勇「体を執拗に触っていました」
『お前さん、四十件も電話を寄越してたみたいだけど何かあったのか? 携帯が違うってバレてもいけないと思って電源切ってたんだけど……』
折り返し連絡をくれた優の電話に出た時の第一声がそれでした。
例の友人達とカラオケに来ている私は気が気でなくて何度も電話を掛けたのですが、何故か電源を切っていた優。その理由は第一声によって理解しましたが、私は何となく予感していました。
きっと、手遅れなのでしょうね――と。
なので、私の胸中は時間の経過と共に焦燥感が虚脱感。つまり、諦めに近い胸中に代わっていくのを感じていました。
「何かあったのかって、それはこちらのセリフです。私の推測では、真奈や夕映が優の事を訝しんだような視線で見つめているのではないかと思うのですが……どうでしょう?」
現在、突如鳴った電話のため私はカラオケ店のトイレの個室に籠って応対しています。電話の向こう側の静けさを考えるに、優も同じようにしているようですね。
『そりゃあ、俺も完璧にお前さんの態度を演じられるわけじゃないしなぁ……とはいえ、久しぶりにあったぎこちなさだ、っていう風に解釈されれば大丈夫じゃないかって思うけどなぁ。まぁ、確かに話し方がちょっとおかしかったのか、お前さんが言うように疑うような視線は向けられてたけど』
優の言葉に対して私は「確かにその通りだ」と思います。
他の人は知りませんが、少なくとも私は久しぶりに会った人間に対して、しかも仕事の関係上、後ろめたさを感じている相手に対して平常時のように喋る人間ではありません。多少、普段と違う口調の方がリアルなくらいかも知れません。
でも――そこは問題じゃないんですよね。
「ちなみに疑うような視線を向けられた時、どんな事を言ったんですか?」
『再現できるかなぁ? 疑うような視線を向けられた時は確か「きちんとした収入を得られる職場で働かなければならない理由が出来てしまったので、みんなには迷惑を掛けたとは思いますが、唐突に辞める結果となったしまったのです。本当に、真奈さんと夕映さんには何とお詫びしたらいいか」って、仕事を辞めた理由を聞かれたから答えたんだけど――何だ、勇はこういう事は言わないタイプだったか?』
優は思い出しながら言ったせいか、少したどたどしく語りました。
しかし、優はイントネーションや内容を確認するために再現させたと思っているようですが、そっくりそのままその時の言い方をこの電話を通じて再現出来ているかが問題ではありません。
寧ろ、優が真奈と夕映に語ったその文章に含まれる「余計なもの」が問題なのですから――。
「他にもそういった反応を感じた瞬間はありますか?」
私がそう問いかけると、優は「えーっと」と言って唸り声と共に必死で想起に励んでいるようです。
『確か、仕事を辞めた理由を明言したくなかったから、はぐらかした時に「やはり、いくら夕映さんや真奈さんといえど、少し話しにくいですね。友達である二人には話しておきたいのですが、口にして説明するのも憚られるようなものですので」って、重たい事情を仄めかして、触れづらくした時も疑われているような挙動を見た気がする』
「なるほど……それで全部ですか?」
『えーっと。あとは、身の上を語り終えるまであの二人に質問攻めされて、注文してたドリンクバーを一杯も飲んでなくてさ。っていうか飲む気もなかったんだけど。……まぁ、この辺は後で説明するけど、それに対して真奈さんが「すまないね」って気遣いが出来てなかった事を謝って、飲み物を取りに行くよう促してくれたからさ、その時に「気遣いありがとうございます、真奈さん。それじゃあ、ちょっと取ってきますね」って言った瞬間も、そういえば怪しまれていたような視線を感じたな』
優は一頻り回想を終えたのか「感じたのはそれくらいかな」と言って締めくくったのを合図にするように、私は嘆息します。
電話の向こう側に居る優に露骨に聞こえるように。
まぁ、優が悪いわけではないのですけれど。
「優、今ので分かりました。夕映はどの程度怪しんでいるか分かりませんが、真奈はきっと違和感を確信しています。まるで『優自身ではない人間と話しているような』という感覚を、抱いているでしょうね」
『そうかなぁ。でも、真奈さんは確かに鋭そうな人だけど、結局は外見が同じなんだから怪しんでも、そこまでだと思うけどな。それこそ、真奈さんも夕映さんも「久しぶり故のぎこちなさ」で済むんじゃねーのかよ?』
「同じ外見だからこそ――怪しむんですよ」
私の言葉に「え?」と短く疑問の言葉を呟く優。
まぁ、仕方はないのでしょう。優にとっては真奈と夕映は初対面。そんな彼女らに対して慣れ慣れしく接するなんて事は、常人ならば気が引けます。そりゃあ、世の中には相手との距離を短時間で縮める事を得意とする人種はいるでしょうし、優も誰かと交流する事は比較的得意としている人間でしょうけれど――社会人である優が、礼儀を持って生きていく社会で培った作法は演技をするからといって、簡単に抜けるものでしょうか?
初対面の人間に、片方は年上の人間に対して――。
「優はやっぱり真奈さん、と呼んだのですよね?」
『どういう事だよ? それがいけなかったってのか? 苗字で呼ばなきゃならなかったってんなら、そう教えといてくれよ』
「いえ。私も名前で呼びますよ。さっきからあの二人の事――私、どう呼んでます?」
そこまで言ってようやく「……あ」と疑問が氷解し、溶けだした真実の放流に飲まれるが如く自分の置かれている現状、作り出した違和感を自覚したであろう優。
「敬称を省く、という事をしなかったのが優の失敗です」
そう――親しい人間からの敬称を忌避する真奈の流儀。それを伝える前に電話を切られてしまったので、私は必死に優へと電話を繰り返していたのでした。
真奈でなくともその違和感には引っ掛かりを持つでしょう。
勿論、夕映も同様に。
ですが、優の反応を聞く限りでは真奈は「敬称を省く事」についての指摘をしていないようですね。何故しないのか、という疑問に関しては明確な判断が出来かねますが――しかし、この状況はどうやら打破のしようがあるようですね。
何せ、優は重たい身の上で仕事を辞めた事になっているようですからね。
「ならば今からこうしましょう。身の上を語り終わったのならば、もう暗い雰囲気は払拭すべきだという流れに持ち込めます。ですから、そこで『暫く合わなくなった気まずさで距離を感じて、さん付けだったのですけど……また真奈、夕映って呼んでいいんでしょうか?』と言うのです。それで敬称込みで呼んでいた事実を無理やり理由付けしましょう」
私の提案に優は「なるほどな」と納得し、ほっと一息。
もしかすると胸中で自分の巻き起こした「過去の優という人間像」との矛盾を打開出来そうで胸を撫で下ろしているのかも知れません。
しかし、彼女はそれと同時に一つの疑問も抱いたようでした。
『たださ。あの二人はお前さんが性同一性障害で、入れ替わったって事実を知っても受け入れてくれると思うんだよな。寧ろ、カミングアウトした方が喜んでくれるくらいな気がする。俺達の入れ替わりってのは結局、「入れ替わったのに戻りたがらない。入れ替わりを問題として重要視しない理由が、バレれたくない性同一性障害によるものだから」って所に起因してる。ならさ、この障害を受け入れてくれそうなあの二人になら秘密にする必要なんかないんじゃないか?』
優の真剣な語り口調で私に説いた言葉。
正直、驚くべき発言でした。
私達にとって家族にも出来なかった「性同一性障害」のカミングアウトは最早、意識外にあるといっても過言ではない行い。ですから、恐怖心や抵抗で無意識に遠ざけていた「それ」はなかなか発想しづらいのです。
凄いですね、優は。打ち明ける覚悟が――芽生え始めているのですか。
受け入れてくれる相手になら、語ってもいいという判断は真理です。話せば楽になるという言葉通りに秘密を抱える辛さから解放されます。
でも――。
「受け入れてくれるという確証は、どこにもないんですよ?」
『まぁ、その気持ちは分かる。他ならぬ俺だからな。でもさ、受け入れられない理由もないんじゃないか? こういう障害を忌避しているような感じの人じゃないっていうか、差別する感じの連中じゃないだろ?』
優の言っている事は正しいのです。
この短時間に真奈と夕映の事をよく見抜いているな、と感心してしまいますが、そこは私しか知り得ない事実があるのです。
カミングアウト出来ない、理由が――。
「やっぱり出来ませんよ。受け入れられない可能性を孕んだ理由なら、ありますからね」
『……あ、あるのか?』
優にとっては私の返答は意外なものだったのでしょう。少し戸惑ったような反応をする彼女でしたが、私も「この理由」を語れば納得されると思います。
嘆息し、少しの間を置いて――。
「私は元々は女の体でしたが、今は男の体です。つまり、入れ替わりをカミングアウトし、性同一性障害を告白するのは昔、女の体の中に男の精神が入っていたという事実を知らせる事になるわけですよね?」
『……まぁ、そうだな』
続きを促すように短く肯定した優。
ならば語るとしましょう。
私が――彼女らに告白出来ない、理由を。
「私は女性の体であるのをいい事に――夕映の体を執拗に触っていました」
『うわぁ、最低だな』
そう語って、優は絶句してしまいました。
電話の向こうからは何だか、軽蔑するような視線さえ感じる気もしますね。
まぁ、それはともかく。私も男性ですから、女性の体には興味があります。しかし、自分の体を触って喜ぶ感覚は流石にありません。他人となった「元自分の体」は別ですが。そんなわけで、同性同士の免罪符というわけではないですが、堂々と臆面もなく夕映の体をスキンシップとして触っていたのです。時には真奈だって例外ではありません。
そんな行動全てが男性の所業だったとバレてしまえば最早、友情なんて脆く崩れ去りますよ。ええ。
とりあえず私は、咳払いをして会話を仕切り直します。
「このまま、優はひたすらに私を演じて下さい。敬称の件が解決したら、久しぶりで感化極まったとでも言って夕映に抱きついて、頬ずりして、あわよくば舐め回して、胸を擦って下さい。そうでなければノーマルな優とは言えません」
『いや、十分にアブノーマルだろ。お前さん、いっつもそんな事してたのか?』
「私にとっては平常運行なのですけどねぇ……スキンシップとしては緩い部類ですよ?」
『間違いなく脱線してるぞ』
優の痛烈に批判する強い口調が耳に刺さりますが、それでも忠実に再現するためにはそのくらいの過剰なスキンシップは必要でしょう。正直、優としては「何で同性に抱きついたり、頬ずりしたり、あわよくば舐めまわして、胸を擦らなければならないのか」という話でしょうけどね。
あぁ、そういえば――。
「ドリンクバーの件。何だか飲みたくなかったって言ってましたが、どういう意味ですか?」
私の言葉に思い出したのか「そうだった、そうだった」と想起を口にする優。
『お前さんがいつもドリンクバーで何を飲むのか分からなかったからさ、取りにいけなかったんだよ。夕飯の事を踏まえれば食べるわけにはいかないし、でも注文せずに店に居るのも悪い。そこに真奈さ……真奈からドリンクバーを取ってきたらどうかって言われたもんだからさ』
優の言葉に私は引っ掛かりを感じました。
何を飲めばいいか――という事を疑問にする理由が瞬間的に分からなかったのです。先輩後輩の関係で形成されたあるルールがあるので。
でも、確か優は言ったのでしたね、「気遣いありがとうございます、真奈さん。それじゃあ、ちょっと取ってきますね」と。
その言葉を聞いた時に、気付くべきでした。
「その時、きっと真奈は結衣の方を見ながら言ったのではないですか?」
『えーっと……確かにそうだな。何か気遣いが出来なかった恥ずかしさを隠すみたいに夕映の方を向いて言ってたけど、それがどうかしたのか?』
優はあっけらかんとそう問いかけました。
その言葉に私は何度目かの嘆息をします……というか、してしまいます。
それは恥ずかしさを隠して夕映の方を向いたのではないのです。優に気を遣ったのでもないのです。優へ気を遣わせたのです、夕映に。
「私達は先輩後輩の上下関係から生じたルールの一つにドリンクバーは後輩が取ってくる、なんてものがありまして。もしかすると真奈に仕掛けられましたのかも知れません」
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