消失点のピエロ

吾妻栄子

第一章:見切り発車

 電車がゆっくりと動き出す。


 ボックス席の通路側に腰掛けた少年はほっと息を吐くと、しかし、また通路側に肩を乗り出して前後を確かめた。


 良かった。

 あの人たちは乗ってない。


 というより、乗り合わせていたって、さすがに電車の中では手を出せないだろう。


 今度はふーっと息を大きく吐くと、窓側に移動した。

 ボックス席とは言いながら、隣にも向かい側にも誰も居ない。

 平日の朝七時前に出る下りの列車は、こんなにもガラ空きなのだ。


 買った切符は一番安いけれど、取りあえず、これで、終点まで行こう。

 お年玉の残りを全部持ってきたから、乗り越し料金はそれで間に合うはずだ。


 車窓の風景からは、早くも見慣れた特徴が消えつつあった。

 一年近く暮らしても、自分が見知った街の範囲はそんなにも狭いのだ。


 だが、そんな狭い箱庭みたいなテリトリーで起きたことが、自分を正に地獄に陥れた。


 ゴーッと電車が加速する音と共に、暗い闇そのもののような夜の川に突き落とされた昨夜の記憶が湧き上がるように蘇り、少年はぶるっと身を震わせる。


 背中に接するシートは暖かいのに、まだ、体の芯に冷えた感触が残っている。

 あの工業排水の混ざった、ドブ臭い川の匂いも髪や体のどこかに纏わりついている気がした。


 あの腐臭を孕んだ水は、水に還ったばかりの氷のように、冷たいというより肌を突き刺して痛かった。

 突き落とされるが早いか、意思に逆らって流されていき、踏み止まろうにも既に足が着かない地点にまで来ていた。

 同時に、水を吸い込んだ服がたちまち重しのように体に張り付いて圧し掛かってくる。


――ユタクン、頑張って上がって来いよお?


 岸で笑って見下ろしているあの人の手には、肉切り包丁みたいに太くて大きなカッターが白く光っていた。


 とにかくあの白い光から遠ざかろうと前にもがいていって、向こう岸のコンクリートの堤防に辿り着いて振り返ると、もう元の岸は真っ暗で、あの人たちが照らしていた自転車のライトは一点も見出せなかった。


 見物に飽きたのか、それとも、そのまま俺が流されて溺れ死ぬと見込んで放置したのか。


 向こう岸に泳ぎ着くまでの正確な時間は分からないが、横からの流れに押されながら泳ぎ進んでいったので、学校のプールで五百メートル続けて泳がされた時の数倍は消耗した。


 学校のプールで五百メートル泳いだのは夏の日差しが照り付ける時で、終わった時には周りにはクラスの友達がたくさんいて「きつかったな」と言い合えた。


 でも、昨日、真っ暗な夜の川を泳ぎ切った時に周りには誰も居ない。

 濡れた服が体に張り付いてポタポタ水を垂らしている所に、冷たい風が吹きつけてきて凍えそうだった。


 少年は履いていたバスケットシューズを脱ぎ、腰掛けた電車のビロード張りのシートの上で膝を抱える格好になる。


 ドブネズミみたいに全身濡れた姿でアパートの部屋の前まで来て、あの人たちが待ち構えていなかったことと、ぐしょ濡れになったズボンのポケットに鍵が収まっていてくれたことに改めてほっとした。


 鍵を開けてドアを開けると、玄関に出てきた兄ちゃんが幽霊にでも遭ったみたいな顔つきになったので、俺も驚いた。


 そして、兄ちゃんの高校が休みに入るので寮から帰ってくると母さんが話していたのを思い出した。


 聞いたときにはあの人たちから呼び出しの電話を受けて気もそぞろだったから、家に戻るまですっかり忘れていたのだ。


 お正月から一月半ぶりに会った兄ちゃんは、また少し背が伸びたようで、固く真っ直ぐな黒髪を切り揃え、真っ白なスウェットの上下を身に着けた格好で、濡れねずみになった俺を出迎えた。


――川に落っこちた。


 兄ちゃんが口を開きかけたところで、俺は先回りしてそう言うと、そのまま玄関で濡れた服を脱ぎ出した。


――寒いから、このまま風呂入るよ。


 棒立ちになっている兄ちゃんの脇を通り抜けて、俺は風呂場に駆け込んだ。


 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。

 規則正しく進んでいく電車の中、少年は膝を抱えた格好のまま、向かいの空っぽの座席を見詰める。


 髪や体に着いた泥や細かい砂粒を二度洗いで落として、いつもの倍くらい湯船に漬かってから風呂場を出ると、俺が恐れていた通り、兄ちゃんはまだ起きて茶の間のソファに腰掛けていた。


 表情の消えた顔をこちらに向けたまま。


――疲れたから、今日はもう寝るよ。


 何も答えない兄ちゃんを残して、俺は足早に自分の部屋に行ってドアに鍵を掛けた。

 疲れた体でベッドに入ったけど、不思議と眠くはならなかった。


 しばらくして、パチリと茶の間でも灯りを消す気配がした。

 兄ちゃんがその後、普通に寝入ったかは分からない。


 とにかく俺は、カーテンから白々とした光が差し込む頃を見計らって家を出た。

 母さんが夜勤から帰ってくる前に、あの人たちが様子見にアパートの周辺をうろつき出す前に、抜け出さなくてはならなかった。


 玄関にドブ臭いグショ濡れの服とスニーカーを脱ぎ捨てたまま出てきてしまったけど、もう仕方ない。

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