第7話 彼女の事情



 今年の6月、同級生の結婚式の二次会の席にふたり揃って参加した時のことだった。


「ねぇ見て見て。美貴、あかちゃん連れてきてるよっ」


 すぐ帰らなきゃだけど一言お祝いしたくて連れて来ちゃった、と笑う美貴。彼女が連れているよちよち歩く女の子と首のすわっていない赤ちゃんに母性本能をくすぐられた女子達がきゃいきゃい騒いでいる。同級生の間ではまだあかちゃんが物珍しいのもあるけれど、遠目に見てもあかちゃんはかわいくて、美貴は主役の新婦にだって負けないくらいに幸せそうに笑っていた。

 夏姫はそこに混ざりに行きたくてスーツ姿の優大の袖を引いたのに、彼は素っ気なく「ふーん」と言っただけで、友人を見つけて人混みの中に消えてしまった。

 人は溢れるほどいるのに、暗い部屋にぽつんとひとりきりのような寂しさを感じた。

 夏姫は、吉良が「どうしたの?」と声をかけてくれるまでずっと、新婦の幸せそうな笑顔も祝福する友人達も、美貴と子供達の幸せそうな笑顔も――全部が、遠くなってしまったように思えた。



 夏姫が妊娠の兆候に気づいた時、最初に浮かんだのはあの時の冷たい「ふーん」だった。だから言い出しにくくて、ちゃんと病院の診断で妊娠がはっきりしてから言おうと思った。

 ひとりでこっそりと病院に行ったのは猛暑真っ盛りの8月の始め。

 診察してくれたのは眼鏡をかけた細身のおばさん女医で、名札には「甲斐」と書かれている。甲斐先生は夏姫が受付で最初に書かされたアンケートを神経質そうな細い目で眺めていて、夏姫は居心地の悪い沈黙に何度か椅子に座り直した。

 アンケートには最終月経がいつかとか生理不順がなかったか、パートナーや自分が喫煙するか、飲酒するかといった診察に必要な問診と思われる質問のほかに、既婚・未婚の別、未婚の場合は結婚の予定があるか――などもあった。夏姫は未婚にチェックをつけただけでそのあとの設問はどう答えていいのかわからずに空欄のまま出したからだ。

 ちらりと眼鏡の端から視線が動いて、夏姫は思わず姿勢を正す。すると途端に甲斐先生は破顔した。


「楽にしとってかよ。そのほうがおなかのあかちゃんにも良かしねぇ」

「…………はい」


 やっぱりという緊張もあったけれど、その笑顔と母と同じ宮崎訛の間延びした口調につられて夏姫はほんの少し笑った。夏姫が笑ったことを確認した女医はもう一度カルテに視線を落としてから、再び表情を曇らせた。


「ただねぇ――ちょっと、おめでとうって言ってよかとかは迷うところね。次に診察に来るときにはパートナーか、親御さんも一緒に来てくれる?」

「え?」

「ここにね、影があるっちゃわぁ……」


 カルテに貼られた超音波画像は、素人の夏姫にはごちゃごちゃした白と黒のまだらにしか見えなくて、なにがなんなのかさっぱりわからなかった。

 けれど彼女が言うには腫瘍があるらしい。


 正直、そのときに聞いた説明はほとんど夏姫の頭には入らなかった。

 ふらふらしていて、どうやって家に帰ったかも、よくわからなかった。




「ねぇ優大はさ、いつ頃結婚したいとか子供がほしいとかってあるの?」


 テレビで芸能人の結婚のニュースが流れたときに、なにげなく――内心、勘ぐられたらどうしようとドキドキしていたけれど――聞いてみた。


「んー……考えたことないけど? とりあえず就職しないことには考えたって仕方ないし」

「うんうん、まずは就職だよね」

「それ、嫌味?」

「え?違う違う!」



――もし、腫瘍が悪性だったら、いわゆるガンってことになるわ。ちゃんとした検査してみらんとわからんけどね。


 もしガンだったら?

 会社には産前産後休暇や育児休暇や療養休暇もあるけど、闘病しながら働き続けられるのかは疑問だった。ましてや、就職2年目にして。

 ガン保険もかけてないし治療費のことを考えれば、どうやって生活していく?


 優大にこどもができたって言ったら、どんな顔するかな?

 そんな時期じゃないのにって、迷惑な顔をするかな。

 まして、ガンかもしれないなんて言ったら――……。



 考えれば考えるほど、夏姫は言えなくなっていった。


 子供のことを話せば腫瘍のことを、腫瘍のことを話せば子供のことを、話さなければならない。どちらかだけでも重いのにその両方を優大が背負えるのかと、思ってしまった。



(……背負えるの?)


 優大の寝顔を見て、夏姫は自答する。

 気の優しい優大のことだから、多分精一杯背負い込もうとしてくれるだろう。


(私は……優大の荷物になるのかな?)


 気持ち悪いのは、つわりだけのせいではないかもしれなかった。泣きたい気持ちをこらえて見た時計は9時半を回っている。


(そろそろご飯の用意をして、起こさなきゃ)


 そう思って夏姫が昼食の用意をしていると、優大は自力でのそのそと起きてきた。寝ぼけまなこで「おはよう」と声をかけてくる姿は、いつまで学生なのよと思うほど頼りない。就職活動だって最近中弛みで時々小言でも言わないといつまでもフリーターかもしれないし、料理は人並み以下だし掃除や洗濯だって十分じゃない。

 そんな優大が、病気の夏姫を背負っている姿なんて、考えられなかった。


「まぁた冷や奴ぉ? 手抜きもたいがいにしろよ」

(人の気も……知らないでっ!)


 その苛立ちが自分勝手だと理解していたとしても、夏姫の声は尖っただろう。


「うるっさいなぁ。優大の分はちゃんと作ってあげてるでしょ? 私はダイエット中なの!」

「ダイエット、ねぇ……」


 一呼吸の、間。

 夏姫は苛立ちを逃がそうとそっと息を吐いた。

 けれど、息を吐ききるよりも前だった。


「なぁ、夏姫さ。ダイエットとか言って冷や奴ばっかり食ってるわりには、最近ちょっと太っただろ?」


 限界だったのだ。

 ひとりで抱え込むには、重すぎた。

 誰にも相談できないことが辛くて、苦しくて、もう我慢ができなかった。

 けれど押し込められた感情が爆発してもなお、重大な事実は言うことができず、代わりに優大のことばかりが矛先にあがる。


――わかったよ、別れればいいんだろ!!


 衝動的に別れると口走ったのはなぜだったのか、夏姫自身よくわからない。

 先に自分から切り出した別れなのに優大がそれを受け入れてしまったという事実は、肺を引き裂かれたみたいに息苦しかった。


 心の隅で「これでいい」と思った。

 反対の隅っこのほうで、「いやだ」と思った。


 もうどうしたらいいのかわらなくなって、とにかくその場から逃げた。

 実家の玄関がもう目の前というところで、立っていることすらできない猛烈な腹痛が襲ってきた。近所の人が道端でうずくまっている夏姫を見つけ、母を呼び、救急車を呼び――そのまま、入院した。


「切迫流産やね。このまま入院しなさい」

「流産って……」

「安心しやんね、まだ流れたわけじゃないっちゃわ。危ないだけ。だからうんと安静にしとかんないかんよ」


 主治医は――診察をしてくれたあの甲斐先生がそのまま主治医になった――優しくそう言ってくれたけれど、後に聞いた話では胎児が一時仮死状態になったほど危険な状態だったらしい。

 病気のことも含め医者の説明を受けた両親が入院の準備で着替えなどを取りに行き、父の決断で夏姫のものは全てあのアパートから持ち出された。

 それがおまえと優大君のためだと言った父の言葉に、夏姫は泣きながら頷いた。

 入院してからきちんと検査した結果はやはり陽性で、病院のベッドの上で物珍しい点滴を打つ機械に繋がれて寝ていることしかできなかった夏姫は、父の決断が正しいのだと信じるしかなかった。

 しかしどれだけそれを信じなければと思っても、いずれ行わなければならない手術をいつにする?という問いにはいつまでも答えられずにズルズルと時間が過ぎていった。








 開放的な大きな窓から降り注ぐ秋の朝の光の中でまどろんでいた夏姫は、むにと弱々しくお腹の中で胎児が動くのを感じて目を開けた。


――マタニティブルーって知っちょる? 

 妊娠中や産後にね、ホルモンバランスの崩れや体やまわりの環境の変化から、軽い鬱になることがよくあるちゃわ。白坂さんは妊娠だけじゃなかし、初診の時にもっと配慮すればよかったのに、ごめんねぇ。


 甲斐先生は入院してしばらくした頃、そう言ってカルテに病名をさらに書き加えた。


 酷暑の夏は過ぎて、秋の気配を感じる柔らかい光のぬくもりを感じながら、その言葉を噛みしめる。

 最近ようやく夏姫も胎児も経過が安定してきたから、ようやくあの四角い点滴機ではなく飲み薬へと移行した。……昨日、吉良と電話で話をした後にはもう一度あの点滴機を使うことになったのだけど。

 先生や看護師や助産師がちょくちょく世間話をしにくるのは、もしかしたらカウンセリングなのかもしれないと思う。そんなふうに考えられるようになっただけ、ずいぶん落ち着いたのかもしれない。


 この病院は産婦人科であることもあって病室では携帯電話の使用を禁じられていないが、あの四角い点滴機は1ミリリットルの薬液(劇薬と書いてあるから夏姫は最初大丈夫なのかとずいぶん背筋を冷やした)を1時間かけて体内に送るという精密機械だから、あれを使っている時だけは電源も落とすように言われていた。

 ふと、昨日点滴機を使う時に電源を落としたままになっていたスマホを手にとって電源を入れる。

 ひやりとしたスマホに明かりが灯る。


 ホーム画面の上の細い帯にLINEの通知マークが表示される。

 怖くてドキドキする胸を押さえてアプリを起動すると、昨日付のメッセージが表示される。


『今日家に行って、話聞いたから』 23:07


 顔文字も絵文字もスタンプもなにもなく、その一文だけ。


(優大、怒ってる……)


 当たり前だと思う。

 自分勝手だった。

 なんにも言わずに、勝手に怒って、逃げ出してきたのだから。

 ……だけど。


(怒ってる、けど――)


 その怒りを夏姫にぶつけないように懸命に我慢してるからこの一文だけなんだろうと思うと胸が潰れそうで、ぽろぽろと涙がこぼれた。


(ごめん……)


 病室は4床の大部屋だ。ふたつは空いているけれど、同室のひとりはきっとまだ眠っている。必死に声を殺し、泣いちゃだめだと思うのに、くぐもった嗚咽が漏れる。


(ごめんね、優大……)


 押し殺しきれない気持ちは胸の中から溢れ、ついメッセージを送ってしまう。

 日付を挟んで並ぶふたつのメッセージを見つめていると、ほぅっと息がこぼれた。寒い日にホットのブラックコーヒーを飲んだような、そんな気分だった。

 突然、いつもよりも激しくもにゅっと胎児が動いた。


「……嬉しいの?」


 そっとお腹を撫でて、周りには聞こえないように囁き声で尋ねる口元は、自然とほほえみになる。

 答えになりそうな反応はなかった。けれど、でも胎児は母胎の感情を感じているというから、きっと喜んでくれているのだと思うことにする。


 夏姫は胎動を感じるたびに、ここにひとつの命があるのだと実感する。

 気のせいかと思えるほど弱々しかったそれがはっきりしていくにつれ、その実感も強くなっていく。


 そして、願ってしまう。

 産みたい、と。


――進行には個人差があるから一概には言えんっちゃけど、摘出が遅れれば転移の可能性が高くなるのは確実ねぇ。


 脳裏に蘇る主治医の言葉に、ぎゅっとお腹を抱える。



(この子が生まれて成長していく姿を、見守りたい――)



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