優「俺は一体何やってんだろうなぁ」

 とりあえず俺はトイレから出ると、ドリンクバーコーナーから優が好むというオレンジジュースをグラスに注いで席へと戻る。


「随分と遅かったねー。いつも自分で行かないから悪戦苦闘するんだよ?」


 夕映の俺を揶揄するような言葉は時間が掛かっていた事に対して都合のよい発言であるが、幾らドリンクバーを他人に取らせる常習犯だったとしてもこれほどの時間が掛かる事はあり得ないだろう。


 そして真奈に対しては極力、本当の事を言っておくべきだろう。

 下手な嘘は危険だと、本能どころか理性までそう言っている。


「ちょっとトイレに行っていたのですよ」


 そして俺はそこから勇に言い渡されていた真奈と夕映への「敬称」についての説明をした。自分で言ったとはいえ、距離を作ってしまった故に敬称を使ったいたのだけれど、また真奈や夕映と呼んでいいのか――そんな発言に対して彼女らは快活に「勿論」と言ってくれた。


 ちなみに気まずさ故に頼みにくかった、という部分でドリンクバーへ自分で赴いた件は消化した。


 しかし、こういう部分を見ていると、俺達の秘密も理解してくれそうなものだけど……まぁ、勇はバレると困る事情があるんだもんな。


 あぁ、それで思い出した。

 俺にはやらなくちゃならない事があったのだった。


「まぁ、そういうわけだから」


 俺はそう言って席を立つとと夕映にも立ち上がるように促し、彼女は「どういうわけですか?」と何気なく問いかけてくる。ただし、詳細に説明すれば普通は忌避すると思われるので、何も言わずに正面から夕映を抱きしめた。


 動揺し、「え? え?」と軽くパニックになる夕映。


「ど、どういうわけですか?」

「いつもやっている事でしょう」


 そう言って俺は頬ずりし、明らかに嫌がっている夕映の頭を無造作に撫でまわすと空港で行われる身体検査のような挙動でうっすらと伴う胸の膨らみに触れる、までの一連をテキパキと業務的に行った。食事をしている人間がこちらを凝視し、奇妙な光景に銀食器を取り落す音さえ響いた。


 うーん。旦那の名誉――いや、不名誉を守るために。

 しかし、俺は何をやってんだろうなぁ……。


 俺が一連のスキンシップを終えて解放すると、夕映は放心状態で「もうお嫁にいけない」と言いつつ背骨でも抜かれたかのようにへなへなと着席した。俺も同様に着席し、咳払いをする。気まずさも払えれば嬉しいのだが、そんな効果はない。


「何だか身体検査のようだね……。昔のように動物とじゃれるようなイメージではなく、何か随分と作業的だったというか――そう、まるで行動だけ誰かに教えられて、その筋道を辿っているような」


 珍しく呆れっ面の真奈は俺と放心状態の夕映を交互に見つつ言った。


 何だよ、動物とじゃれるイメージかよ!


 全く……そういう感じのスキンシップだったのか。言葉だけだと全く伝わってこなかった。日本語って難しいな。勇の「作業」という言葉も紛らわしかったのだろう。


「まぁ、でも変わったという事で言えば話は全く別になるけれど、確かに初めて優に会った時の印象に比べれば随分と変わった。そう思えば、何だか微笑ましい限りだね」


 俺の中に夕映へ対するスキンシップの自己嫌悪が残留する中、不意に――真奈は感慨深そうに微笑みつつ、俺の……いや、「勇」の過去、その片鱗を仄めかした。


 そうだ。確か真奈は勇の先輩だから、あの職場に入った時のあいつの事も知ってるんだよな。もしかすると、この部分を掘り下げるとあいつが同じ職場で働きたいと強く固執した理由が分かるんじゃないだろうか?


 そうしてしまう勇の過去、が。


 そんな事を聞いてしまっていいのか、という問いも俺の中にはある。しかし、やはり知っておきたい。同じ境遇として別々に生きてきた勇の、俺にも言えない闇に秘められた真実にどんな事情があるのか?


「そうでしたっけ? 私、真奈と初めて会った時からそんなに変わってますか?」


 俺が会話を促すように問うと、真奈は首肯して語る。


「変わったとも。理由や事情はよく知らないけれど――確か優は引きこもっていた日々を越えてあの職場へ勤める事になったのだったね。高校にも行けずに外界から遠ざかっていたからなのかな、とも思ったけれど。当時の優は随分、他人と接する事が苦手そうな子だなと感じた」


 そして、真奈は言ったのだ。

 あの頃に比べれば随分と変わった、と。


 真奈の言葉に勇の過去を解き明かす決定的な何かはないが、断片はある。


 ――勇は、高校に行っていない?


 俺がそんな違和感を抱くのも無理はない。実際に俺は勇に教えられて記入した履歴書には確かに高校卒業と記入した。でも、実際に優は高校へと進学せずに引きこもっていた。それはきっと、勇が仄めかした「過去」だ。


 今の非正規雇用としての仕事が精一杯だと語った由縁の、断片として見えてきた一つの謎。


 勇が進学しなかった理由。


 そして、それは他人には言えないものだからこそ、俺に嘘の履歴を書かせた。

 そうする必要があったのだ。


 高校に進学しなかった、なんて言えば理由を問われる。


 考えてみれば、確かにそうかも知れない。高校側は生徒の進路について、それなりに親身に取り組むはずだ。進学しないならば就職先を斡旋するような事もあり、そんな職場に非正規雇用を選ぶとは思えない。


 勇は何故、過去の体の時に正規雇用の仕事をしていなかったのか?


 それは引きこもっていて、社会復帰をするために正規雇用に比べれば比較的労働時間の短いパートを選んだという事か?


 それに、学歴的に厳しいというものもあっただろうし第一に、新卒のブランドを持たない人間が正規雇用を獲得するのは厳しい時代だ。


 そういえば俺がこの体で手にしたものの中に、他人にひけらかせないような資格、漢検と英検がある。中学生レベルの段階で止まっており、自慢どころか恥だなんて思っていたがこんな所に実は露見があった。


 勇が中学を最終学歴としている、事実の片鱗が。


 嘘をつき、俺は奇しくも学歴を詐称した事になる。いや、それはいい。ただ、やはり闇が輪郭を得て具現すれば気になる。


 ならば――勇の抱えている闇が、何なのかを。


 そんな過去を知れば勇に対する接し方に何らかの影響が出るだろうか。発言の要所要所にそういった過去の断片、その見え隠れを感じそうで。でも、本人に確認する事は出来ないもどかしさを感じる事になるのだろうか?


 いつか、本人からそれは、語られるのだろうか?


 ならば、その時には俺もちょっとしたこちらの事情を語るのだろうか?


 そう思いつつ――俺はそれから数時間に渡って真奈と夕映に拘束された。勇の過去に関しては話題が切り替わってしまい、追求が出来なくなった。それは無論、外見を同じくする俺が「私って、昔どんな感じでした?」と問うわけにもいかないからだ。


       ○


 あれから、夕映が実は勇に気があるという話になり、「彼女とかいるのかなぁ?」と独り言のように呟くと、真奈が「優、どうだと思う?」と何故か俺に聞いてくるので「この人、全部知ってるんじゃないだろうか?」とか思ってしまった。


 残念ながら勇は俺の夫で、俺は勇の嫁だ。


 そんな言葉の響きは存外に俺の脳内で好意的に響き、悪い気分ではなかった。ちょっと夕映には悪いが、自分の旦那が誰かに恋心を抱かれるというのは不安でありながらも嬉しい。優越感かもしれない。


 そんな得意げな気持ちで夜道の心細さを打破し、両脇で冷たい光を吐く街灯の連なりに沿うように歩いて俺は帰宅した。


 鍵の掛かっているドアを開き、「ただいま」を言いつつリビングへのドアを開く。


 電気が点いており、先に帰宅しているであろう勇以外の以外の話し声が聞こえるのでテレビの音かと思ったが、何か違うような気もする。


 誰か来ているのだろうか?


 そう思い開いた扉の向こう、リビングから地続きとなって接続されるダイニングにてテーブルを挟んで座る勇と、見知らぬ人物。


 知らない女性と勇が会話している空間に、足を踏み入れてしまった。

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