第4話 人魚と暮らす


 人魚を預かって、2週間が経った。

 窓際に置いているだけで餌もやらなくてもいいというのは楽だが、請求書は一向に届く気配を見せない。

 そして人魚はというと、最初は膝を抱えた姿勢で卵くらいだったはずなのに、たった2週間でオレの拳大くらいになっていた。

 愛情を注いでいるつもりはない。これはあくまで返品先のわからない預かり物に過ぎない。けれど窓辺に置かれた瓶の中で優雅にヒレを揺らめかせて嬉しそうに泳ぐ姿を見ているとほんのりと気持ちが和む。それで成長しているのか、それとも単に日光や月光だけで成長できるのかは定かではないのだが、どちらにしろこの人魚の急速な成長では、元の瓶に入れておけるのは時間の問題だった。


(そういえばあの売り子、お代はもらってるとか言っていたような気がする……)


 水槽を買うとなるともう飼うことを決めたみたいだ。それに本当に人間サイズになるかもと思うと、どうにも決心がつかない。

 何度もあの夜に飲みに行った店からアパートまでを往復してナイト・市場マーケットを探してみたが見つからないし、どうしたものかと頭を抱えるばかりだ。


「ふー……っ」


 煙草の煙と一緒に、憂鬱な溜息をベランダから青い空へと吐き出した。

 同じようなことを幾度考えたかわからない。答えのない逡巡に飽いてきた頃、煙草にフィルターの焼ける苦みが混じったので灰皿に押しつけて消す。


 オレは高校3年の春頃から付き合いで少しずつ煙草の味を覚えたけれど、夏姫はその頃から今でもずっと煙草が大嫌いだった。特にここ数ヶ月は夏バテの影響か起こりっぽくて煙草にも一層神経質になっていたような気がする。

 この部屋を借りた時に正社員とフリーターという肩書きから夏姫の名義で借りたもんだから「煙草吸うんなら外に行ってよね」と言われると「家賃は折半なのに」と内心思いつつも声をあげることができず、雪が降ろうが台風だろうがベランダに閉め出された。

 そんな夏姫が出ていったんだから部屋で吸ってもいいかと思ったのだが、今度は人魚が眉を潜めて口元を覆い瓶の底の方でこほんこほんとするものだから、結局また外に出る羽目になっている。


「ふー……」


 もう一度、今度は溜息だけを吐き出してなにげなく視線を落としたスマホは、メールの受信ボックスを表示している。

 気がつくと、一日に何度も着信履歴やメール問い合わせやLINEをチェックしていた。

 オレは出て行かれるほど悪いことはしてないんだから、絶対にこっちからは謝ってやるもんかと苛々しながら。


「ふー…」


 再び、溜息が落ちる。

 コンビニのバイト代だけではこの部屋を借りていけるのは半年くらいが限度だ。引き払って実家に帰るなら――人魚は、どうすればいいのか。

 ……捨てる?

 そう考えると幼い人魚の顔が――特に、夏姫によく似た茶色の目が――脳裏に閃く。


 高校に入学した4月、夏姫の席はオレの右斜め後ろで、机から落ちた消しゴムを「落ちたよ」と拾ってくれたのが、一番最初の会話だった。どこにでもいる感じのあまり印象に残らない顔立ちだけど、あの時、しゃがんだままの夏姫がオレを見上げたあの明るい茶色の瞳が、とても印象的だった……。

 はじめて手をつないだのは初デートで動物園に行った時。その手の温度にものすごく緊張した。クリスマスに初めて贈ったプレゼントは腕時計。あまり高くもないそれを、夏姫は今でも毎日――いや、出て行ったあの日までは毎日つけてくれていた――。


(……ってなんだよ、オレ。次々に思い出なんか引っ張り出して)


 ふいに感じた息苦しさに、現実に引き戻される。


(早くあのナイト・市場マーケットを探さないとな)


 そう考えながら部屋に戻り、無意識に人魚のほうへと視線をうつす。

 彼女は瓶の縁に腕をひっかけて、尾鰭でゆらりゆらりとご機嫌麗しく水を蹴りながらテレビを見ていた。


『――人魚の肉は不老不死の薬に……』


 つけっぱなしにしていたテレビはいつのまにかオカルト系の番組に変わっていた。テレビから流れてきた台詞に、人魚がびくりと身を竦ませる。


「あぁ、愛玩以外の用途って、食用か」


 にやにやしながら呟くと、びっくぅ!っと全身を震わせた人魚が、海草の影に逃げ込んだ。恐々とオレの様子を伺う姿がかわいい。


「あはははは、冗談だよ」


 笑うけれど、怯えた人魚はなかなか海草の陰から出てこない。


「なんかさー、おまえを食べるなんて考えられないって」


 成長して顔立ちがはっきりするにつれて、目元が夏姫に似ているだとか、低い鼻が似ているだとかぼんやりと面影が目についてしまうのは、未練だろうか?

 夏姫がいなくなることなんて、考えたことがなかった。

 いなくなったらなにをするにもこんなに空しいなんて、思わなかった。

 いまではいることが当たり前になってしまったけれど、付き合いはじめたばかりの頃は、ただそばにいるだけで、手をつなぐだけでドキドキして楽しかったっけ――なんて思い出しながら、机の上に置いてあるスマホを手に取る。

そこに表示されている「夏姫」という名前と電話番号、受話器のマークをしばし眺めてから、ホームをタップして尻ポケットに突っ込む。


「さて、と。バイト行ってくるわ。テレビ、まだ見る?」


 人魚はぷるぷると首を振ったから、テレビを消す。

 出かけると宣言した途端に慌てて瓶の縁から上半身を出して笑顔で手を振る人魚に見送られ、部屋を出る。


 人魚はいつもそうやって見送ってくれるし、帰ると嬉しそうに瓶の中を泳ぎまわる。話かければ耳を傾けてくれるし、よく笑う。愚痴をこぼせば水掻きのついた小さな手でぺたぺたと触れて必死に慰めようとしてくれる。

 そういう羽でふわふわとくすぐられるようなこそばゆい気持ちは――返品したら、もうなくなるんだなと思いながら、バイトの行き帰りに夜の市場を探しまわった。



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