第2話
「乾杯!」
26日の夜、課長の乾杯の音頭で忘年会が始まった。
「今年の仕事もあと2日で終りですね」
隣に座った部下の菊本が声をかけてくる。
「ああ。今年はなんだか忙しかったな」
仕事納めの28日まであと2日。いつもの年より、この年は慌ただしかったような気がする。
「それは佐藤さんが抜けたから……」
菊本の言葉に「そっか、亜希子……もう1年になるのね。ちょうど今日じゃなかった?」と、その隣の高田が思い出したように言った。
「そうだよ。昨年も26日に忘年会して、その帰り道だったんだよな」
「ええ、私よく覚えてるわ。あの日の彼女は何故かとても明るくて、あまり飲めないお酒を飲んで……」
思わず下を向いた。
「係長、どうかしましたか?」
「ん? あ……いや、ちょっと思い出してたんだ」
菊本の言葉に、感情を抑えて答える。
「そうですよね。係長は彼女の教育係で目をかけてましたもんね」
「そうだな……」
忘れていた。
佐藤亜希子がビルの階段から落ちて亡くなってから、今日でちょうど1年。彼女は部下であり、俺の不倫相手だった。
「係長、顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」
――忘れていた。彼女と約束していたことを。
亜希子とは、彼女が入社してしばらくたった夏頃に初めて関係を持った。それから彼女が亡くなる昨年末まで、1年半ほどその関係は続いていた。
あまり目立つタイプではなく、いつも物静かな彼女が珍しくはしゃいでいたのが、昨年の今日――忘年会だった。あまり飲めない酒をかなり飲み、一次会が終わってビルを出る時に階段を踏み外して転落し、そのまま帰らぬ人となった。
俺は悲しかったが、少しほっとしたのを覚えている。何故ならその前日に、彼女と約束してしまったからだ。
昨年の12月25日。1日遅れのクリスマスを彼女のアパートで過ごしていた。彼女が作ったケーキを食べ、いつものようにベッドに入り体を重ねた後、亜希子が言った。
「いつ奥さんと別れてくれるんですか?」
「……そのうちな」
煙草を吸いながらいつものように答える。
「私もう嫌なんです。クリスマスが1日遅れなのも、土日に会えないのも。こんなことなら――」
「いや、ちょっと待ってくれ」
妻と別れる気は全くない。一人娘も大事だし、夫婦仲もうまくいっている。しかし、若いこの子も手放したくない。もう少し楽しんでから、取引先の誰かを紹介してやろうと思っていた。
「分かった。なんとかするから」
「いつですか?」
「えっ?」
「いつ奥さんと別れて、私と一緒になってくれますか?」
「えっと、そうだな。来年いっぱい待ってくれないか?」
「分かりました。嬉しい……ありがとう」
喜ぶ彼女を抱きしめ、唇を重ねる。
「もし……もしも来年末までに別れてくれなかったら、その時は……」
「大丈夫だよ。いつまでもお前と一緒にいるよ」
俺は適当にごまかしてもう一度彼女を抱いた。
あの時の来年末とは、カレンダーに赤い丸印が付いていた今年の大晦日のことだった。
「……大丈夫だ。少し酔ったのかな」
周囲に気付かれないように、笑顔で答えた。そんな思いを知ってか知らずか、高田が「あの日の亜希子も酔ってたよね。普段あんまり自分のこと話さない子なのに、あの日は――」と、昨年の今日を思い出しながら話す。
「あの日は珍しく自分から話し出して、昨日いいことがあったのって」
「いいことって何だったんだろうな」
菊本が話に乗ってくる。
「それが、どうも付き合ってる人がいたらしくて、結婚でも決まったんじゃないかって感じだったのよ」
「マジで? で、その翌日死んだのかよ。そりゃ浮かばれないなあ」
「でしょ? あんまり目立たない子だったからみんなもう忘れてるみたいだけど、なんか可哀相でね」
あまり酒は飲んでいなかったが、次第に気分が悪くなってきた。
「申し訳ないけど、先に失礼させてもらっていいかな?」
隣の菊本に声をかけた。
「体調悪そうですね。みんなには言っときますから、気をつけて帰ってくださいね」
「ああ、すまない」
そう言い残して、俺は皆より一足先に店を出た。一呼吸置いて、その店がテナントとして入っているビルの階段を下りようとした時、足を滑らせてしまった。
「……あっ!」
すぐに手摺りに掴まり、数段滑り落ちただけで怪我はなかったが、暫くそこから動けなかった。落ちた衝撃よりも、その瞬間誰かに背中を押されたような感覚が、体を麻痺させていた。少し動悸が治まるや否や、俺は急いでタクシーを拾い帰宅した。
「おかえりなさい。早かったのね」
玄関で驚く妻に「ちょっと気分が悪くなって先に帰ったんだ」と言い訳をする。
「あら、珍しい。そういえば今年は飲み会が少なかったわね」
亜希子のアパートへ泊まる時は、飲み会と嘘をついて帰らないことが多かった。
「……悪いけど、先に休ませてもらうよ」
「どうぞ」
これ以上亜希子のことを思い出したくない。俺は素早くパジャマに着替え、布団に潜り込んだ。
翌朝目を覚ますと、すっかり気分はよくなっていた。
「あなた、昨日の寝言もひどかったわよ。おかげで私は寝不足よ」
朝から妻に小言を言われる。
「寝てる最中のことを言われてもな」
「それはそうだけど。階段がどうのとか背中を押したとか」
「そうか」
昨日の帰り際のことが気にかかっていたのだろうか。適当に返事をして、ふと壁のカレンダーを見た。
「おまえ、カレンダーに――」
全てを言い終わる前に、妻に怒鳴られる。
「あなたって本当にしつこいわね。私は何も書いてないって言ってるでしょ!」
「いや、だけど……」
そのカレンダーの26日には、書いた覚えのない黒いバツ印が付いていた。
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