優「そんな事したら指から抜けねーじゃん」

 あー、やっちまったなぁ……。


 扉を強く叩きつけるように閉めて、家から出ていってしまった勇。叩き付けるようなドアの締まる音を聞いて、俺の胸中にすぐさま沸き上がったのは後悔だった。


 ……かなり怒ってるんだろうなぁ。


 そういえば、「後悔先に立たず」などという言葉があるが、あの言葉。場合によっては間違いだと感じる場面もある。そう確信したのがさっきまでの一連のやりとりだった。


 勢いに任せてあの後、俺は勇に対して抱えている不満。本当はそんなに大した不満でもないのに、突きつけてしまったあいつの趣味に対する理解の出来なさ。とうとう、俺は口にしてしまった。そんな最中、俺は「後悔する」という圧倒的な確信が先に立っていながら、言葉が止まらなかった。後悔すると分かっている言葉を、進んで投げかけてしまったのだから、もう自分でも何がしたいのだろうかなどと自虐的に考えてしまう。


 去り際の、勇とのやりとりを思い出す。


『優の片思いの相手は只野君で、そんな彼の趣味を過去に否定したのでしょう? 彼の趣味を――私の趣味を本当はよく思ってないのではないですか?』

『……そうだ』

『やっぱり、そうだったんですね。優だけは……優だけは信頼のおける理解者だったのではないですか! そんな優に趣味を否定されたら、もう――何を信じたらいいんですか!』


 心に刺さり、予期していた痛みは想像していた通り、予想以上だった。


 結局、両者共に喉を通らなかった朝食を片付けた俺。あまりにも放心状態だったのか、洗い物の最中に皿を割ってしまい、そんな事に焦る事もなく寧ろショックを受けると人間、本当に集中力が散漫になるのか、という事実発見に苦笑したりもした。


 随分と優の察しの悪さというか、俺があいつの中に作り出した固定概念みたいなもんに甘えて、いじけてた節があったなぁ、などとやはり後悔は連なる。きっと勇は俺の事を何でもはっきりと口にしてしまうタイプと思っていて。だからこそ、重要な事を言わないなら、それは思っていない事なのだと考えているのだろう。


 案外、それは間違っていない。


 でもやきもちを焼いたり、嫉妬したり、寂しくなったりって感情に男女は関係ない。裏表のない人間なんていないのだから、俺の裏を読む事くらいして欲しかった。


 ――とはいえ、結果的には俺が悪人なんだよなぁ。


 俺はリビングのテーブル上、片肘をつきながらそう思う。

 時間はその時で、十時を過ぎた所だった。


 そういえば、勇は俺がアニメ等の趣味に対して否定的だという事実を前々から、かなり確信に近い状態で気付いていたらしい。俺の片思いが只野に対するものではないか、という推測から発展して「片思いしてた奴のちょっとした一面が気に入らなくて怒鳴り散らした事がある」発言へと繋がって、疑問は氷解。


 とはいえ、只野は俺の事を『勇』としての外見で知ってるんだから、バレるのは時間の問題だった。もしかしたら、過去に触れる気まずさで只野と勇は初対面として関係できるんじゃないかと思っていたのだが……。


 バレるという危険性を孕んでいるやめておけばよかったとも言えるだろうが、只野がすんなり関係を持たせやすい存在であるのも確かだったからあの時、勇の願望を叶えてやるために俺は……。


 まぁ、いつしかバレていたかも知れないし、そのまま露呈せずに維持出来たかもしれない。我慢出来ないほどの不満ではなかったけれど、他に勇に対して抱く不満がないのだから際立って感じてしまう。


 そこだけが、俺の引っかかる点だ、と。

 そして、俺の思考はアニメという媒体へと移行する。


 表現の自由――俺はこの言葉が嫌いだ。


 いつだってこの言葉は好き勝手する奴の味方で、免罪符であり武器でもあった。そんな便利な言葉の下に作られた作品を見て、素直に嫌悪した俺は、多分アニメという媒体とは相容れない運命なのだと確信した。


 俺の生まれがあんなだったから――詰まる所は、そこである。


 とはいえ、勇との不和で仕方なく趣味を許容するとかそういう事じゃなくて、きちんと正しい意味で、勇と同じ目線でその趣味を――アニメという媒体を理解してやりたいと思う心が今はある。


 それは罪悪感から突き動かされて得た感覚であるのは否定出来ない。


 でもそれ以上に、前から思っていた。勇にそういった趣味があると知った時から密かに思っていて、でも後回しにしていて。それが今なのだ、と悟った。いつか、必ずなんて思っていようがいまいが、「いつか」は確実にやってくる。


 それらをいつにするか、という事に関して偶発的なんて、あるはずない。

 結局、自分が選び取るのだ。


 だから――。


 俺はそう心に誓うと立ち上がり、勇の部屋へと向かう。外へと出ていったのは確認しているが、何となく他人の部屋に入るという抵抗だろうか。扉をノックしてしまう俺。


 叩き起こす時はノックすらしねーのに、こういうギクシャクした状態になると平常運行はなかなか出来ないもんなんだな、人間って。


 そう思いつつ、勇の部屋に入って天井から傘を被って吊り下がる蛍光灯。そのスイッチたる紐を軽く数回引き、室内の光源を確保する。


 さてさて。ここへ来たのは他でもない。安直ではあるが、勇の気に入っている「例のアニメ」を見てみようと思ったのだ。勇は確かそのアニメのビデオ……じゃない、今はそういった映像媒体をどう表現をするのだったか。えーっと、とりあえず何か鳥除けみたいな円盤を所持しているので、無断ではあるが見させてもらおうと思ったのだ。


 本来ならばのんびりしていないで、出ていった勇を追いかけるべきなのかも知れないが――今の俺に語るべき言葉など何もない。


 変わっていない俺に変えられる事などない。

 だからこそ、何か一つでもあんな事を言った俺から変われたら。


 そう、思ったのだ。


 本棚に収納されたケースからキラキラと輝くドーナツのようなプラスチックの板を取り出す俺。確か、アルファベット三文字くらいだった気がするのだけれど。ただアルファベットは二十六文字。一体、何通りの組み合わせを思考錯誤すれば答えに行き着くのか。これだから、機械って苦手なんだよなぁ。すぐにアルファベットや英語だからな。


 とりあえず、一巻と題されたケースから取り出した円盤状の映像媒体を片手にリビングに戻った俺。勇がいつも繰り返し繰り返し、これを機械に挿入しているのを見ていたから、再生までの流れは何となく分かる。


 あぁ、こんな事なら勇が見てる時に一緒に視聴しとけばよかったなぁ。


 こちらの後悔は先には立たないようだった。


 まぁ、そんな思考はさておき、プレイヤーに円盤状のよく分からない「これ」を食わせる感じで再生する流れだと思うのだが、なかなか上手く入らないのは何故だろうか? 抵抗があるというか、すんなり入っていた勇とは違って再生機器側に受け入れる気がない感じだ。力づくで押し込もうとするも、まるでプレイヤーはその固く閉じた口を開こうとはしない。


 人を選ぶというのか……小癪な!

 ――と、その時。


「機械の電源が入ってませんよ、優さん」


 可愛らしい女の子の声。


 あれ? 俺ってば無自覚に独り言とか吐くようになったのか……などと、現実味のない些末事を脳内に浮かべつつ、実際ははっきりと背後から声がしたのを確認している。


 急に恐怖心が胸中に募り始め、振り向く事が怖くなる。一応……というか、れっきとした女性一人の家に侵入者。


 勇、出ていく時に鍵をかけなかったのか……。まぁ、あんな状況だと冷静な判断もできないか。しかし、相手も女性のようだけど、抵抗しきれるのだろうか。


 などと思いつつもゆっくりと、首だけで後ろを振り向くと、


「……な、何だ。愛衣ちゃんかぁ」


 そこに立っていたのは、この体と血縁関係があり、勇の妹だったと過去形にしていいのか判断し難い少女、愛衣ちゃんだった。笑みを浮かべ、「こんにちは」と挨拶してくる彼女の存在を知覚した事により、緊張と恐怖心は一気に溶けていく。


 ほっと、胸を撫で下ろす俺。


「どうしたんだい、こんな平日の……しかも、よりによってこんな日に」


 俺のバツの悪そうな物言いに対して、より一層深い笑みを浮かべた愛衣ちゃんはリビングに設置されたソファーにちょこんと腰掛け、少し勿体ぶって言う。


「どうも派手にやったみたいで。心配になって学校抜けて来ちゃいました」


 あっけらかんと語る愛衣ちゃん。


 言われてみれば確かに制服を身に纏っている愛衣ちゃん。ブレザーの胸元を飾るリボンとチェック柄のスカートが可愛い。正直、女子の制服とか滅茶苦茶憧れだったので着てみたい。頼んだら貸してくれるだろうか?


 いやいや、それはさておき――学校を抜けてきた理由が妙に引っかかる。


「――は、派手? 何でそ――いや、何の事?」


 明らかに何かがあった感丸出しの動揺っぷりを見せた俺だが、それにしても愛衣ちゃんまるで一部始終を知っているかのような口振り。


 ――って、まさか。


「そうですよ。申し訳ないんですけど、その……まだカメラが入ってるんですよね」


 俺の思考が明確な答えを言葉にする前に、愛衣ちゃんが少し申し訳なさそうな表情と共にそれを明言した。


 そう。愛衣ちゃんは重篤と言ってもいいくらいに姉を「男性として」好いており、それが昇華した結果こそ、カメラだった。勇のパソコンや、リビングに設置されたテレビ台の中に収められたゲーム機に仕込まれたままだったらしい。


 何でもスマートフォンとかいうものにカメラが撮影した映像を中継させられるらしく、それを学校で見た愛衣ちゃんはサボってまで駆け付けてくれたとの事らしい。


 何だか親切な少女の概要を述べている感じだが、れっきとした盗撮犯である。


「あぁ、見られてたかぁ」


 俺は見られていたという事実に羞恥と気まずさの入り混じった感情が心を満たしていくのを感じ、その気を紛らすかのような挙動として頬を人差し指でぽりぽりと掻く。


「その、えっと……俺ってば、君のお兄ちゃん? おねーちゃん、にその……酷い事をだねぇ」


 見られていた、聞かれていた――その事実から得た羞恥と気まずさが次第に移行していった感情の形は、罪悪感。愛衣ちゃんの愛する勇に対して、あんな事を言ったのだ。俺に対してあまりよい感情を抱いていないのではないか。


 そう思った故の気まずさだった。

 しかし――。


「いいんですよー。えーっと、一応現在の『勇』さんをおねーちゃん、って呼ぶ事にしますね。――で、おねーちゃんってば、優さんの気持ちを分かってあげなさ過ぎなんですよ。あんなに、おねーちゃんが休みの日に遊びに出るって言った時、優さんが寂しそうにしてたのに」


 愛衣ちゃんは頬を膨らませて俺に同調する言葉を投げかけてくれる。


 そうなんだよなぁ……何だかんだで俺も、腹の底にそういうの抱えてるぜって感じの寂しさを垣間見せてたと思うんだけどなぁ。


 ――って。


「その辺もやっぱり見てんのかよ!」

「はい。私の知らないお二人なんて、せいぜい働いている姿くらいのものでしょう」


 にこにこしつつ首肯して語る愛衣ちゃん。

 折角だから、カメラは今日この機会に外して帰って貰わないと。


「あ、それで話は脱線したけどこのプレイヤー、電源が入ってないんだったっけ?」

「そうですよー。傍から見てて、電源オフのプレイヤーにディスクを力任せで捻じ込もうとする優さん、可愛かったですけどねー。あと、ディスクは盤面を持っちゃ駄目です。その輪に人差し指を通して、極力触れないように持つんですよ」

「え? でもそんな事したら指から抜けねーじゃん?」

「……そんな奥まで通す必要ないじゃないですか」


 嘆息し、呆れ顔を浮かべる愛衣ちゃん。

 年下になんて表情をさせているのか、俺は。


「それにしても、おねーちゃんの一番のお気に入りであるこのアニメ。見ちゃって大丈夫なのかなって思いますけど?」

「大丈夫とは?」

「何というかその……おねーちゃんの趣味に対する評価のようなものが悪化する結果にはならないかな、と」


 愛衣ちゃんは少し臆する心もあったのか、頬をポリポリと掻きながら言った。


 実を言うと俺はこの作品のあらすじ程度は知っている。勇と趣味が合致した只野が学生時代に好んでいたアニメであり――俺が、そういった表現媒体に対して激しい嫌悪を感じるようになった作品でもあるからだ。


 なので俺は愛衣ちゃんの言葉に、否定出来ない可能性を感じていた。あらすじの時点で俺は只野に対して「こんなものが、この世の中には存在するのか?」という言葉と共に否定的な文句を連ねた。そんな過去があるのだ。


 綺麗事を言えば、悪化のリスクを背負ってでも現実と向き合って正当な自分の中での評価を下すべきだ。そうも思う。しかし、そうまでしてリスクを追うくらいなら、現実から目を背けて、今のままというのもアリではないのか?


 まぁ、アニメを見る見ないで何を言っているのかという話だが。


 そんな思考の連なりによって生まれた寡黙な俺の様相を察したのか、愛衣ちゃんは「提案があります」と言って続ける。


「おねーちゃんの事……特に過去、なんて部分には優さん。きっとまだ聞かされてないはずですよね?」

「ん? そうだなぁ……又聞きで高校に行けてないってのは知ってる。本人には直接その事を話題に出したりしてないけどな」


 俺がそう言うと、愛衣ちゃんは腕を組んで「なるほど」と納得を示す言葉を発する。俺は愛衣ちゃんの思考が全く読めず、彼女の言葉を待つしかない現状。そして、両手をポンと叩いてその「提案」を述べる。


「おねーちゃんの過去。私に話せる範囲で良ければ、今ここで語っておくべきだと思うんです。そう思って私は、優さんに会いに来たんですから。印象がマイナスになる事はきっとないと思いますし。それを踏まえて、おねーちゃんの趣味に触れるか触れないかを決める――というのはどうですか?」

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