【5】ナルシスト夫婦のエピローグ
勇「あっかんべー」
私と優の間に「不和」が生まれたあの日から数週間。今度は、私が週末に休みを頂けるという理由で優と休みが重なる事となりました。ですので、前回のような過ち――つまり、優と一緒に過ごす時間を作るという選択肢を旦那である以上はきちんと選ばなければならない。本来はそうなのですが――今日、私は彼女と前々から「休みが重なった際には」という約束を交わしていたのです。
そして、今日。あの諍いがあった日から数週間ぶりに休みが重なったという事で、私達はある「責務」を果たすという意味で約束を遂行する事になっています。
時刻は早朝、五時。いつものように優に叩き起こされる時間よりもずっと早く、かつ自発的に起床したのは彼女に起こされる日々で早起きする癖がついたとか、そういう事ではありません。今日という日に遂行する「責務」というものに緊張と不安が伴って眠りが浅かった。そういう理由での早起きなのです。
理屈としては小学生が遠足の前には寝付きが悪くなり、眠りは浅くなり、早くに目が覚める。楽しみであるものかどうかという点に目を瞑れば大体、そういう心境で合っているでしょう。
欠伸を一つしただけで、それ以上は眠りの余韻というか二度寝のような誘惑に駆られないのは我ながらレアなケースだと自虐的に苦笑してしまいます。
――とはいえ、そんな心境は優も同じようで、すでに起床して家事のために動き回っている物音が感じられます。しかし、そんな物音が普段よりも微細であるのは、まだ眠る余地のある私の安眠を妨げない配慮でしょうか。
……まぁ、そんな配慮も虚しく、今日という日に伴う緊張は私を目覚めさせましたがね。
私は一頻りの思考を終えると、クローゼットからまだ袖を通してないスーツを取り出して……しかし、すぐには身に纏う事もなく見つめます。このスーツは先日、オーダーして仕立ててもらったもので、何かの機会に持っておくべきだと判断したとかではなく、言ってみれば私の決心の象徴であると言えます。
実は私――あの、真奈と夕映の在籍する職場を辞める予定なのです。
理由として合わなかったという事は勿論あるわけではなく、クビだとか入れ替わりの件がバレたとかそういう事でもなくて。
正規雇用の会社の面接を受けるために、きちんとした身なりが必要だった。端的に言えば、そういう事ですかね。ちなみに、優が昔に着ていた「この体にきちんとフィットするオーダーメイドのスーツ」も存在するのですが、そこは心機一転という事で思い切って新調してみたのです。
これからは私の手で優を養うのだ、と背伸びした事も内心では考えていて……ですから、やがて決まった職場での仕事に慣れた時は優には仕事を辞めて専業主婦という形に移行してもらおうかなぁ、などと思っているのです。
家事も仕事もしている負担を取り除けたら、という私の思いやりも勿論ですが、妻を養えなければ男ではない、などというプライドも兼ねての決意です。
まぁ、そもそも私は中学校を卒業してから暫くは引きこもっていて、それから紆余曲折を経て何とか今の職場で社会復帰の糸口を掴んだのです。非正規雇用を馬鹿にするという意味ではありませんが、家族を守るためには福利厚生の充実した会社に入りたい。そんな思いを邪魔していた、「苦手な人間関係を新しい職場に移る事で再構成する事に対する恐怖と不安」のようなものに立ち向かう勇気を持てたのですから、一歩前進したいのです。
優という大事なパートナーがいれば、そんなのも怖くないですよね。
そんな思考を連ねつつ、身に纏ったスーツ姿を確認すべく私は電源の入っていないパソコンの画面に映った光景で確認します。
私の部屋には鏡がありませんので。ちょっとの間、眺めていて「なかなか様になっているではないですか」などと我ながらに思っていると、不意に携帯のバイブレーションが聞こえます。机の上に置いていた携帯を手に取るとメールを着信しており、差出人は愛衣からでした。
『おねーちゃん、スーツ似合ってるよ。その格好で来るの?』
その言葉に私のパソコンのカメラは外されていない事を思いだし、急に画面に映った自分に酔いしれていた事を恥ずかしく思いました。やり場のない羞恥心に対する微細な犯行として、私はパソコンの画面に対して「あっかんべー」をしました。
それにしても、その文面で改めて思い知らされます。
そう――私は今日、実家に帰るのです。
その際に一応、初対面という事になるので正装して、自分の両親に会いたいと思ったのです。それ故のスーツ姿。ちなみに、両親には入れ替わりの件と性同一性障害の両方を告白する予定です。そのための物的証拠と表現すると変な感じですが、分かりやすく説明するために優と共に赴きます。
そして、逆も然り。優の実家にも行く予定。
いつか、どこかのタイミングで。そんな風に思ってましたが、その「いつか」を選び取るのも結局は自分という事でして。両親を傷付けまいと必死に自分を押し殺してきましたが、私……いえ、私達は似た性格をしているようです。
自分の好きなものは好きだという――だから、妥協しないという事をこの間の「不和」で知り、決断したのです。
あまりにも自分を好きすぎる自分達だから、そういう面もはっきりと貫く。
妥協はしない。
まぁ、ナルシストな私達ですからね。
そんな心境の変化が決断させた「責務」として、とうとう両親に対しても打ち明ける事にしたのです。
自分の愛する本当の「自分」はこれだ、と。
まぁ、そういった特別な日であるからこそ、睡眠が浅くなったりもするのですが。
着替え終わると、私は部屋を出てリビングへ。朝食を作り始めていた優の後ろ姿がバーカウンターのようにキッチンとダイニングを分ける隔たりの向こうに見えます。
その後ろ姿は「不和」の生じたあの日までと違い――髪が短く切られていました。肩に触れる程度の長さにまで切り落とされた髪型は彼女の快活な性格をよく反映しているようで、最初は抵抗を示した私ですけれど、最高とは言わずとも良好とは評価出来るくらいに気に入っています。まぁ無論、以前のような長髪が私は好きですので元に戻してくれたら最高なのですけれど、彼女の趣味を私は否定しません。
その代わりに彼女も、私を否定しないのですから。
そういう意味で、という事ではないのですが私は髭を剃り落しました。優はやはり「勿体ねーなー」と言いましたが、互いが好きなようにしている事を好いているのですから尊重しあい、受け入れ合う。有無は言わせません!
そういった変化も何だか、私達らしいですね。
「おはようございます、優」
私がキッチンに向かってそう挨拶すると、
「おう、おはよう。勇」
と、いつものように調理しつつ、顔だけをこちらに向けて返してくる優。
彼女も私と同様に仕事の際に身に纏っているスーツ姿で。打ち合わせたわけではないのに、やはり心持ちは同じなのだなぁと思います。
そんな事を考え、ソファーに腰を下ろしてぼーっとしていると朝食が出来上がったのかダイニングのテーブル上に配膳し始めた優。私はソファーから跳ね起きてそれを手伝い、向かい合うように座ると朝食をいただく事にしました。
「それにしてもお前さん、スーツが似合わないっていうか。凄い違和感だなぁ」
トーストを片手に揶揄した口調で優は私のスーツ姿を見つめて言いました。
「髭を剃ったからちょっと頼りなさそうに見えるだけでしょう。こう見えて案外、中身は頼れる男なのですよ」
「そうですかー。頼りにしてますよー」
心にも思っていなさそうなイントネーションで語る優。
そんな彼女の言葉に「本当ですよー」などと語る私ですが、実際はそれを「本当にする」というのが正しいでしょうか。頼りなく、ひ弱だった私が優という存在によって精神的に強く、大人としてあるべき姿へと着実に近づけさせているのは間違いありません。そんな彼女を守れるくらいに、ならないといけませんから。
などと、決心を胸に秘めていると、優は「そういえば」と言って語り出します。
「三浦と愛衣ちゃん、あれからちょくちょく会ってるらしいよなぁ。何か、そういう関係にいずれはなったりするのかねぇ?」
トーストを頬張りつつ語る優。
「どうでしょうか。ある意味、最も相容れない二人のような気がしますけど」
「でも、両極端は合致するって言うじゃん」
「そうなったら、ちょっと面白いですねぇ」
「相性は抜群だと思うけどな」
「あぁ、かも知れないですね」
とはいえ、あの二人の好意は未だに私達夫婦に寄せられているというのですから、奇妙な話ですよね。何だか、奇妙な人間関係の相関図が書けそうで、こういった私達の日々を漫画やらアニメにすれば形になりそうですが、しかしそういうのは優が好まなさそうですね。障害とか病気をテーマにした作品も、よっぽど重きをおいて扱っていないと優は好きじゃないんですって。
彼女曰く、「病気や障害はお涙頂戴するための道具じゃねぇ」だとか。
といっても優、二時間ドラマとかで闘病生活を描いたものとかが放送されると「こういうのが俺は好かねーんだよ」などと言いつつ号泣してるんですよね。
説得力皆無ってもんです。
「そういやぁ最近、只野には会ってるのか?」
不意に切り出してきた優に対して、頬張っていたサラダを飲み込んで答える私。
「たまに会っているくらいですが……それがどうかしましたか?」
「いや、お前さんが近々会う予定があるっつーんなら、その……なんだ。お、俺も一緒に連れて行って欲しいなぁ……と」
そう歯切れ悪く語ると優は視線を私から逸らし、プチトマトを手で口に運ぶとヘタだけを残して口内に収めてしまいました。
一緒に遊びに行きたいとは、何だか意外ですね。
「どうしたんですか、突然。そんな事を言いだすなんて」
「まぁ、あれだよ。心境の変化って奴? 俺としても高校時代にあいつにあんな事を言ったの後悔しててだな。何というか、ちょっと謝りたくなった」
「でも優。只野君に今のあなたが会うって、それはつまり――」
「そうだよ。あの時、俺があんな風に只野の趣味を否定した事。それに説得力を持たせて語るために、俺の実情を。入れ替わりとこの障害を語ってもいいと、思ってるんだ」
私は優のその芯の強い言葉によって呆気に取られ……しかし、彼女が今回の事で得た解釈によって増えた思考の選択肢が、そういった挙動に踏み切らせた事は素直に嬉しいと思いました。
「そうですか。それはいい事だと思いますよ」
私がそう返事をすると優は「そう言ってくれるか」と微笑みつつ、何か引っかかる点があったのか「そういえば」と言って続けます。
「それにしても只野のやつ、お前さんの休みには大概予定が重なるけど……一体、何の仕事してるんだ?」
「あぁ、小説家らしいですよ。分類としてはライトノベルって言うんですけどね」
「マジかよ?」
「好きなものを好きなように作り出せる天職だって言ってましたね」
「何か、流石だな……」
勇は感服したとばかりに溜め息を吐き出しました。
それから食事を終え、食器類をシンクの方へと運ぶ優と私。優はシンクに食器が溜まるのがもの凄く嫌いらしいので、すぐさま洗い物に取り掛かりその間、私はずっと考えていました。
確かに今日という日に伴う緊張と不安は、これから二人の両親に自分達の実情を告白しにいくからで、それは間違いないのです。
しかし、私にとっては今日という日はそれだけではなくて。
もう一つ、緊張を伴うイベントを私は抱えていて、それを思考の余裕がある食後に改めて意識すると精神的な不安が加速してきたのです。
とはいえ――。
社会人としてのケジメをつける決心をしたように同じく、私はもう一つ。そう、あと一つだけきちんとしておきたいことがあるのです。
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