第3話 人魚の育て方
時間をかけてそこまでは記憶を掘り起こしてみたものの、どれだけ記憶を探ってみても地面に突っ伏した瞬間から先の記憶がない。どうやって部屋に戻ったのかわからない。
(……で。これって、どうしたらいいんだ?)
ちらりと見たガラス瓶の中では、ゆらゆら揺れる海草にくるまって人魚が眠っている。膝を抱え込んでいる人魚の大きさはニワトリの卵くらい。多分足を伸ばしたら体長はちょうどバービー人形くらいだろう。しかしガラス越しだから少し歪んで見えてはいるがその出来はバービーよりも精緻で、本当に生きているのかもと思わせるほどだ。単純に魚に人形の胴と頭を被せたなんてザツな作りじゃない。
「よくできてんなぁ」
呟いた瞬間、人魚がぱちりと目を開けた。
黒髪を海草のようにふわふわと揺らめかせて、鮮やかな茶色の目できょろきょろとあたりを見回す。のぞき込んでいるオレに気づくと、慌てて海草の裏に逃げ込んだ。
「おぉ、ホントによくできてる!」
再び素直な感嘆が口からこぼれた。
怯えを露わにこちらの様子を伺っている人魚をのぞき込む。目が合うと、慌てて海草の裏に顔を引っ込める。瓶をぴんっと指で弾いてみると、あわあわと狭い瓶の中を逃げ回り、最後にはまた海草の裏に隠れた。
(新製品のおもちゃ?……まさかな)
まばたきし、表情を変え、しなやかに泳ぐ姿はもう
頭を掻いているとふと、半分ほど瓶の下敷きになっているハガキサイズくらいのリーフレットが目についた。テラテラした一枚の紙を折り曲げて4ページにしてあるリーフレットで表紙には“人魚の育て方”と書かれ童話に出てきそうな金髪碧眼の、めちゃくちゃ美人な人魚の写真だかイラストだかがあって、下の方に赤字で注意書きがある。
《!注意! 本商品は愛玩用です。それ以外の用途には使用しないでください。》
一瞬「愛玩以外の用途って何だ?」と思ったが、まぁよくある注意書きかとそれ以上は気にとめずに表紙をめくってみる。見開きの2ページにわたってディフォルメされた人魚のイラスト付きで次のように書かれている。
《1 餌も水替えも必要としません。
日光浴、月光浴をさせれば喜びますが、基本的にはあなたの愛情で育ちます。》
あなたの愛情っていう単語がめっちゃ胡散臭いんですけど。
《2 これは稚魚です。瓶の中は人魚の世界ですので、成長に伴ってより広い世界を用意してあげましょう。》
「……成長って、まさか人間サイズにならないよな?」
さすがに不安が口をついた。
水族館じゃあるまいし、そんなでかい水槽、この1DKのアパートにおけるわけがない。そうなるとこれが量産されるとミドリガメよろしく、そのへんの川とかに人魚が捨てられて社会問題に――……って、いや待てオレ。飼うつもりか? ないだろ。こんな胡散臭いもの。返品だ返品。いくらふっかけられるかもわからないんだし。
「だめだな、まだゆうべの酒が残ってるのかも――……」
今日が仕事休みでよかったと自分にげんなりしつつ裏表紙にはなにも書いていないことを確認すると育て方のリーフレットを瓶の横に置く。
ふと見た人魚は両手で顔を覆っていて、泣いているようだった。真珠のような白い小さな粒が、ぽろぽろとこぼれ落ちて砂に混じる。
「……さて、どうしたもんかなぁ……」
人魚から視線をそらしてまぶしい朝日に照らされている窓の外を眺めながら呟く。
返品しようにもどこに連絡すればいいのか見当がつかない。
そのへんに捨てたら請求が来たときに返品できない。
(しばらく待って、請求がきたらそこに連絡するか、不当な請求なら警察に届けるしかないのかなー……)
ぼんやりと人魚に視線を戻すと、海草の裏でまだ泣いている。
「愛玩用って言っても、泣いてばっかりじゃなぁ」
虫眼鏡でも使わないと細かい表情は見えそうにないが、オレの呟きに反応したのか人魚は顔を上げた。それから瓶の内側に張り付くようにして、上を指さす。つられてオレも上を見るが、なんの変哲もない天井だけだ。人魚はひらひらと泳いで、瓶の蓋をぺたぺたと触った。
「あ。もしかしてフタ、開けてほしい?」
呟くと、こくこくと頷いた。
まさか意志疎通ができるとは(しかも日本語で)思わなかったが、驚愕続きで慣れてきたのか違和感なく受け入れた自分の意外な適応能力のほうに少しびっくりする。
少し迷ったが、逃げるわけでもないだろうと思い切って瓶の蓋を開ける。と、人魚はプールから上がった子供みたいに瓶の縁に手をかけて、ぷはぁっと大きく息をした。
「あー、瓶の中に閉じこめられっぱなしじゃやっぱり苦しいよなぁ。こんなふうに密封されてたら空気だって――」
体の隅々まで行き渡らせるように何度かゆっくりと呼吸を繰り返している人魚を眺めていると、ふっと夏姫と空気みたいだよなって冗談言って笑ったことがあった記憶が蘇って、息が詰まった。
そこにあるのが当たり前で。
目に見えなくて、あるのかどうかよくわからないもの。
だけど、なくなると困るもの――。
息苦しさに、意識して大きく呼吸を2回する。
それでなんとか気を持ち直して再び人魚を見た。人魚は3センチほどしかない小さい顔いっぱいに笑みを浮かべて、ぱくぱくと口を動かした。体のサイズ通りに音量も極小なのかと耳を近づけてみたけれど何も聞こえない。お礼を言っているのはなんとなくジェスチャーでわかったが、いくら耳を澄ませても人魚の声は聞き取れそうになかった。あいにく読唇術の心得もないし、あったとしても小さすぎてその唇の動きを読むのは難儀だろう。
「えぇと、童話の人魚姫なら声と引き替えに足をもらえるんじゃなかったか?」
冗談半分に言って視線をやってしまった足は銀色の鱗に覆われた魚そのものだ。海にはもう何年も行ってないからオレに会いにきたってわけでもないだろうし、誰かに会おうとして捕まって売られた? それとも稚魚ってことはやっぱりどこかで養殖でもされて――と考えれば考えるほどバカバカしくなってくる。
ふぅ、と溜息ひとつ吐くと、腹を決める。
(どうせ考えたってしょうがないし、どうにもならないんだよなぁ)
そのへんに捨てるわけにもいかないし、テレビ局とか警察あたりに持っていけばオレの手を離れるかもしれないが面倒なことになりそうでイヤだし。
請求書がきて返品する宛ができるまでは預かっておくしかない。
「……とりあえず、水換えたほうがいいのかな?」
小学生の時に金魚を飼ったくらいしか経験がないが、とりあえず尋ねると、人魚はふるふると首を振って飼育方法の冊子を指した。
「あぁ、換えなくていいって書いてあったっけ?」
人魚は再度こくこくと頷くと、くるくると瓶の中を嬉しそうに舞い泳いだ。それからまた瓶の縁から顔を出して笑みを浮かべた。
(…………)
人魚の表情は瓶の中にいた時よりずっと明瞭に見えるようになっていた。
稚魚と明示されているだけあって、童話に出てくるような美少女ではなく、その顔立ちはそのへんにいる普通の幼稚園児のようだ。幼さゆえの愛らしさはあるが、日本人らしい低い鼻。ぱちりとした茶色の目は、どこかで――……。
ふっ、と。
またもや息苦しさに襲われて、オレは人魚から目を背けた。
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