第5話 怒りの真相


 その日、バイト先のコンビニで弁当の賞味期限のチェックと補充作業をしていると、カツカツと足音荒く来店する女性の足音がした。店長が「いらっしゃいませぇ」といつもどおり間延びした声をかけたせいか足音は一瞬レジカウンターのあたりで緩くなったが、しかしすぐにこっちに向かってくる。

 商品を選ぶ邪魔にならないようにと一歩横に避けて作業を続けようとしたオレの真後ろで、足音は止まった。

 何事かと半分振り返った時にはもう、


「あんた、最っ低ね!」


 背の高い、腰に手を当てた仁王立ちの女性に怒鳴られた。


「はぁ……」


 状況に頭がついていけず、気の抜けた声が出る。

 ふんわりウェーブのかかった長い茶髪、ノースリーブの水色ワンピースの上に白のレースカーディガン。赤く腫れた目をつり上げ、口元をきつく引き結んで、オレを睨んでいるのは、同じ年くらいの女性だ。

 なんか見覚えのある顔だとは思うが、思い出せない。


(昨日の仕事でなんかやらかしたっけ?)


「はぁって何! なんか言うことあるでしょう!?」

「……ええっと……はい。あの、すみませんでした」


 クレーマーにはひとまず謝罪――と脳内でめくったマニュアルに沿ってひとまず謝ってみたが、全然心がこもっていないせいか、女性はさらに制服の襟をぐっと鷲掴みにして凄んでくる。

 ちらりと横目に見た店長は目を丸くしているが、口を出していいのか迷っているようだ。


「そんな謝り方、夏姫にしたら許さないからねっ!?」

「あ。あー……」


 夏姫の名前が呼び水となってか、それともガックンガックン揺さぶられた衝撃かは定かではないが、彼女が誰なのか理解した。


「えと、吉良きらさん……だっけ?」


 夏姫の親友だ。

 高校時代はバスケの主将キャプテンだか副将ふくキャプテンだかで、ベリーショートの黒髪に化粧気がなくて男勝りの女子だった。直接顔を合わせるのは卒業以来だし、高校の時はしていなかった化粧をしているから全然わかんなかった。しかし見た目は変わっても中身は相変わらず体育会系とみえる。

 それにしたって、向こうが別れるって言い出して勝手に出ていったんだし、そんなに怒られる覚えはない。


「夏姫が今どんだけ悩んでるか、わかってんの!?」

(……知るかよ)


 と、ふてくされ気味に思ったが、彼女の剣幕に圧されて口からは出てこなかった。


「男でしょ! ちゃんと責任とんなさいよ!!」

「なんの?」


 彼女は口元を歪めたが、苛立ちを逃がすためにか一度深く息を吐き、それからひたひたと静かな怒りに満ちた声を絞り出した。


「知らないなんて言わせないからね。今6ヶ月だっていうから、出て行った時にもうお腹目立ってきてたでしょ?」

「―――……へ……っ…………?」



――なぁ、夏姫さ。ダイエットとか言って冷や奴ばっかり食ってるわりには、最近ちょっと太っただろ?


 じゃあ、あのときの怒ってたのは――。


――無神経っ!!


 いや、男に気づけっていうの、無理だろ。


――まぁた冷や奴ぉ? 手抜きもたいがいにしろよ。

――うるっさいなぁ。優大の分はちゃんと作ってあげてるでしょ? 私はダイエット中なの!


 記憶をさらってみるが、やっぱりそんなこと聞いてない。


――夏姫、缶チューハイもらったけど一緒に飲む?

――うぅんいらない。気分じゃないし、ダイエット中だし。

――ダイエットダイエットって。あ、カロリもあるけど。

――う~る~さ~い~っ! いらないって言ってるでしょ!!



 言う機会なら何度だってあったはずなのに、一っ言も聞いてない!



「……それって、オレの?」


 口からこぼれた瞬間に後悔したがもう遅く、容赦のない平手打ちを見舞われた。


「だって、そうだろ。じゃあなんで黙って出て行くんだよ? 言えないような後ろ暗いことが――」


 ごにょごにょといいわけしながら、心の中ではっきりそれはないと思っていた。

 生活リズムも規則正しくて校則も破ったことがなくて、進路だって堅実に就職を選んだような子だ。夏姫に限って、そんなこと絶対にないって。


 でも、それ以外にどんな理由があるんだよ?

 なんで別れるなんて言い出すんだよ?



 吉良さんはオレを睨んだまま、壊れるんじゃないかっていうほど強くスマホを握りしめた。


「詳しくは私にも話してくれなかった。けど、パパさん達にろせって言われてるって、あの子、電話口で泣いてたんだから……っ!」


 絞り出すようにそれだけを言うと、吉良さんはその場で泣き崩れた。



「……店長、すみません。ちょっと電話してきていいですか?」


 コクコクと高速で頷いてくれた店長を横目に、バックヤードに向かう。走りながらズボンのポケットからスマホを取り出し、電源を入れるとすぐに浮かぶ受話器ボタンをタップした。

 気のせいか、呼び出しが始まるまでの時間が妙に長い。


――頼りないし!


 オレだって、知ってたら太ったとか言わないし、子供ができたんならもうちょっと真面目に就職だって考えたし、反対されてるんだったら頭下げに行くっての!!

 なんで、なにも言わずに出て行くんだよ!!


『おかけになった電話は……現在電源が入っていないか、電波の届かな……』


 長い沈黙の末に聞こえてきたのはそんなアナウンスで、苛立たしく電話を切る。押した感触がないせいで、ホーム画面に戻ってしまうと本当に今電話をかけたんだっけと妙に落ち着かなくて、画面を睨む。


「平野君、急用があるんなら今日はもうあがるかい?」

「…………いえ、どうせ、今は仕事中だと思うんで」


 泣いている吉良さんを連れて休憩室に向かおうとしている店長に声をかけられ、反射的に答えた。

 時計は午後4時の少し前。

 そうだ、平日の朝8時半から午後5時までは仕事中のハズだ。

 たいていの用事はLINEで済むし、既読がつくのは休憩時間だけだから、今まで仕事中に電話をかけたことなはい。

 いつも電源切っているのだろうか?

 それとも、拒否られてる?

 わからない……。


「じゃあ、ちょっとはずすけど店のほう頼んだよ」


 はいと弱々しい返事をしてから、店長に連れられている吉良さんに声をかける。


「ごめん。知らせてくれてありがと。バイト終わったら夏姫んち行くから」


 彼女は小さく頷いたように見えたけれど、はっきりそうとはわからなかった。



 そしてオレはジンジンと痛む頬を押さえて客のいない店内を見回してから、商品の陳列作業に戻った。

 手を動かしてできるだけ考えないようにしようとしたけど、無理だった。


 あの泣き腫らした目と飛び込んできた勢いからして、吉良さんが話を聞いたのは、ついさっきだったんじゃないだろうか。


 やっぱり、拒否られてる?


 出て行ったきり連絡のひとつもないのに、それを信じたくなかった。

 信じたくないけれど、考えたくないけれど、そのことばかりで頭がいはっぱいだった。



  * * *





 休憩中にも一度かけたし、夜9時にバイトを上がってからもう一度電話をかけたが夏姫は相変わらず電源が入っていないのアナウンスだ。


「あら、ユウくん久しぶりやわぁ」


 午後10時を回っている。訪問には失礼な時間だが、そんなこと言っていられない。夏姫の部屋の明かりは点いていないが、リビングに明かりがついているのは見えたからとにもかくにも呼び鈴を鳴らすと、夏姫の母が出てきた。

 高校の時から何度も手料理をごちそうになったりしているし、アパートにも煮物とかいろいろ差し入れてくれた気のいいおばさんだ。しかし今日はどうにも困惑気味で、いつものように「あがっていきなさいよ」の言葉も出なければ、招き入れる様子もない。


「おばさん、夏姫いる?」


 夏姫の名前を出すと途端に顔色が曇り、あちこちに視線を泳がせる。


「せっかく来てくれたとに、ごめんねぇ。夏姫、今家にはおらんとよ」

「いないって……」


 どこに、と聞くよりも先に、おばさんは口を継いだ。


「……あのね、もう…いいっちゃわ、ユウくん。あの子のことは忘れんね」

「どうしてですか?」

「ユウくんのご両親だって、きっといい顔せんよ」


 意味が分からない。

 不意に奥から重い足音が聞こえて、夏姫の父親がおばさんを押しのけて前に出てきた。怒られるだろうかと一瞬身構える。


「優大、帰れ。そしてもうんでおってくれ」


 それだけを言い残して玄関を閉めようとするので、慌てて扉を掴んだ。


「こどものことは、すみませんでした! でも、だったらちゃんと話し合わせてください!!」


 無言でぐっと扉を引かれたが、頑として手を離すものかと抵抗する。この扉に思いっきり挟まれたら骨折なりするだろうなとひやりとしたが、それでも離さなかった。向こうもぴくりと引こうとする手が揺れたのが見え、そして止まった。


「謝ってもらわんでもよか。一緒に住んどるっちゃが、そんことはな。……むしろ、感謝しとるっちゃ。おかげで早期発見やったらしいし」


 怒りにか涙にかわからないけれど、その声は揺れていた。


「…………か…ん……しゃ?」


 意味がわからない。わからなさすぎて、問いただすこともできない。

 早期発見って、なんだ?


「あの子ねぇ、ガンかもしれんとよ」

「…………っ……」


 頭の中が、真っ白になった。


「こどもを諦めてすぐに腫瘍を摘出すれば完治できる可能性は高いって、お医者さんが。それでも100%再発しないとは言えんし、治療と経過観察は一生は続くって言われとっとよ」


――無神経っ!!


 頭が割れそうなほど、その一言がぐわんぐわんと響いてめまいがした。

 ふらふらと後ずさったところに、


「こどもは諦めんか。あの子のこともな。それがおまえのためやっちゃわ」


 そんな言葉とカタンと静かに玄関が閉まる音が響いた。それはプールに潜水している時に聞こえる水上の喧噪のようにくぐもって遠く聞こえた。


 酷い頭痛に、思考がふわふわしていた。


 悪い夢を見ているような気がした。

 全部が悪い夢だったらいいのにと、そう、思った。



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