第8話 元の鞘に納まる
メッセージを打ち込むのももどかしく、そのままLINEの通話ボタンを押した指が震えていた。けれど耳にあてて聞こえたのは、通話拒否のアナウンスだ。
『ごめん』06:21
『今ムリ』06:21
『同室の人に迷惑だから』06:22
呆然とみた画面には急いで打ったのだろう切れ切れのそんな3つのメッセージが浮かんでいた。
(同室……?)
意味が頭の中の事実と繋がるより前に、次のメッセージが送られてきた。
『入院してるって、聞いたんじゃないの?』06:25
あぁ、そうか。
ようやく「病気+家にいない=入院中」という図式が浮かんでもやもやした気持ちが軽くなり、メッセージを打ち込む指先の動きが滑らかになる。
06:23 『家にいないってのと、ガンとは聞いたけど』
既読は送信と同時についた。でも、返事がこない。
気を紛らわせるためにちらりと見た人魚は、組んだ両手を天井に向けて伸びをしていた。朝日の角度の具合で、輪郭が光に溶けるような美しい人魚のシルエットが浮かぶ。
髪や腕からぽたりと落ちる水滴が、朝日を浴びて金色に光る。
銀色の鱗も、水面も。
きらり きらりと 輝いている。
現実を忘れて呆けて見つめてしまうほど、それは美しかった。
存分に伸びをした人魚が狭い瓶の中に膝を抱えて戻る。瓶の中だと歪んで、人魚の表情はよくわからない。代わりに黒髪が海草のようにふわりふわりと揺らめくのを眺めていると、通知音がして我に返る。
『そっか』06:26
『ごめん』06:26
06:27『病院、どこ?』
再び、スマホは沈黙する。
今、夏姫はなにをしてるんだろう。
断る言葉を選んでいるのか、それとも同室の人に謝っているのか、病院のスタッフに怒られているとか?
このまま連絡が途切れるんじゃないかと怖くて、すぐに返信できない理由を無理矢理にでも考える。
06:40『会って話したい』
もうなにも浮かばなくなって、それでも続く沈黙に耐えかねて送ったメッセージにも、返信は来ない。
落ち着け、と自分に言い聞かせていったんスマホを置くとキッチンに行き、コップに水を汲む。口の中が乾いていて、体育で長距離走をした時のことを思い出しながら舌を湿らせた時、ようやくピコンと通知音がした。
コップを流しに置いて再び拾い上げたスマホに表示されたメッセージは、
『愛甲クリニック、303号室』06:58
愛甲といえば昔からある小さな産婦人科の病院だ。あんたはここで生まれたんだっておふくろが通りかかるたびに言っていたから、場所はわかる。
再び通知音が鳴る。
『でも、面会時間まだだよ。診察もあるし』06:59
『行く』06:59
宣言してから、バイトのシフトを確認する。今日は遅番で12時からだ。
オレは顔を洗って着替えると、財布とスマホだけをポケットに突っ込む。
「行ってくる」
瓶の中にいる人魚に声をかけると彼女は半身を縁にもたせかけて、オレに向かって両手を伸ばした。
「?」
いつもなら、手を振って見送ってくれるのに。
不思議に思って顔を近づけると、明るい表情でぱくぱくと口を動かした。
「いってらっしゃい」ではない。もっと短い言葉だと思う。けれどなにが言いたいのかわからない。
「なに……?」
聞き返すが、小さな額を押し当てただけの人魚は首を振って、今度こそ「いってらっしゃい」と口を動かした。後ろ髪を引かれて動けずにいると、人魚は手を振ってから狭い瓶の中に戻って膝を抱えた。
* * *
階段を上ったところにあった院内の案内図で303号室を探す。「面会の方はナースステーションに声をおかけください」の張り紙に、言うべきなのだろうかと思案していると、唐突に背中に声をかけられた。
「あんたもしかして、白坂さんの?」
振り返ると白衣を着た40代くらいのおばさんがいた。なんとなく怒っているような空気に萎縮して小さく頷くと、ものすごい力でぐいっと腕を引かれた。
「ちょっと、こっちにきなさい」
「え? え、あの……なんでわかったんですか?」
「うちみたいな小さなクリニック、見舞いに
ぐいぐいと引っ張り込まれたのは、診察室。おばさんは医者が座るであろう椅子にかけて机の上に用意してあったカルテを開いてふんっと溜息をつくと、オレに椅子を勧める。
「名前は?」
「平野優大…です」
「そう。仕事は?」
「……就職活動しながら、コンビニのアルバイトでつないでます」
「フリーターね。住所は?」
カルテではなく隣に置いてあったメモ帳のほうにさらさらと書き留めながら、次々と質問され、アパートの住所を告げる。それを聞きながら医者が確認したカルテの表紙にはアパートの住所に線が引かれ、実家の住所へと書き直されているのが見えた。
「住民票もそこに?」
「はい」
「白坂さんは同じ世帯だった?続柄は?」
どうなんだろう?
転居の手続きは夏姫に任せたから、わからなかった。答えられずにいると、医者は質問を変えた。
「結婚の予定は?」
「………………」
もっと詰まってしまう質問に完全に閉口してしまうと、ひとつの溜息が落ちた。
「……ここにきたってことは、話は聞いちょっとね?」
細い眼鏡の奥の目が、獲物を狙う猛禽類を思わせるほどギラリと光って見え、ぴんっと背筋が伸びる。頭の中を探られるような視線の心地悪さに耐えて頷く。
顔を上げると、目が、合った。
「はい、昨日……。夏姫は病気で、子供を諦めないといけないって」
逃げ出したい衝動を堪え、さらに背筋を伸ばして見つめ返す――と、途端に視線と口元が和らいだ。
「私たちには守秘義務ってもんがあってね、同棲中でも彼氏には病状を言ったらいかんっちゃわぁ。夫か婚約者ならいいっちゃけど。まぁ、内縁でもよかよ」
「内縁?」
「生涯を添い遂げる意思を持って夫婦同等の生活をしているけれど、婚姻届を出していない関係のこと。同棲との違いは生涯を添い遂げる意思を持ってってところやね」
1月前なら、多少強引なりともそれに頷くことができたかもしれない。
けれど今はそれが躊躇われた。
カルテの住所が書き直されているなら、なおさら。
「あかちゃんを授かったって聞いて、どげん思ったね?」
「……なんで…なにも言わずに出て行ったんだよって……。言ってくれたら、もっとちゃんと……いろんなこと、真剣に考えたのに……って」
震えそうになる声を抑えて答えると、おばさん医師はにっかと豪快に表情を崩し、ばっしんばっしんオレの肩を叩いた。
「責任のあるところには、必ず権利っちゅうもんがついてくるっちゃわ。逆にね、権利を主張するなら責任をとらんないかんよ。それでも、聞くね?」
「え、と……守秘義務はいいんですか?」
「よか。医者としてじゃなく個人的意見やっちゃけど、彼氏だろうと夫だろうと関係なく、あかちゃんの父親ならその存在を聞く権利、生死を決める権利もあるやろと思うとよ」
医者はふんっと苛立たしげに鼻を鳴らし、簡単に堕胎しろなんていう男にはそんな権利はやらんけどねと付け加える。
「それに白坂さんね、親御さんが言うからって感じで多分自分の中では心の整理がついとらんっちゃわ。未成年じゃなかっちゃっで、自分で決めんないかんとに。自分の命、自分達の未来のことやかいね。ちゃんと自分で決心せんと、一生後悔すっちゃわぁ。こどももことはふたりでちゃんと話し合って一緒に悩んで決めて、そして最後まで一緒にその決断を背負ってやらんないかんよ。そのためには、ちゃんとした知識が要るかいねぇ」
ゆったりとした抑揚の言葉なのに、自然と背筋が伸びた。
心を決めて、頷く。と、医者は首を横に振った。
「口がついてるっちゃが、ちゃんと口で答えんね!」
叱咤され、これ以上ないほどぴしりと背筋が伸びる。
「……教えてください。夏姫のこと、こどものこと」
夏姫の両親に同棲の許可を求めた時と同じくらい緊張した声だったが、医者は「よし!」と満足そうに頷いてカルテに視線を落とした。
「彼女の患っている子宮ガンは早期発見で病床を摘出すれば完治する可能性の高いガン。でも今は妊娠中だから摘出どころか、抗ガン剤治療や放射線治療もできないっちゃわ」
医者はそこでカルテから顔を上げ、くいっと眼鏡を押し上げてオレを見る。
「もしあかちゃんを諦めてすぐに病床の摘出をすれば、9割の人は完治する。数年に一回定期的な検診は受け続けないといかんけど、大多数の人は普通の生活に戻れる」
「もし、子どもが産まれるまで待てば?」
「それが難しいっちゃわ。進行には個人差もあるし、一概には言えんっちゃけど、一般的に若いと進行が早いっちゃわぁ。もし転移が起これば、生存率はがくっと落ちる。早めに帝王切開をするとしてもあかちゃんの健康を考えるなら少なくとも8ヶ月を越えるまでは待ったほうがいい。それまでに転移するかどうかは――五分五分やわ」
「五分五分……」
それは、思っていたよりずっと高い数字だった。
食べたら死ぬかもしれない人魚の肉を食べさせるかどうかなんて悩んでいたのがバカらしくなるくらい、生々しい数字だった。
ルーレットで
でも……賭け金が夏姫の命となれば、そう気軽に決断できるものではない。9割の勝率を5割に削ってもし負けたら、どれほどその決断を後悔するだろう?
だから夏姫の父が、こどもを諦める決断をした気持ちも、わかる。
わかるが、5割。
どちらも助かる可能性だって、決して低くはない。あっさりと諦めてしまうには、惜しいほどの数字――。
「意地の悪い数字ですね」
せめて7、8割で転移の危険性と言われたら、こどもの命に諦めもつけられるのにとぼやくと、医師は苦笑いを浮かべた。
「ちなみに、今の病状だけど――」
医師はカルテに挟まれていた数枚の超音波写真をオレの前に並べ、そのうちの一枚に視線が張り付いた。
白黒のまだら模様。
繋がった白い模様が、膝を抱えた幼子に見えたのだ。
食べるところなんかなさそうな細っこい人魚が、膝を抱えて眠っているあの姿に。
「あぁ、それ。あかちゃんよ、わかる?」
「……ここが頭、腕がこうあって、これが足?」
「そうそう、慣れないとわからない人が多いっちゃわ。あんた、えらかねぇ」
――ソレはね、絶対にアンタに必要になるものなんだ。
脳裏に閃いた言葉に、息をのんだ。
――あなたの愛情で育ちます。
夏姫に似た、明るい茶色のつぶらな瞳。無邪気な笑顔で手を振る姿。
――成長に伴ってより広い世界を用意してあげましょう。
大きな水槽は要らないと首を振った、人魚。
医師の説明を上の空で一通り聞いた後、オレは夏姫に会う前にいったんアパートに戻った。
窓際には、あの瓶も、瓶詰めの人魚も、なかった。
《育て方》のリーフレットだけが残っていたが、手に取ろうとすると開けっ放しにしていた玄関から吹き込んだ突風がひらりとさらった。慌てて手を伸ばすが、意思を持って逃げるような動きで指先をかすめ、外へと消えていった。
紙がかすめた時に切ったらしく、指先がちくりと痛んだ。
じわりと血が滲んだ指を強く握り込む。
最初っからなにごともなかったかのような窓辺をしばし見つめる。
大丈夫、と自分に言い聞かせてスマホを取り出し、店長に電話をかける。
電話に出た店長に今日バイトを休みたいと言ったら、理由もまだ言ってないのに妙に嬉しそうに二つ返事で休みをくれた。
少し寄り道をしてからもう一度病院に行き、ナースステーションに告げてから303号病室に向かう。
開け放たれている扉の横の患者名のプレートをセットするところに夏姫の名前があるのを確認する。ノックをして、かえってきた返事は夏姫の声ではなかった。カーテンを引いてひょこと顔を出したのは30代の女性で、多分この人が同室の人なのだろう。オレの顔を見るとにこりと笑って「なっちゃんなら、そっちよ」と奥のカーテンが引かれた区画を指した。会釈をすると彼女は「わたしはちょっと飲み物でも買いに行ってくるわね」と夏姫のベッドの方に向かって言いながら出ていった。
「夏姫?」
カーテンの前で声をかける。
と、いきなりカーテンが開いて、夏姫はオレを素通りしてパタパタとどこかに歩いていく。
「……えと、ちょっと待って。お茶しかないけど――」
どうやら目的地は病室の入り口近くにおいてある冷蔵庫らしい。
その背中が小さくなったような気がして、こんなに華奢だったっけと思った。
「いいよ、別に。お客さん扱いするなよ」
スマホとペットボトルの位置をずらしてベッドサイドのテレビ台にさっき役所でもらったばかりの窓口封筒を置く。
「そういうわけにも――あれ?お茶どこだっけ?」
「あのさ、夏姫」
呼びかけると夏姫は探す手を止めた。
けれど、振り返らない。
「オレ……就職も決まらないし、家事もうまくないし、頼りないし、デリカシーもないけどさ。でも、頑張るから」
喉がきゅっと締まるような感覚がして、声が震えそうになった。けど、それじゃ格好がつかないと精一杯それを押さえる。
「ちゃんと、精一杯、頑張るからさ――だから、結婚しよう」
言い終えても、返事はなくて。
冷蔵庫が、開けっ放しを知らせてピィーと警告音を鳴らした。
「……夏姫、」
「バッカじゃないの? 甲斐先生に話聞いたんでしょ?」
「聞いた」
「じゃあなんでそういう話になるのよ?」
冷蔵庫が諦めて警告音を鳴らすのをやめても、夏姫は振り返らなかった。
「病気のことを聞いたりこどものことを決める権利を主張するならちゃんと義務や責任を果たせって言われた」
ぐず、と鼻をすする音がした。
何度もバカだのなんだのと言う声が震えていた。
冷蔵庫の扉を押さえていた手が顔を覆い、ようやく扉が閉まる。
冷蔵庫の前でうずくまったままの夏姫の前に、役所の封筒から取り出した一枚の茶色の紙を差し出す。
婚姻届の文字を見た夏姫は、目をまんまるにしてようやく振り返った。
「産んでほしい」
多分、夏姫に似た明るい茶色の瞳をした女の子を。
「大丈夫。きっと、大丈夫だから――」
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