優「目の前にいるんだから」
翌日、出勤すると三浦から今日は病欠したいという連絡があったと上司に聞かされた。
他の同僚たちが「三浦さんでもやっぱり風邪引くのね」「いや、あの人は馬鹿じゃないから当然だろう」などという会話を交わしつつ、何気ない事実として受け止めていた中――やはり俺は責任や罪悪感をフィルターとして上司の報告を聞いた。
俺が昨日、三浦の告白に対して揺らぐはずのない「ノー」を即座に語ってしまえば話はこじれる事はなかった。しかし、俺が興味本位で「入れ替わって、自分を曝け出せるようになった俺のどこを好きになったのか?」などという疑問を投げかけてしまったが故に、三浦から詳細な事情を引き出す事になり――結果、俺は激怒してしまった。
俺を代替品のように扱っていると――そう、感じてしまった。
仮に三浦がそのように俺の事を感じていたとしても、あの蛇足としか言いようのない好奇心を抑え込む事が出来たならば知る結果にはならなかったはずだ。世の中には知らない方がいい事もあり、同時に――言わずに済むならば、言わない方がいい事も確かに存在するのだろうと思い、俺の胸中は途方もない罪悪感に苛まれる。
――とはいえ、おこがましい思考をしてしまう。
三浦に「向き合え」と俺が叱咤した事によって「彼の中で何かが変わるかも知れない」と勇が言ったように自分の心に正直な告白を行うのだとしたら。彼の恋焦がれた存在である「勇」に告白をするに違いないだろう。
だから、仮に破れる恋だとしても――自分に向き合う事を促し、けじめをつけるが如く自分の想いに終止符を打つ。
そんな機会へと発展させたと思考して、俺の致命的な蛇足が少しでも有意義なものとして解釈されはしないかと考えてしまう……それは、おこがましい事だろうか?
などと、思考を連ねてれば仕事など手につかない。暗雲が立ち込めた胸中を抱えてしまえば、どれだけ払拭しようと試みても脳内からその議題は消えなくて。茫漠として、掴み所がなく、明瞭さを失わせる霧のごとく俺を迷わせる。悩ませる。
苛み、惑わせる――。
ちなみに勇には、あちらから接触される可能性があるからその時には対応して欲しいと言っておいた。どのタイミングで三浦が勇に接触を試みるかは分からないけれど、それでも勇の語った通りに「向き合え」という俺の言葉が三浦に作用しているならば、本人に直接告白しようという思考になるのは必然だろう。
そして、尾行によって三浦は勇の――というか、俺達の家を突き止めているはずだ。
うーん。案外、今日はそういった行動のために仮病として休みを取っているとも考えられるだろうか。三浦のメンタル面に関しては、あまり自分の事を語らない彼の性質もあって俺もよく知らないのだ。傍から見ればこういった一件によって家でへこんで寝込むタイプではないような気もするけれど。
ただ、もしも実際に行動を起こすのだとしたら俺達の家を訪問しているのだろうか?
だとすると、帰宅するのは勇の方が先であるため二人は俺の預り知らない所で接触する事になると思われる。
そんな時――勇は、どのように応対するのだろう?
対応の仕方によっては三浦の凄まじい眼力の事だから、本人ではないと見抜いてしまうだろうか。俺の内面を筆跡やイントネーション、その他にもあらゆる観点から感じ取って「勇」という存在を見出していたのだ。
――看破されても不思議ではない。
しかし、何度も繰り替えしているようにこの「入れ替わり」はバレて困るような事ではないように思う。俺達が「入れ替わったのに納得している様が、性同一性障害であるという隠してきた事実に繋がるから」という理由で開示を忌避しているが――しかし、三浦だって同性愛者なのだし、理解は示してくれるだろう。
なら、看破されても問題ない――と。
そんな思考をした瞬間――俺の脳裏をよぎった至極、単純な自問自答。答えを明瞭に脳内で言葉にせずとも、その疑問を思考していけば途方もない自分の失態が明らかになる。そんな確固たる予感によって俺の鼓動は打ち鳴らす速度を速め、胸中にもたらされたじめじめとした焦燥感に似た感情がじっとりと汗を滲ませ、その答えに触れる事を遠ざける。
でも――それこそ、俺が向き合わなければならない、事。
何故、
何故――、
俺は、困らないと言っておきながら――三浦に入れ替わりを開示しないのだろうか?
三浦が俺を「勇」として好く事が――代替品?
何を言っているのだろうか。
俺は他でもない、三浦が想ってくれた一人の人間――「ユウ」ではないか。そんな彼の好意に対して、俺はどうして――「よく見抜いたな」などと言えないのか。どうして、コンパスが方角を指すかのように向けてきた好意に対して、大正解と言えないのか?
――バレれて困る事ではない。
――三浦ならば、確かに受け入れてくれるだろう。
でも――結局、俺はどう言葉を連ねようが事実の開示を怖がっているのか。
そんな恐怖心を無意識に抱えていたから、三浦が俺の中からきちんと「勇」を見つけ出したという事実を受け止められずに、代替品などと曲解した。見つけ出した事実を肯定すれば――俺は三浦に開示しなくてはならなくなるから。
お前の恋した「勇」は確かにここにいる、と――。
気付けば、手が震えていた。
自分の中に生まれた途方もない罪悪感。それを口にして、言葉にして、吐き出してしまえれば楽になるかも知れない。この場で取り乱して、叫んでしまえばきっと楽になる。それは分かっているけれど、状況を考えたとか、世間体や社会人としての常識が阻んだのではなく――ただ、俺の中で思考が次々と想像の中から捕まえた三浦の胸中、それと自身の投げかけた言葉が擦れ違い、生み出した悔恨があまりに膨大で。
途方もなさ過ぎて――口をぱくぱくと開くだけで、何も言葉にならなかったのだ。
呼吸が乱れ、言葉を紡ごうとして阻まれた唇が震える。
確かに三浦が同性愛者である自分を悩んでいて、女性を好きになれたという言ってみれば「普通になれた」感覚はあったのかも知れない。
でも――でも。
それは、同性愛者である三浦が女性の姿をしているにも関わらず、俺の内面に存在する「勇」を見抜いて、好きになったという一面も持っている。外見に伴う性別を越えて、一人の人間として好きになった。そう思考すれば――それは、どんなに切実で、切なく、儚い思いだろう。
そんな俺の想像が三浦の胸中に触れたからだろうか?
瞬間――意を決した。
今日、三浦が勇に告白しようとして会社を休んでいるのなら――。
席から立ち上がり、カバンを手に取ると少し離れた場所で仕事をしている上司に聞こえる大きな声で「体調悪いんで、早退します」と告げる。そんな俺の突如の宣言に反応を遅らせている上司の返答も待たずにオフィスを出て、エレベーターを待つもどかしさに耐えらないと感じると、階段を駆け下りて会社を出た。
駅へと向かう俺は意図せず走り出していた。ハイヒールがコツコツと地面を打ち鳴らす。電車を待つ時間が伴う可能性を考えれば、急ぐ事に意味はないものの――胸中の感情を行動で還元しなければ平常心を保てないような感覚がしたのだ。
駅にて乗り込んだ電車内でも俺は吊革に捕まっており、昼前であるため空席の目立つ光景を目にしても座ろうという思考には発展しなかった。
確かに――勇が三浦の向き合うという思考に基づいて行った告白を断れば、この件は終わるのかも知れない。
でも、それが正しい終わりだとは思えない。
俺が気付いてしまったからには――三浦が俺の中に「勇が存在する」と無意識ながらにも気付いてしまったからには、きちんと真実を伝えたい。
好意を向けた「優」の中には確かに、あの日まで一緒にいた友人である「勇」がいるという事を。
それはつまり――俺と勇の入れ替わり、その開示という事だ。
決心が行った告白が俺の中の「勇」をきちんと見出していた、その思いの強さを――正しさを三浦に知らせてやりたい。そうする事で三浦の告白が意味あるものになるんじゃないかと、思ったから――。
そんな決心は俺をなりふり構わず会社から飛び出させ、こうして焦燥感に炙られて電車の中で貧乏ゆすりを伴って立ち尽くす現状を生んでいる。しかし――、一方で俺の中に存在している落ち着かなさはそういった前向きな焦燥感によってのみ構成されているのではなく、あくまで片面でしかない。表裏一体――そんな落ち着かない気持ちの裏に、恐怖心が存在するのも否定出来ない事実だ。
やがて自宅のある街、その駅へと辿り着く。電車を降りると再び、自宅までの道のりを必死で駆け抜ける。ただ目的地――自宅までの距離を詰めていく。
そして、見えてきたマンション。
俺達の住処である、一階の一部屋。
その扉を前にして立ち尽くす人物がいて――それは言うまでもなく三浦だった。
勇が家にいる時間など今の彼には分からない。だから、待つつもりでそうして扉の前で佇んでいるのか、それともインターホンを押す決心がなかなか伴わなかったのか……目視するだけでは推し量れないけれど、ここに来ているだろうという事だけは分かっていた。
そんな彼の横顔を見つめつつ、距離を詰める速度は随分と下がっていた。息も切れて、歩いている状態と大差ない速度での走行。
入れ替わった事による基礎体力の低下がありながら、前の体と同じ感覚で運動した事による疲労が体にどっと押し寄せる。
しかし、それでも弱々しく踵が地面を叩く音に反応してこちらを向いた三浦に対し、微笑んで見せる俺。
神妙な面持ちの三浦と正面から対峙する。
「病欠じゃ……なかったんですか?」
手を伸ばせば触れられるくらいの距離まで三浦に近づくと俺は立ち止まり、落ち着くための呼吸を数秒行ってから、そう言った。
三浦は気まずそうに俺から視線を逸らし、そんな胸中にはもしかすると「ここがわかった理由」や、「何故、走ってきたのか?」という疑問を抱えているのかも知れなかった。そして、それ以上にそれらの疑問に対して、「ここまで勇と酷似してきた俺だから」という一種の納得もあってか、詳細は問いかけてこない三浦。
「ここに例の勇という友人がいてね。つい最近、街で見かけたものだから失礼とは思ったが尾行して、家を突き止めた。随分と様子が変だったものだから、声は掛けられなかったのだけれど。知ってどうするんだ、なんて思っていた彼の住所が君の言葉のお陰で役に立ったよ」
マンションを見つめて語った三浦は最後に小さく、呟くような声で「ありがとう」と言った。
俺の言葉にはそんなの、皮肉にしか聞こえない。
皮肉にしか聞こえない言葉だからこそ、そう受け止める心に従った俺はこうしてここまで走り連ねて、辿り着いた。
俺はそんな感謝に対して、一つの言葉しか返せない。
「三浦さん。私はあなたに謝らなければいけません。本当に……本当に、ごめんなさい」
俺の言葉に、三浦は目を軽く見開いて驚愕を露わにする。
予期せず、思い当たる節もないであろう彼が受けた謝罪に対して、俺は理由を述べていく。
「あなたに対して、『好きな奴にこそ好きだって言え、俺に逃げるな』なんて勢いで言ってしまったのですが、あたしはその……三浦さんの好きなその『勇さん』が、あなたの好意を受け入れられないって知っていて、そんな事を言ってしまったんです。まるで、玉砕する事を知っていて、その後押しをしたみたいな」
俺の言葉に対して、懐疑的に首を傾げる三浦。
「言っている事がよく分からないけれど、玉砕するという予感なら僕にもある。だって、僕は同性――」
「――違うんです」
俺は三浦の言葉を遮るように強く、声高に言った。
その言葉に「違う?」と疑問を呟く三浦の視線は神妙かつ真剣なもので。無表情の淡々としたいつもの様相でありながら、どこか普段のそれとは違う差異を漠然と感じる。
そんな、表情で――。
鼓動の刻みが早くなるのはきっと、もう走ってきたからではなくて。これから語る事の不慣れと、それに伴う恐怖。今日まで隠してきた事を受け入れてもらえそうな相手だとしても、語るのは怖い。
けれど、それは三浦だって同じだった。
同じであるならば、俺はそれに自分を重ねてそうなりたい。
「きっと、勇さんは。いえ、その『勇』は男性を好きという点では三浦さんと同じだと思います。ですが、三浦さんの好意を受け止められない理由があるんです。勇は、男性を好いていますが、男性として見られる事を忌避しています。こう語ると、随分と謎めいた言葉となりますね。だって、男性を好きでありながら自分を男性としてみて欲しくない存在。でもそれは、勇が男性だって前提だから妙に聞こえるんであって、人類の半分は実際にそうじゃないですか。だから、三浦さんの好意を受け入れられない。そんなすべてをどうしてあたしが知っているのか? 答えは簡単です。あなたに告白を強いた友人であり、あなたが恋した友人である『勇』は、ここに。性同一性障害によって、男性の体に宿っていた一人の女性、『優』は――今ここに。三浦、お前さんの目の前にいるんだから」
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