勇「やっぱり、あなたは強いですね」

 仕事から帰宅し、リビングへと通じる扉を開くとそこにいた男女。女性が優であるのは勿論の事、男性の方が三浦さんだという事は瞬時に分かりました。私と目が合った途端に「勇」と呟いた彼の言葉と表情で察したというのが、主な判断理由といった所でしょうか。


 何だか寂しそうで、壊れそうでかつ、切なそうな、そんな表情をしていましたからね。


 それにしても、三浦さんと私達の三人が一堂に介してしまうと入れ替わり、そして「性同一性障害」まで露呈してしまう結果になり得る気がするのですが――優はそのような決心をしたのでしょうか?


 さて、状況が飲み込めないまま、「ちょっと話をするから同席して欲しい」と優に言われた私。張りつめた空気に突然放り込まれた順応の追いつかなさに混乱し、私は何故か後ろ頭を掻きつつ「えーっと」なんて言って、苦笑いをしてしまいます。


 それにしても、この三浦さんという方は随分と真面目そうな方ですね。几帳面にセットされた髪型といい、眼鏡の奥から覗く芯の強そうな瞳。ちょっと堅苦しいという言葉に印象を訂正した方がいいかも知れません。優のような乱暴なタイプと過去にどう噛み合っていたのかが不思議でなりませんね。


 とりあえず「珍しく」と言ってしまえば自虐的になってしまうのですが、この空気感ですから私は珈琲を用意する事にしました。


 客人を招き入れて飲み物も無しというのも失礼ですから、優も飲み物くらい出してあげればいいのにと思いますが……まぁ、空気感的に出来なかったんですかね。


 とはいえ、お茶なんか我が家にはありません。もてなすには少々不恰好ですが、優が朝に飲むインスタント珈琲を出す事しかないですね。客人用に良い珈琲でも買っておくべきでしょうか?


 ――などと、空気感がもたらす緊張を緩和するための他愛もない思考をしつつ、電気ケトルで沸かしたお湯でカップ内の粉末を溶かせば珈琲二人分とついでに私の分のココアも出来あがりです。


 あまりにも痺れた空気のために「どうぞ」すら言えない私は優と三浦さんの手元に珈琲を置きます。


 すると――。


「勇、珈琲を入れてくれて悪いんだけどさ、三浦は砂糖を入れないと飲めないんだよ。俺はブラック派だから砂糖なんか買ってないし、ココアを三浦に回してやってくれよ」


 そんな優の言葉で三浦さんに何も飲み物を出してあげていない理由は分かりましたが、それなら作る途中で止めてくれればいいのに、とも思いますけれど。


 ――というか、私もブラック珈琲なんて飲めないのですが。


 とはいえ、優に言われるがまま差し出したココア。三浦さんは吐息で冷ましつつ、ゆっくりと一口飲むと緩く嘆息して語り始めました。


「優さんの言う通りのようだね。そこにいる勇は僕の知っている彼じゃないという事か。本当に『彼』ならば僕に無糖の珈琲は出さないものね」

「そうだよな。お前さん、絶対缶珈琲は微糖だからな」


 優は三浦さんの言葉に対して、微笑みを浮かべて答えました。


 私が三浦さんの好みを知らないという事実を見せつけるために敢えて、珈琲を作らせたのでしょうか?


 だとすると三浦さんの口ぶりからしても、もう入れ替わりに関しては露呈している――そのように感じ取れるのですが、どうなのでしょう?


 あまり適当な状況判断で言葉を発して、ややこしい展開を招くのも避けたいですし。


「しゃしゃり出て申し訳ないのですが、えーっと。お二人の話はどの辺りまで進んでいるのでしょう? それはつまり私と、彼女の関係などという事は?」


 私は頼りなさそうなイントネーションで問いかけました。


 まぁ、「誰に」というわけでもない質問でしたから、答えてくれるのは「誰でも」いいのですが、三浦さんが「あぁ、その事か」と言って私の疑問を拾ってくれました。


「昼頃からずっとここで経緯を話してもらっていたので大方知っているつもりです。あなた――つまり現在は勇の肉体を持つ元来の『優』さんと、優さんとしての肉体で僕と対峙している『勇』は端的に言って、入れ替わっている。そんな非現実的で俄かに信じがたい事実と、奇しくもお二人が性同一性障害であり、入れ替わりによって正しい性の肉体を獲得したという事は聞いています」


 答えたのは三浦さんでした。


 平坦で、淡々としていて、言ってしまえば少し冷淡。何かの感情によってそういう語り口調になっているのではなく、平常時からそういう語りなのだという事が外見や雰囲気から分かってしまうのが少しユニークです。


 って、この人達は昼頃から話していたって……仕事はどうしたのでしょうか?


 とはいえ――しかし、随分と深くまで話したものですね。

 私の胸中は表に出さないものの、凄まじい驚愕で満ちていました。


 性同一性障害について、自ら告白した。その事実は際立って驚愕に値するものです。もしかすると、三浦さんが暴露した自らの同性愛者という部分で胸を借りる感覚で語ったのかも知れませんが――それでも自分の奥底に閉じ込めた秘密の開示が如何に困難で辛い事か、私にはよく分かります。


 優……やっぱり、あなたは強いですね。


「それにしても納得したよ。優さんがやけに僕の珈琲の好みを知っていたり、三浦という名前を名乗ってもいないのに呼称してきたり。何だか、偶然では片づけられない事が多々あったように思うけれど、勇はずっと僕の隣に居たんだね」


 三浦さんの言葉に、罪悪感を感じたのか表情を曇らせる優。


「悪かったな。新入社員として再びあの会社に入っても、お前に入れ替わりの事実は語れなかった。入れ替わりの事を語れば、問題が生まれるんだよ。『どうして、男性だったはずの人間が入れ替わって、戻ろうと試行錯誤しないのか?』って疑問を抱かせることになれば、その先に待っている俺達の答えは一つ。そうだろ、勇?」


 優の言葉に、私は首肯しつつ答えます。


「そうですね。性同一性障害だから、ですよね」


 私の言葉に三浦さんは首を垂れて「そうか」と渋々、納得したような言葉を口にします。


 ――それにしても、何と因果な話でしょうか。


 三浦さんと優は互いの視点から見れば同性でありながら、内面は異性だったという奇異な過去があったわけです。内面的には異性であるのですから、二人が恋仲に発展する事は正当なように思えますが、外見的な意味合いでは同性愛に見えるのです。三浦さんは優を男性と捉えて好意を抱いていた。それは、もし優の方も三浦さんに好意を抱いた時――異性愛と同性愛の擦れ違った感覚をぶつける奇異な恋愛になっていたという事。


 いえ。それはもう、恋愛として成立しなかったのかも知れません。


 本当の自分を見られていない事に強く抵抗を示す私達ですから無理な話、優は男の外見をしていながら、自分を女性としてみて欲しいと願います。そんな要求を同性愛者の三浦さんに求めるならばこの両者、まず相容れないのです。


 加えて、ややこしいのは互いに相手の抱えている特殊な境遇を知らずに友達として成立していたという事。互いに、性としては好きになる余地がありながら決して、交わらない性質。


 腹を割って話せば、決裂必死の――水と油。


 そんな境遇を劇的に変化させた入れ替わりという現象は、奇しくも周囲の人間に踏み出す勇気を与えました。愛衣が私の男性化で告白を行えたように、それはバネ。しかし、男性として好いていた『勇』を優の中に見た三浦さんの言葉は、彼女には快く響かなかったのですね。


 そう――それこそ。


「代替品。僕はそんな扱いで君に告白したと、優さん。あなたは思っているのかな?」


 三浦さんの問いかけに対して、優は昨日と打って変わって――首を横に振りました。


「昨日の時点では、そう思ってた――でも」

「うん。正直、僕自身もそういう風に捉えていたのだと思っていた。似ている『勇』の面影を追って、空いた空虚を埋めるのに最適な人物だと。でも今日、君の正体があの『勇』だと知って思った。僕は女性の体を有した『勇』でも厭わないくらいに。君の事が好きで好きでたまらないって事だ。僕はその外見に、女性的容姿に魅力を感じているわけでもないのに――そんな、外見的魅力において皆無と言える異性の姿をした『勇』でも、僕の心に灯った恋心を吹き消すなんて出来ないんだよ」


 熱情的に、そして熱情的でかつ熱情的。


 彼の胸中で抱え込んだ好意、愛しさを言葉で還元するにはあまりその器としての容積が足りていない言葉の連なりを経て対照的に、彼は儚く、そして悲しげな口調で「僕と付き合って欲しい」と言いました。


 なるほど、三浦さんの発想は逆だったのですか。


 自分はとうとう女性を愛する事が出来るようになった、などと苦労してきた同性愛者としての弊害。その離脱に目が眩んで、自分が女性としての優に対して魅力を感じていない事に気付かなかった。しかし、好きになるだけの魅力は全て内面の。そう、「勇」に似ているという部分で補完されていたのです。代替品なんてとんでもない、偽物でもなければ代わりでもない、本物だったのです。空虚を埋めるにはぴったり過ぎる存在です。そんな彼女の言葉、「向き合え」という一言で内面ばかりに視線が向いていた彼は気付いた事でしょう。


 外見には何の魅力も感じておらず、ただひたすらに内面だけを見つめて、『勇』の面影を追っていた。


 三浦さんはぶれずにずっと――『勇』に恋をしていた。


 姿が変わっても、揺れ動く心が機敏に彼女の中から『彼』を見つけた。

 見つけていたと知って、三浦さんは気付いたのです。


 自分は、どんな姿をしていようと、『勇』をひたすらに好きなのだと。


 一方で優は、三浦さんの言葉を上手く解釈できなかったという事ですか。

三浦さんは、優が『過去の勇』と同一人物であるという事実を当然、知らないために無自覚でしか表現できなかった。


 そのために、「代替品」だと思わせ――怒らせてしまった。


 優が、「この女性は『勇』に似ている」と感じている三浦さんに真実を語ってあげられれば妙な解釈のすれ違いはなかったのでしょうが――優は生憎、そんな秘密を「秘密」らしく口外せぬように守っていました。


 秘密を閉じ込めて、遠ざけて。

 遠ざけているから、三浦さんに真実を語る発想はありません。


 そんな発想がなければ三浦さんの言葉は、優にどう響くでしょうか?

 ――そう、代替品。


 三浦さんに対して、「似ているどころか本人だよ」と語れないくらいに、無意識に秘密を告げる事を忌避している優は、彼の告白を代替品と解釈した。


 そんな、所でしょうか。


 私がつらつらと空白になっている彼らの思考のすれ違いを思考していると、優は暫し無言で三浦さんの告白を受け止めていた沈黙を破り、口を開きます。


 紆余曲折を経てしまった、変わらぬ答えを。


「お前さんがそう言ってくれて本当に嬉しいよ。同性愛者であるはずの三浦が、そんな垣根を越えて一人の存在を深く思ってくれているって事が、本当に嬉しい。……でもさ、俺はお前さんの気持ちには答えられない。もう、心に決めた奴がいるんだよ。こうして隣に座っている『勇』に俺は一生、寄り添うって決めたんだ。だから、俺はお前さんの気持ちには、答えられない」


 今日までの日々、その回想が優の脳内には巡っているのでしょうか。


 一か月ほど『優』として生きた今日までの記憶と寄り添って語られたような、噛み締める言葉の連なりに結ばれた意思表示は痛烈で、鮮烈でかつ、強力な意思の具現。


 目を閉じ、三浦さんはその言葉を内心で反芻しているのか暫し、沈黙しました。


 私と優も同様に言葉を噤んで、時の経過と共に語られるであろう三浦さんの言葉を待ちました。


 答えは告げられた。

 そんな一つの揺るがない結末に語られる、言葉。


「やっぱりか。でも僕の同性愛者としての気持ちを忌避せずに、嬉しいと言ってくれた。気味悪く、侮蔑の対象にしか成り得ないと思っていた感情が君にとって光栄なものであれたという事実は、きっと僕を強くしてくれるだろう。だから、僕は君のおかげで自分の弱さに向き合え、そして一生抱えていたかも知れない感情に終止符を打てた事に対して、もう一度言わせて欲しい――ありがとう、と」


 そう語って、笑む三浦さんの表情があまりにも繊細で、切なく、今にも壊れそうなものである事が私の中で焼き付いて放れなくなりました。破れると半ば、分かっている思いを自分の弱さを、打ち砕くためにわざとぶつける心は、それだけで強いではないですか。


 今日までにどれだけ、私は自分の弱さに甘えたでしょう?

 誰かの強さで、弱さを埋めたでしょうか?


 ぶつけて砕けた欠片が心に刺さって痛んでも、そんな痛みに後悔を抱かない三浦さんの強さがただ、ただ――私には眩しくみえるのでした。

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