優「――そうじゃねぇだろ!」

 先輩と後輩の差で生じる仕事量のためか、俺は三浦よりも早く退勤した。とはいえ、残業が生じる事の少ない業種でかつ、仕事の処理速度が速い三浦に残業という言葉は似つかわしくなく、俺と共に居ない時間を作りたいのだろうと察せられた。無論、それは推測だが、生じる理由はある。


 そう。境遇のために比較的、こういったシチュエーションに経験を積んでいない俺だが、それでも未来は九割九分九厘読めているようなものだ。ただ、事実にならない限りは真実に肉薄した推測でしかない。


 とりあえず気を利かせて、俺は三浦に指定された公園で待っている事を告げて先に会社を出た。


 夕陽は傾き、自宅からは隣町となるこの場所、オフィス街は夕焼けの暖かな、そしてどこかノスタルジーな気分にさせる輝きをビルの窓ガラスが反射させ、眩い光沢を得ていた。大きな鏡のようなビルが向かい合わせになった通りを歩み、駅へと至る。


 俺と三浦の自宅は同じ街にあり、同時に退勤すれば電車に同乗する事となる。そこから公園なり、人気のない場所に移動してまで伝えたい三浦の本懐を思えば、目的地まで同伴するなどという間抜けな絵面は誰だって選ばないだろう。


 考える時間と、決心を結ぶ猶予を持って遅れて現れたいと――そう思うからこそ、きっと彼は電車を一本ずらしてこの街を出るはずだ。


 そんな意図を察する事こそ――俺の気遣いだった。


 電車に揺られて数分。街と街の間を運ぶために用いる瞬間的かつ日常的な乗車が、曖昧な時間の定義を膨らませて、数倍の時を体感させる。


 鼓動が、高鳴っていた。


 恐怖に似て足元を竦ませる感覚に、緊張に似て踵を返して逃げ出したい感覚と、そして友人を傷付ける未来が何となく分かってしまう事に対する、奇妙な罪悪感。


 もし、予測が外れていないならば俺は、きっと断る。

 その、申し出を――。


 混沌とした胸中が証明する、確かな俺のベクトル。

 自分は誰に対して「その感情」を抱いているのか。


 それ故に、誰かの「その感情」を決定的に受け入れられないという事。それを自覚したからには何だか、悪いなという気持ちにしかなれない。


 男と女なんて、あるべき形を取ってしまった俺と三浦の間に友情は成立しない。あくまで推測であるとはいえ、こんなにもありがちで。繰り返し繰り返し漫画で描かれてきたようなシチュエーションは自ずと、俺に答えを抱かせる。


 三浦が、何を告げるのかを。


 ふらりふらりと下車した駅から歩み連ねて徒歩数分。辿り着いた公園のベンチにて腰を下ろし、この場所の象徴的とも言える噴水の小気味よい流水の音を聞く。視線は温暖色に染められた夕方の空へと委託して、思考を茫漠とさせる。


 それでも無意識ながら、思考は蠢き、考え、悩ませる。奇しくも三浦が指定した待ち合わせ場所は、俺と勇の始まりの場所だった。正確に言えば、ぶつかったのはここではないけれど――でも、勇にプロポーズされたのはこの場所だった。


 自分が好き過ぎて、相手が好き過ぎるナルシストな夫婦。


 随分と言い得ているな、などと苦笑交じりに思い返しつつ待つ事、数十分。辿り着いた三浦がこちらへと歩み寄ってくる。その姿を捉えると俺は立ち上がり、神妙な面持ちで彼との距離が詰まるのをひたすらに見つめた。


 友人だったはずの存在。

 友人以外になり得ないはずの存在。


 そんな彼の語るべき言葉が手に取るように分かる。俺はもう普通の女性で、彼との関係も世間的に然るべきものへと発展する。そんな風に望まれる事は不思議じゃない。


 だから、入れ替わりにおいて避けられない弊害だ。


「待たせてすまない。仕事がなかなか片付かなくてね」


 三浦はいつものように平坦に語り、その表情は相変わらず無機質なものだった。


 いつもと変わらない――しかし、今になって俺は三浦が残業した事実が本当なのではないかと思い始めていた。もし俺の予測通りの事を彼が語るのならば、仕事が手につかない感覚はあって然るべき。


 例え、どんなにクールな人間であっても。


「いえ、大丈夫ですよ。この公園は随分と絵になる風景をしてますからね。眺めているだけでも時間を忘れられるというものですよ」


 俺はなるべく強張って歪みそうな表情を意図して微笑に変え、そして嘘をついた。


 時間を忘れるような光景がここにあったとして、俺は三浦の来訪まで高くそびえた園内の時計台を何度見つめた事だろう。夕陽の輝きを孕んだ噴水の飛沫も、手入れの行き届いた園内の草木、緩やかな風に撫でられてかさかさと鳴る木の音色も何一つ、俺の心に作用しない。


 友人を傷つける罪悪感で鼓動を高鳴らせる俺の胸中は――、一貫していた。


 会話は弾まなかった。公園内にてただ無言で佇む二人の男女の結末を急かして求めるような――もしくは、永久に凍らせて閉じ込められればと思う相反する、相対した心が複雑に胸中を蹂躙し、思考は掻き乱される。


 一分が、その六十秒の枠を突破したような質量の変貌。


 そんな瞬間はコマ送りの動画のように、もどかしく。

 しかし、一度始まってしまえば終結は呆気ない。


 ほんの一握りの言葉が――彼の口から洩れるだけ。


「もうきっと、何となく僕がどんな話をするか理解してくれていると思う。だから、枕とするような言葉も必要なければ、答えに至るまでの途中式みたいな構成要素の羅列の必要もなくただ、一言でいいだろう。僕は優さん、君が好きだ。よければ僕と、付き合って欲しい」


 三浦の、いつも通りの平坦な口調。しかし、どこか頼りなさそうな気配を探っていた俺の先入観が鼓膜、もしくは脳に作用したのか。不安感は確かに忍んで言葉に寄り添っていたように思う。


 三浦も語った通り、分かっていた。

 やはりか、と思う。


 分かっていて、それでも驚くという事がこの世の中にはあるのだと驚愕した。


 俺は深層心理の具現であるかのようにその場でそっと、目を閉じる。思考するまでもなく答えは決まっているのに、何かを模索するようなその脳内での意向は三浦に対して傷つけない最善の言葉を探しているのか。そして、それを探求する事は果たして優しさか、残酷さか。しかし、その前者であって欲しいと自分の茫漠として心理に願う心をもってしても、彼の望みを叶える事は出来ない。


 出来ないからこそ、何も言えない。

 どう言えばいいのかが、分からない。


 そんな思考の時間稼ぎなのだろうか。俺は情けなくも、ぽつりと蛇足な質問を漏らしてしまう。


「えーっと。その……あたしの、どこを好きに?」


 恐る恐る、と言った感じの口調で問いかけた俺。

 何故、そんな事を問うのか?


 好きになった部分を聞いてそれを否定して論破でもするつもりだったのか?


 でも、俺としては疑問だった。

 食堂で話があると言われてから、ずっと思っていた。



 この一か月で――俺を好きになる余地なんかあるのか?



 そんな事を言えば、出会ってすぐ結婚を決めた俺達はどうなるのかという話だが、それでも俺達と、三浦のケースは違う。利害の一致や、好きになる必然的要素が仕組まれていたかのように具現した俺達の結婚はともかく、三浦は何故俺を好きになる?


 確かに、恋に時間や積み重ねは関係ないと言う者も居るだろうし、一目惚れを全否定する気など俺にはないものの、好きだという確固たる理由が言えないならばそれは勘違いだと俺は言いたい。そういう裏付けがないのに語られる「好き」を妙に薄っぺらいとか思ってしまう。


 何だか、経験不足っぽい人間の思考だが。


 しかし、俺は聞きたい。三浦の言葉に対してノーしか言えない俺が、返事を差し置いてこんな質問をするのは酷かもしれない。


 ただ、今まで自分を偽ってきた人間が曝け出した本当の自分。適材適所にある、この「優」という存在の何に惹かれたのか……それが、気になったのだ。


「そうだね、それに関してはきちんと明言しておくべくだと思う。そうでないと、きっと君にとっては僕の向ける好意というのは意味不明なものとして響くだろうからね。……まぁ、そうと分かっているならば最初から明言しておけという話だけれど。でも、実の所僕としては好きになった理由を聞かれずに済むならそれが好都合だと思うくらいに、後ろめたい事情を持っているから、そういった好意の由縁に関する説明を省いてしまったんだ」


 バツが悪そうに語った三浦の言葉に、俺は拍子抜けする。


 予測していた筋書きから、逸脱し始めた感覚。

 何だろう、奇妙な方向へ収束していく、この感覚――いや、予測は?


 俺は「何ですか、それは?」と控えた声で問いかけ、続きを促す。


「君にとっては一か月程度の付き合いであるけれど、僕にとっては優さん。あなたが数年来の付き合いであるように思えて仕方がなかったんだ。度々、語っていた『勇に似ている』という言葉が自分に暗示でも掛けたように、隣の席に座る女性が勇であるようにしか思えなくなってきてね」

「それが、どう好きになった理由と重なるんですか?」


 俺はいまいち的を得ない三浦の言葉に疑問を投げかける。


 そんな問いを予測していたのか「まぁ、そうなるだろうね」と言い、眼鏡の位置を修正して三浦は続ける。


「だから、君を好きになった理由は簡単さ。僕にとっての友人、勇。周囲に馴染む事を得意とせず、壁を作ってしまう僕へ積極的に交流を持ってくれた大事な親友である彼に、君が似ているからさ。勇のようなタイプを僕は好んでいて。だからこそ、同系統の君に惹かれていくのは然るべきだと、僕は思っているんだ」


 語られた三浦。それによって確かに理由は把握した。


 しかし。腑に落ちない感覚は消えない。もう、さきほどまで感じていた鼓動の高鳴りは消え失せてしまい、ただひたすらに明瞭にならない三浦の語る理由に懐疑的な感情を得るばかりだ。


 三浦にとって俺が、大事な友人だった。

 それは分かる。

 光栄な事だ。


 でも、親友として好感を持てる人間と、異性に対して抱く好意は別のものではないだろうか。友人と恋人の趣向が重なっていると言われればそれまでかも知れないが、などと思考した瞬間――俺は一つの真実に行き着く。


 いやいやいやいや、そんな奇異な現実があり得るのか?


 思い出すのは一連の会話。


『君は彼氏の一人や二人、いるのかい?』

『人として一人に限定すべきだと思いますけどね。ちなみに、いませんよ』

『そうか、僕もいないんだ。同じだね』

『いえ、それが当然だと思いますけどね』

『そうだね、当然だ』


 もし、この時の俺の「当然」という言葉が彼にとって痛烈な言葉となっていたら……などと思ってしまうのは、抱いた予測に確信を抱いているからだろう。


 そう、間違いない。


「み、三浦さん、もしかして?」


 何を問われているか分かっているのか、三浦は無言で首肯して語る。


 周囲と壁を作りたくなる理由として考えられなくないはないかも知れない。それはある意味で、バレれば生きていきづらい性質で。露呈しないように生きた日々の中で、誰かと仲良くなる事に不得手になってしまった。


 他人と壁を作る要因になってしまった。

 叶わない恋をしないように、誰もを拒絶するようになってしまった。

 そんな彼の、秘密。


「そうだよ。僕はね……同性愛者なんだよ。男しか好きにならない、男。そんな僕が必死に遠ざけて、誰をも想わないように生きてきた日々の中で好きになってしまった男が勇だったんだよ。彼は優れた協調性でこの心に意図も容易く入り込み、必死で壁を作っていたはずの僕が、隔てる事に対して罪悪感を抱くくらいに魅力的だった。好きになった。恋をした。でも、きっと勇にそれを語れば忌避される、気持ち悪いと言われる――とはいえ、そんな事を言う人間じゃないという予感もあった。勇は僕のこの疎ましい限りの性趣向を理解してくれる人間であるように思えた。けれど、かもしれないなんて不確定要素を確かめるためにカミングアウト出来るような事じゃない。第一、今まで誰にも話せなかった事を、もうどう語ればいいのかも分からない。なら、今のままでいいじゃないか、とも思った。幸い、勇は彼女だとか女に興味がある人間じゃなくて。人に好かれる性格なのに、誰かを恋心という意味で好く事はなかった。だから、そういう彼の『彼女』という存在に嫉妬する事無く一緒に居られて、悪くないと思っていたんだ。でも、突如として勇はいなくなった。会社が騒然とした以上に、僕が混乱した。会えなくなるならばこの気持ちを伝えるべきだった? ――いや、それは怖い。でも、この後悔は何だ? そう思考を乱されていた時に、君が現れた。奇しくも同じ名前を有した『優』さんは驚くくらいに勇に似ていて。姿だけを変えて現れたかのような親友を君に重ねて、そんな日々で僕は優さんを好きになった。一か月なんて短い積み重ねじゃない。勇と出会った時からの膨大な想いが行き場を失って、君へと流れを変えてしまった。そして、何より思った。僕は、初めて女性を好きになれた。勇という男を重ねていながらも、女性を好きになった事によって、気持ちを伝える決心が支えられたんだ。あの時、勇に言えなかった全てを、この人になら言えると思った。あの忌まわしい同性愛という趣向を越えて、まともな人間になれたのだと思った。そして、そんな自信を胸に今日、こうして告白をしているんだ」


 熱情的に、そして悲観的でかつ劣情的。


 今までの三浦の発言に伴う冷静さを払拭したような言葉は、驚嘆に値した。


 知らなかった。三浦が今まで、そんな気持ちで俺の隣にいたなんて。でも、嫌だとは全然思わない。俺だって、意味合いは違えど「男性に恋する男性」として生きていた時代があって。だからこそ、三浦の同性愛の痛みは理解出来ると思う。


 それだけの重みを持って好いてくれた事が嬉しいし、これほどの重みを持った好きを裏切るように消えてしまった事を申し訳なく思う。


 ――でも、俺は引っかかっていた。


 まず、俺の中で先行した感情は三浦の告白の意味、彼の本質を知った上での複雑な胸中。彼の思いをどう扱えばいいのか、などという繊細なものではなく――怒りだ。


 昨日、奇しくも似たような境遇である愛衣ちゃんの言葉が俺の中で反響し、背景となり……三浦の言葉とぶつかって不協和音となる。


 不快だと思う。

 だからこそ、許せない。


 愛衣ちゃんも姉が家族でなくなり、同時に女性でなくなるまでその思いは言えなかった。男性になったからこそ「好き」を言えたのかも知れないし、そうならなくてもいつか言ったかも知れない。


 でもあの告白の時に、愛衣ちゃんは自分の趣味を疑わなかった。自分の趣向はおかしいものだから、とか言わなかった。


 三浦のように、自分の趣向を忌まわしいとは言わなかった。

 自分の気持ちを、肯定し続けていた。


 そう思うからこそ、俺はきっと「勇が女性の体のままでもいつか愛衣ちゃんに告白されていた」と考えるのだ。


 そして、そんな思考が俺の中で土台になっているからこそ、思う。


 同性愛者だという自分を嫌う心は分からなくはない。課せられた苦悩を思えば脱却を喜びたくなる気持ちもあるだろう。しかし、それは個人の問題で留めておけば好きなだけ歓喜してくれていいし、同じ性しか愛せない自分を憎んでくれていい。


 だけど――。


 好きなものを素直に好きだと言えなかった事に対する苦悩を強く感じてきた俺にその言葉は良く響かない。


 女性の体となった俺が好都合で告白した。

 妥協できる人間に、代替品になってくれと頼んでいるような?


 男性の体のままだったら、きっと告白してこなかったと、思えてしまうからこそ憤るそれは、過去の自分を見ているからそう思うのだろうか?


 彼と同じだった。

 彼と同じく、好きな人に好きだと言えなかった。


 ならば、そんな過去の自分を重ねて見つめる三浦に対して感じる怒りが正当か不当か、俺の中で判断する間もなく言葉が口から飛び出す。


 俺は「好きなものは好き」を言える人間にこそ心惹かれるのだから。


 だから、だから――だから。


「そうじゃねぇだろ!」


 突発的な叫び。そんな感情の起爆に目を見開き、驚愕する三浦。


 敬いの心も忘れて、ただひたすらに胸中の感情を曝け出した俺の言葉が誰のものであるのかと問われれば間違いなく、今に限っては『勇』のものだった。

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