勇「奇しくも、女々しいけれど」

 起床してみれば友人との約束に遅刻しかねない時刻。


 正午を過ぎており昨日、夜遅くまでネット三昧だった弊害が現れてしまいました。とはいえ、いつものように「休みの日だからといって、ぐうたら寝ているんじゃない」などと、彼女が家を出るくらいの時間に起こされるだろうと思っていたのです。なので目覚ましなども仕掛けておらず、遅刻する所でした。


 まぁ、優がたまにはゆっくり休めと遠まわしに言ってくれているのでしょうか?


 だとしたら、本当に疲れているのはきっと優の方だと思うのですけどね。


 私はこの男性の肉体に入れ替わってから備わっていた基礎体力的な事もあって、以前より疲れを感じなくなったのです。男性である上に、優は自分の好みの異性として仕上げるべく鍛えていたようですからね。有り余る体力に、簡単な仕事――所詮、パートの職務内容と負担、労働時間など知れています。


 一方、優は仕事と家事の両方をこなしてくれているのですから。


 こうして、休みの日を自堕落に過ごしたり、遊ぶ事に必死になっていると時折、言い知れない虚無感を感じる事はあります。罪悪感というか、そう。優に甘えているような感覚に対する後ろめたさ、でしょうか。優は私の「ちょっとした事情」を明言しないまま納得してくれて、そして今の職場で、今までのように生きる事を許してくれています。


 ですから、私は思うのです。


 こんな甲斐性のない状態で求婚した自分の突発的な言動を容認した優も変わり者ですが、それでも軽々しく言う事ではなかったのではないか、と。


 私にはしばらく引きこもっていた過去があり、それはやはり性同一性障害が起因しているのです。誰にも理解されず、打ち明けられない秘密を抱えて一人で苦痛に耐えなければならない日々。


 そんな苦しみを理解し、共に歩ける人物と出会ったあの日に私は思いました。


 ――運命の人だ。

 この人との縁を、手放してはいけない。


 そう思って語ったプロポーズでしたが、優も簡単に了承するのですし、彼女自身が働く事に意欲もあると言っていたために、ついつい収入の少ない旦那である事をずるずると続けてしまっています。


 詳細を語るまでもなく、漠然と暗い過去を察してくれている他ならぬ彼女だからきっと我慢しそれでも、もしかしたら専業主婦として家を守りたい思いもあるかも知れない。


 優に、無理をさせている。

 そんな日常にいつか、綻びが生まれるのではないか?


 そう思うと、焦る気持ちが生まれて、その感情に絡みついて混沌とした心模様を描画するは恐怖心。ちょっとした過去で育んだ足を竦ませる心。未知の環境に出ていくのが怖くなったのは引きこもり、外界との接触を断ったから。


 でも、外界に出なければ、恐怖心は克服できない。


 無限連鎖――悪循環。


 いつか、変わるのだろうか?

 何かが、変わるのだろうか?


 そんな事を思い、竦んだ足を踏み出せない今日をまた日常で塗りたくり、転機も機会もない踏みなれた道を歩き始めるだなんてネガティブな思考をしてしまう。


 背中を押されたい、いっそ突き落とされたい。


 そんな受動的な「変わりたい」心は都合のいい運命や奇跡を祈りつつ、日常を今日も歩いてく。


 いつか、何かでなんて、思いながら。


 ――などと考えつつも、私は家から出て歩き連ねて友人との集合場所に到着しました。今日は珍しくアニメグッズのお店にての待ち合わせではないので、密かに彼らと合流するまでに行えていたアニメグッズを眺めるだの、漫画の新刊をチェックするだの……といった楽しみには勤しめません。


 集合場所はお馴染みの公園。噴水がさらさらと流水の調べを奏でて気持ちが安らぐ――などと考える事もなく飽いたと言える、待ち合わせの定番的な光景。もう見飽きました。大体、二十数年もこの街に住んでいるのですからね。とはいえこの街の象徴的な場所ですから、ついつい誰もが知っている「あの噴水の公園」という事で集合の拠点としてしまうのですよね。とはいえ、今回ここを選んだの私ではありませんが。


 待ち合わせに指定したその人物は公園外、車道を隔てて向こう側で信号待ちをしている例の三人組の一人である彼――只野君です。


 長髪というよりはカットしていないだけという感じの放置し放題な髪に、眼鏡を掛けた細身の少年。何というのでしょう、アニメをこよなく愛する男性像としてはステレオタイプ化した人物です。


 さて、高校からの付き合いだという仲良し三人組のリーダー格である、彼からの誘いにより今日は二人で遊ぶ事になっていました。二人っきりというのは初めての事なので、妙な緊張も胸中に入り混じっています。


 空から降り注ぐ日差しを得意としていない、という点において共通している私と彼は合流するなり、すぐさま屋内を求めてここから最寄りの喫茶店へと向かう提案を受けます。どうせ屋内に向かうならいつものようにアニメグッズのお店で待ち合わせてもよかったのではとも思いますが、どうやら彼としてはそもそも、喫茶店のような言ってしまえば「ゆっくりと話せる場所」を求めてこの集合場所を選んだようですね。カラオケ屋にゲームセンターなど、遊ぶ施設が混在するエリアに存在するアニメグッズのお店から喫茶店は遠いですから、敢えて目印としやすい公園を集合場所としたのでしょう。


 徒歩で数分の所にある喫茶店へ移動し、「そういえば優と初めて会った日、服を買って歩いた後に辿り着いたのもここだった」などと思い返すと、ちょっと懐かしい気分になりました。


 一か月とはいえ、思い出のかさは大した量が積み上がっているという証でしょうか?


 向かい合うように座り、私はココアを注文。只野君はアイス珈琲を頼み、「やっぱり皆、珈琲くらいは飲めるものなのだなぁ」と思いました。きっと、今自分の髭面な外見を鏡で見れば、ココアを注文した自分を恥ずかしく思う事でしょう。


 さてさて、何を話すのやら……などと緊張を携えて数分、提供された飲み物を互いに口へと運び、話題の提供は只野君からでした。


「ずっと前から聞いてみたいなって思ったんだ。勇くんがアニメを好きになった理由みたいなものを。あの時、携帯からアニメの曲が流れたのが縁になったわけだけど正直、意外だと思ったからさ」


 後頭部をぽりぽりと掻きながら、少し臆したように問いかけてくる只野君。


 確かにこんな外見で、身長も高くて声も低い男がアニメを好きだなんてイメージは抱きにくいのでしょうか。そういえば、只野君と初めてあのアニメショップで会った時は、逃げ出さんばかりの勢いで怖がられましたからね。


「意外、ですか。どうでしょうね。私は逆に聞いてみたいです。こんな私がアニメを好きだって趣味を分かちあえた事を、只野君はやっぱりおかしいと思いますか?」

「――いや、思わないよ」


 只野君は強い言葉で私の言葉を否定して、続けます。


「自分の好きな事を否定したり、抑え込む必要はないと思うもんね。どんな人がどんな趣味を持っていようと、誰かに躊躇する必要はないと思う」

「そう、ですかね?」

「そうだよ」


 快活に肯定してくれる只野君。


「僕もよくアニメが好きだって言ったら気持ち悪がられたり、疎まれたりした。僕はそういう言葉を受けるだけで憤りよりも、自分が好んでいるものが気味悪い印象を僕に与えているっていう捉え方に発展する事が悲しかった。



 けど――好きなものは好きだって言いたいよ。



 向かい風を進みたいくらいに好きだって、そういう証明に変えられる。試練だと許容できるくらいに僕は自分の好きなものを肯定したいから。そんな主張は時に、誰かとぶつかってしまうんだよね。でも、そんな衝突を厭わないくらいの熱中ぶりをオタクと揶揄されるなら、いっそ襲名してやる――なんて思う気概が、気持ち悪いのかな? 一生懸命って、気味が悪いのかな? だから、偏見だったのだとは思うけど、勇君はきっと僕とは趣味を違えていて、否定的なんだと思っていた。でも、理解してくれたって事が嬉しかったんだよ。だから、そんな風にアニメが好きになった理由は何なのかなって思ったんだ」


 私は只野君の言葉に、少し自分たちを重ねるような気持ちになります。


 自分達。そう、優と私を。


 好いたものが、よくない印象を自分に与える。そんな事実が悲しいなんて事に、私達は幾度となく自分の欲求を阻まれてきたのではないでしょうか。一番分かりやすい所で恋心を抱く相手。肉体と精神の性が擦れ違っているがために、私達は恋心を抱いた相手の心を手にする事も出来ず、ひたすらに抑え込む日々。


 それでも、彼のように厭わず「好きなものは好き」なんて言えたなら。


 そういえば、優は片思いをした人間に対して怒鳴り散らした、なんて話をしていましたが、その恋心だって叶わないと分かっていて抱いた感情だったのでしょうね。


 きっと、辛かった事でしょう。


 ……それにしても。私が趣味を違えていて否定的だと思った。その先入観は些か、度を越したもののように思えますね。確かに私のような外見の人間に、少しオタクと呼ばれる人間を侮蔑しているような印象を抱くというのも理解は出来なくないですが。


 しかし――それはまるで。


「好きになった理由を答える前に一つ疑問なのですが、私のような人間に趣味を否定された事でもあるのですか? 随分と私の第一印象がアニメ嫌いな感じで話すものですから……何だか、ちょっと引っかかったんですよね」


 私が何気なく問いかけたそれを、只野君は呆気に取られたような表情で受け止めたのでした。


 まるで、信じられないとでも言わんばかりに。


「――お、覚えてないのかい?」

「何をですか?」


 私は驚きと共に投げかけられた只野君の言葉に、ただ問い返すのみ。


 しかし、そんな機械的な返答の裏で私は思考していました。


 覚えていない、という事は本来彼にとっては、「覚えてもらっているはずの事」で。


 そう。奇妙な事ですが只野君と出会う以前から、私は「アニメが嫌い」だという印象を抱かれてたという事。


 奇妙だと、瞬間的には思いました。

 しかし、考えてみればそんな事――全然、奇妙ではないのです。


 覚えていなければならない人間がこの体から出ていき、覚えていない人間がこの体に入ってきたから起きた擦れ違いは奇妙な事ではなく、必然です。


 もしかして――?

 そんな答えを、只野君は口にします。


「確か、僕と勇君は高校以来の再会――だよね?」


 恐る恐る、といった風に問いかけてきた只野君。


 再会という私にとって全く合点のいかない言葉が、奇しくも今まで気付きもしない内に組み立てられていたパズルの最後のピースで。当てはめた瞬間に、私はそのパズルの存在自体を知ったのでした。


 そう。散りばめられていた全てが、具現していきます。


 初めて只野君に会い、彼が「勇」と再会したアニメグッズの専門店であの日、私を見てまず逃げだそうとした理由は簡単です。


『片思いしてた奴のちょっとした一面が気に入らなくて怒鳴り散らした事がある』


 そんな勇の言葉が思い返され、事の真相に容易く触れてしまう私。


 あの日、アニメグッズの専門店で優が私に三人を勧めた事。それはつまり、面識のある人間相手であれば友達として、私と只野君を結び付ける事が容易いと思ったからなのでしょう。反面、別れの気まずさがあるので容易く過去に触れてはこない。私を半ば初対面のように扱わせられるだろうと考えたのかも知れません。


 怒鳴り散らされた相手との再会に彼らが狼狽するだろうという事を勇は分かっていた。でもいざとなれば、携帯を鳴らして、過去の『勇』の印象を払拭すればいい。


 そんな、予定調和。


 だから、彼の事を忘れてなんていません。優は、覚えているでしょう。

 ――ただ私が、知らなかっただけなんですから。


 つまり、助け船によって上手くいった結果も全ては「再会」が原因付けていたという予定調和の事実。


 きっと、勇が「幻滅した」と語っていたように怒鳴り散らされた只野君は、この男性の肉体『勇』にアニメ嫌いの印象を抱いていた。それならば、「どうしてアニメを好きになったのか」と聞きたくもなるでしょう。どうして今になって、という疑問が只野君にはあるのでしょうから。だから今日、苦い過去に触れてでも知りたくなったという事でしょう。


 しかし、その推測で思考していけばこうも言えます。



 本当は――優、あなたは私の趣味を疎ましく思っているという事ですか?



 彼らの間に面識があった、というだけで優の片思いが只野君だと決めつけるのは早計かと思いました。しかし、冴えない外見ですが、後ろ指さされかねない趣味を持っていながら、自分の好きな事を惜しげもなく肯定出来る――私達が羨ましく、憧れないわけがない存在。


 優が好きになったとして、不思議はない人物――只野君。

 私の中で、疑いようのない推測は最早、真実と同義です。


 もっと只野君に詳細を聞けば、揺るぎない真実を得られるのかも知れませんが……しかし、それは優が「アニメを嫌っている」という確証に触れてしまう結果になるのではないですか?


 それを、受け止めるのが怖い。

 茫漠としたままで、いい。

 傷付くのなんて、ごめんです。


 ですから――。


「覚えていないですね。すいません」


 そう語って只野君の懐疑的な表情を引き出しました。しかし、彼にとっても良い思い出でないであろう「優との仲違い」を語らせる必要はないでしょう。


 もしかすると、一人称や口調が違う私に対して、本当に「あの勇」なのかという疑問が只野君にはあって。だから、今日までこういった話題が出せなかったのかも知れません。それならば、別人だったという判断を只野君に与えてもいいのです。


 実際――私は「あの勇」ではないのですから。


 いえ、それよりも。


 アニメを嫌っているという推測が浮上した今、そういった事実を語ってこない優の現状に疑問符が浮かびます。


 ――我慢されているのでしょうか?


 だとしたら、彼女のとる行動として何も不思議はありません。私だって逆の立場だったらそうするでしょう。相手の趣味を、尊重するために。


 私はまた、この一件も胸中に仕舞って先送りにするのでしょうか?


 自分を否定されるのと同じくらい、自分の好きなものを認めてもらえない事は辛くて。そんな傷を背負うくらいなら、優の優しさとも言える我慢。そう、嫌いな趣向を持つ私を我慢する彼女の姿勢に、甘えてもいいのではないか?


 甘えて、甘えて……でも、そんな優の前で私は自分の趣味を堂々と「好きなものは好きだ」と明言できるでしょうか。私達はきっと、そんな発言を出来る人間に憧れている故に好感を持っていて。憧れであるだけで、そうは言えなかったのです。


 優の忌避する趣味を好む私に、そんな発言をする勇気が手に出来るでしょうか?


 何も言われないなら、甘えよう。

 奇しくも、女々しいけれど――と。


 また、そんな事を思ってしまうのです。

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