第3話 『食事 出口』
自分の眼を疑いたくなる。ついに出口が目の前に現れたのだ。しかしもう片方は一千万の巨額である。俺が二年と半年働いてようやく手に入る金額だ。
なかば無意識的に開けていた扉の前で、いったんそのアルゴリズムを解除し部屋の中央に座り込んだ。
いままでの選択肢とは全く異質な選択肢。普通ならば、出口を取るところだ。
しかし一千万という大金は正直出口より魅力的な物に感じてしまう。
そもそも出口と書かれた扉が本当に出口かどうか判断が付かない。
もし出口だったとして、俺はどこに出ると言うのだ。
それはいままでの日常と変わらない世界なのか。
いままで歩いてきた部屋は、正方形の箱のような物。それを俺はずーっと進み続けていたのだ。もしかしたら同じ部屋に入っていたかもしれないし、グルグル回っていただけかもしれない。それでも東京ドームに収まりきらない程の面積をこの箱を敷き詰めた場所は持っている筈。そう考えると出た先は少なくとも我が家の近辺では無い事くらい明白である。
もし海外だったら、それこそ一貫の終わりである。そして日本だとしても、垢まみれで、素足で携帯も財布も持っていない俺はただの浮浪者に見える事だろう。俺の住んでいる場所じゃないという事はほぼ決定しているので、帰るための金も必要になってくる。しかしどちらにしても外に出られるなら今の俺にとって一番欲しい物に違いは無い。
さて一千万円と書かれた扉が問題である。
一千万があったら何ができる? いや意外と一千万は金額として高い額なわけではない。今と同じ生活を続けていたとしても三年あれば一千万なんて無くなってしまう。しかしだ、今五年生の娘も二年後には中学生になる。妻だって倹約の為に自分のファッションなんか捨て、一年以上も同じ者を着ている。俺はと言うと、会社の付き合いで飲みにいったり、スーツが汚れたと言って毎年買い替えている。ネクタイとか靴下とか靴とかに目を向ければかなり無駄遣いしているじゃないか。一千万あったら俺はまず家族に感謝をつたえるだろう。
いやまてよ。論点がずれている。
今考えるべきは『出口』と『一千万円』はどちらが有益か、だ。
一千万円の扉の向こうに本当に金は用意されているだろうか。
無い可能性だって十二分にあり得るんだぞ。
だが、今までの選択肢の扉にはなんだってあった。今の俺にとって不必要だったわけだし、要らぬものは要らぬものとして切り捨ててきたが、今回は切り捨てられない。
そう、出口と一千万は対等にその場所に存在している筈だ。
出口か一千万か。
良く考えろ。
ここに出口があるという事は、もし出口を選ばなかったとしても、出口はすぐ近く、常に存在している事になる。いま一千万を選んだところで出口という選択肢はまた出てくる可能性がある。
今出口を選んだら、一千万という選択肢は永遠に消えることになるんだ。
ああ。
あああああ。
どうしたらいいのだろうか。
俺は一時間近く、そこに座り込んで考えていた。考えに考えて、考え抜いた結果俺は一つの選択肢をようやく選ぶ事にした。
そして扉を開ける。
そこに広がっていたもの。
束束束束束束束束束束。
それは綺麗に整えられた束だ。
一万円札が百枚で一つの束。それが十個。
間違いない。間違いなく福沢諭吉が描かれた一千万円。
手に取って、一枚を電球にかざしてみる。
透かしもしっかり刻まれている。
今度は一つの束をバラバラにして一つ一つ札番号を確認する。複製されたものじゃない。間違いなく一つ一つ一万円として存在価値のある札だ。
「はは」
束を一つ右ポケットに入れる。
「はははははは」
今度は左。
「くははははははは」
上着のポケット内ポケット胸ポケット。一杯になったらズボンのポケットに無理やりねじ込んで、折れるのも気にせずに。
すべてをしまいこんでから、俺はふたたび次の扉に目を向けた。
『イッカク絶滅』
『オオムラサキ絶滅』
何のことだ。
すこし逡巡してから合点がいく。
イッカクとはジュゴンに似た海にすむ哺乳類だったはず。角の様に尖った牙が特徴的で絶滅危惧種に認定されていた筈だ。
もう一方のオオムラサキと言うのも確か絶滅危惧種だ。蝶々の仲間で毒々しい紫色が特徴的である。
その二つの種の存亡が俺の選択にまかされているという事だろう。
急に選択の種類が変わったように思う。
雑多な物ばかりを選択していたはずなのに、命に係わる事になっている。
ただそれはそれで別にかまわない。なぜならば実際絶滅する訳なんて無い。ただ一人の人間が選択した程度で影響などないに決まっている。
俺はオオムラサキの扉を進んだ。
そこから先の扉は動物たちの絶滅をかけた選択ばかりが広がっていた。
メキシコウサギ。ドール。アシカ。オットセイ。アザラシ。アメリカオオカミ。カバ。
しかし俺には関係が無かった。もう少しまともな精神があれば、足が止まっていたかもしれない。
そんな精神状態ではない。
もう一日以上飲まず食わずなのだ。動物より先に俺が、俺と言う個人が絶滅してしまいそうである。
限界が近かった。疲れる事をしていないのに、疲労困憊している。
食べるという事を禁じられている現状で、動き続けることは拷問に近い。既に胃の中は空っぽで、息をするたびに胃酸の酸っぱい香りが鼻腔を貫いている。渇きも我慢ならない物で、喉がぴったりとくっついて息ができないこともあるし、舌がカラカラに乾きざらざらして気分が悪い。
このまま進んでいけばおそらく死が見えてくるだろう。
死ぬという事はどういう事なんだろう。安らかに痛みも無く死ぬのだろうか。それとも苦しくもがいて死ぬのだろうか。死ぬ直前とはいったいどういう心境なのか。何も考えられないのか。それともいわゆる走馬灯のように過去なんぞが見えて涙ながらに逝くのか。
ずっとそんな事を考え部屋と部屋の境で幾度とない生物を絶滅に追いやっていった。
もし本当に絶滅していたとしてもそれは俺の意志ではない。それはこの部屋を作ったものの意志なのだ。
「そうかな? 君が選んできた生き物は小さい物を選んできている」
そんなことは無い。何も考えずに選んできた。
「本当? 小さい生き物から順に選んできたじゃないか。君は命の重さを見た目の大きさから選んできた筈だよ」
バカな。
「そんなことは無い。それに命の重さなんて考えたことは無い」
ついには声を出してしまった。
話し相手は紛れもない自分。ただ開けると言う行為に精神が本格的にやられ始めたらしい。俺は俺自身との会話を始めようとしている。
「本当にそうかな。それじゃあ君はオオムラサキと人間だったらどちらを選ぶんだい。虫と人。君は間違いなく人を選ぶだろう」
「極論だ! 人を選ぶという事は俺自身に直接危害が加わってしまう。そんな選択肢を選ぶ生き物はいない。虫だって魚だって危険な道を自ら選ばない」
「いいやおんなじだね。君は自分に危害が加わるという逃げ道を常に持っているからそんなことが言えるんだ。醜い分際でチャンチャラ可笑しいよ。今までの選択肢は君に危害が加わるか加わらないか。それだけで選んできたじゃないか」
「だからなんだと言うのだ」
「別にそんな事で君の人格を否定するつもりはないよ。ただ偽るなと僕は言っているんだ」
「クソ俺はマジでおかしいおかしくなっちまった」
「ああそうだな君はおかしい。変だ」
「どうすればいい」
「しらないよ。」
「…………」
「君の知らないことはしらない。君はただ話し相手が欲しいだけだろう」
「おかしい。俺は全部一人で会話してる」
「ああおかしいね。でも他に人も居ないんだ気にせず続ければいいよ。一人の空間でやっと出てきた登場人物なんだから」
「俺はそんなに弱い存在なのか。他に人が居ないとおかしくなっちまうのか」
「弱いってことは無いさ。どんな人間だってこんな空間に閉じ込められたらおかしくなってしまう」
「……そうか」
「そうだ。出口を選ばない事だって至って普通の事だよ。社会的法規が存在しないこの空間じゃあ、出口と言う存在は異端すぎる。誰の目も無いという事は本能が芽を出すんだ」
「俺は間違っていないんだな」
「勿論。君は人間と言う歴史で刻まれた人間的欲求に従って行動したまでだ。つまり金だよ。君は金を手に入れた時笑顔だったね。何十時間ぶりに。つまり人間にとって、お金とは精神を豊穣させるため必要な物だったわけだよ。そこらに糞尿を垂れ流して、垢塗れになって外に出たいと願っても金だけは裏切らない。だから君は選んだ」
「ただ金と動物は関係ない。なのに俺は動物を殺している」
「バカを言うなよ。君はこれまでの人生で沢山の生き物を殺している。間接的に人間だって殺している筈さあ」
「バカな」
「夏の蚊は殺すだろう。部屋にゴキブリが出たら必死になって駆除をする。毎日の洗濯や洗い物をした下水で毎日何百何千と言う水生動物を殺している。君が知らないだけ、もしくは知覚しないだけで君の言葉や行動が起因して自殺した人間だって少なからずいると思うよ。でもね、それはね、とっても仕方無い事だよね。全て金が関わっている。精神を豊穣させるための必要犠牲さ」
「………………」
「しかし君は法的になんら間違った事をしていない。さてここで質問だ。法律がおかしいか? それとも君がおかしいのか?」
「俺は間違っていない」
「そう。君は間違っていない。おかしいのは法律の方さ。赤信号を無視したところでこちらが注意していれば人に危害は加わらない。暴言の方を規制した方がよっぽど美しい世界になるはずさ」
「そうかもな」
「性犯罪だって、規制に規制を重ねるから人間の欲求が溜まってしまうんだ。なぜ法律は人格の尊重を謳う癖に、三大欲求の一つを大きく規制するんだ? 子孫を残す為の行為を自重する事自体人間という存在意義に背く背徳的行為だよ」
「そうだな」
「人の本来の姿から離れているのがこの常識的世界だ。今日生きるための選択肢すらほぼ存在しない。朝は起きなきゃいけない。身だしなみを整えなくてはいけない。仕事に行かなくてはいけない。急いでいても赤信号は無視できない。無能な人間でも使わなくてはいけない。殺してはいけない。性行為も規制されている。こんな選択肢の無い生物はまたと居ないよ」
「そう考えるとこの二択が続く空間はなんなんだ」
「これこそ人間の本来の姿じゃないか。二者択一。選択肢が二つも存在している。ほらまた選択肢だよ」
目の前に来た選択肢は動物の絶滅なんてものでは無かった。
『出口』
『食事』
「人間を捨てて出口を選ぶか、自分を生かすために食事を取るか」
俺はもう迷わなかった。もう二日か三日。何も口に入れていない。
選択肢は食事だ。
扉を開けるとそこには洋風和食中華。飲み物の入った容器がずらっと並んでいる。
俺は手前にある食べ物から順にまるで獣のように食らいついた。箸やナイフ、フォーク、レンゲも用意されていたが、手でむしり取るように口へと運ぶ。
最高の気分だ。
咀嚼するという行為自体が懐かしい。
締まりきった食道を押し広げながら胃へと食べ物が運ばれていく。長らく使わなかった胃は痙攣するように胃酸を吹き出し、養分とするため消化活動を始める。
生きているという事はこういう事なのだ。何気ない毎日の行為が途轍もなく貴重なことの様に思えてくる。俺は無駄な毎日を送っていた気がした。
なぜ食べ物に感謝をしていなかったのか。まずい物はまずいと言い張ることが、自分の人格を確立する術だと思ってきたが、そうじゃない。食べることができるという事に俺は感謝をしなければいけなかった。
すべての食事を終え、飲み物をかたっぱしに口へと流し込んでから俺は立ち上がる。
体中が軽くなった気がする。口のなかに広がっていた不快感も消え失せた。
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