れる。

 電車は停まった時と同じようにまた唐突に動き出した。


 少年は零れ落ちた涙をコートの袖で拭う。

 晴れ渡る空の下、クリーム色の花々はみるみる内に遠ざかっていった。


 ふるさとの島を離れた日もこんな風に晴れた空だった。


 車窓の空の下に、青い海がパッと広がる。

 空模様はもちろん、穏やかに光る海原まで、あの日、目にした風景にそっくりだ。


 あの時は仲良くしてくれた子たちが皆で見送ってくれた。

 大半の子は笑顔だったけれど、俺を好きと言ってくれたあの子だけは目と鼻を真っ赤にして手を振っていた。


 もう一生、会えないわけじゃないのにとその時は思っていたけれど、結局、あれが最後になってしまった。


 ゴーッとトンネルに入る音がして、車窓の向こうが真っ黒な壁になる。


 窓ガラスには、青白い顔が映っていて、左目には目全体を覆うように痣が黒く影を落としていた。


 腫れはだいぶ引いたけれど、酷い顔には変わりない。

 兄ちゃんが夕べびっくりしていたのは、むろん、ずぶ濡れで帰ってきたせいもあるが、何よりも俺がお岩さんみたいに片目の腫れ上がった顔をしていたからだろう。


 あの子が、今の俺を見たら、ずいぶん、がっかりするだろうな。


 いや、案外、向こうはケロッとして今頃は別の相手を好きになって、俺のことはもう思い出しもしないのかもしれない。

 可愛い部類の子だったから、他の男から好かれて付き合っている可能性もあるし。

 でも、それでいいんだ。


 大体、今の自分を自分でも好きになれないのに、他の人にはうまくいっていた時と変わらず好きでいてほしいと思っても、そんなの通らない。


 窓ガラスに映る顔は表情の消えた面持ちでこちらを見詰めている。


 パッと目の前がまた開けて快晴の空と青い海の風景になった。

 白い船が進んでいく小さな影が遠く認められた。


 緩やかに、だが、確実に、その白い影は水平線に向かって動いていく。


 記憶の中で、手を振ってくれた島の皆の姿がどんどん小さくなる。

 あれから、まだ一年も経ってないのに。


 窓の向こうでは林立するビルが海をたちまち覆い隠してしまった。

 これは、また大きな駅に着く合図だ。

 少し長く停まって、また海や山の見える場所に走り出すのだろう。


 ガタンと席が揺れて、プシューと空気を抜くような扉の開く音がした。

 枯れ木の湿った匂いを含んだ冷たい空気が音もなく流れ込んでくる。


「終点です」


 まだしばらくは乗っていられると思ったのに、もう終点に着いてしまった。

 少年は出口の電光掲示版に目をやる。

 確かに電車に乗る前に見た行き先と同じ駅だ。


「この列車は車庫に入ります」


 とにかくもう降りろという話らしい。

 ホームから流れてきた、また別な電車の発車を知らせるサイレンを遠くに聞きながら、少年はのろのろと立ち上がる。

 周囲からは早くもぞろぞろと靴音が響いてくる。

 いつの間にこの電車にはそんなに人が乗り込んでいたんだろう。


「本日はご利用いただきまして、誠にありがとうございました」


 もう、二度と乗ることはない。

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