優「いや、どこ見てんだよ」
『今日は友人と遊ぶ約束があるので、帰りは遅くなります』
――という共に歩んでいた出勤ルートで各々の職場へ向かうため別れる瞬間、勇が言った一言が妙に頭に残っていた。
きっと友人というのは、あのアニメグッズの専門店で俺が助け船を出した事によって縁が生まれた三人組の事だろう。確かに俺が助力した。それは勇に共通の趣味を持った友人が出来る事を俺も望んでいたからで。勇の悲願が達成される事を祈っていた……はずなのに、何だろうか。
この妙に崩れた俺のご機嫌は。
確かに俺はアニメというものが得意じゃない。テレビドラマや映画は見るけれど、アニメを受け付けない理由は端的に言って、空想的なもの苦手だからだ。実写の限界を超えた表現に手を伸ばせるからといって、何をやってもいいという事にはならない。表現の自由で苦しめられる人間だっている。
ただ、そんなアニメを好む連中と付き合っている勇に対して、不服な感情を抱いているとか。俺の胸中はそんなに明瞭なものだろうか?
何というか、腑に落ちない。
なんだか、あり得る事ではないが勇と関係するようになった、あの三人に彼を取られてしまうような奇妙な感覚。そんな訳はない。俺は勇と婚約しているのだから、杞憂に終わるはずの心配。でも、不安だからこそ勇が遊びに行くと告げた言葉を何度も脳内で繰り返し、その中に何らかの感情は込められていないか。言葉以上の何かがないか――そう、繰り返し探してしまう。
……はぁ、よくねー傾向だな。
とはいえ、勇とは休日が業種の関係もあってか重ならない。一緒に居る時間が減るのだとしたら、それは何だか寂しい事だとは思う。まだ、この生活を初めて一か月。新しく出来た友人に塗り替えられて、自分と居る楽しさは掠れてしまったのではないか?
そう、思ってしまう。
だから、朝――少しでも勇と話したくて、時計を見て見ぬふりしてしまうのか。
うーん。そんな風にして時間を無理に作るのも良くないし、そうだなぁ……明日の夕食は勇と二人で外食というのもいいかも知れない。
――などと、思考している俺は現在、仕事の休憩時間中。正午である。
社内の喫煙所に設置された自販機で飲み物を買おうと足を運んだ所だった。俺は基本的には無糖の珈琲しか飲まないので、購入に迷いはない。硬貨を自販機に投じて、目当ての商品を買う。そんな昔の体の頃も日常的に行っていた行動。
その一連の動作がもたらした想起なのか、ふと俺は気まぐれを起こす。
「三浦にも買っておいてやるか」
本来ならば先輩であり呼び捨てしていい立場にない俺だが、昔の体から考えれば同輩だ。本人が目の前に居ないと、ついつい彼の名を呼ぶ時には敬称を省いてしまう。
そんな彼とはこうして缶珈琲を奢り、奢られる通例があり果たして両者共、同じの割合で奢り合っているのかは定かではないものの、お互いに細かく気にはしていなかった。自販機に赴いた方が買ってくる。そんな暗黙の了解を思い出したので、何となく俺の手はもう一本、缶珈琲を買い求めるべく硬貨を投じる。
懐かしいなぁ、などと思いながら自分のデスクまで戻る。隣の席に座っている三浦は常に弁当を持参し、それを特に美味しそうという事もなく食していた。
彼はどういう理由か、殺風景なオフィス内で昼食を食べると決めているようなので珈琲を買って渡しそびれる事はまずない。あまり群れる事が好きではない彼としては、こういった空間で排他的に弁当を黙々と食べる方がいいのだろうか?
しかし排他的、か――と思う。
三浦を語る上で伴うその要素。彼には人間嫌いっぽい所があるようで、初めて会った時には、隣の席なのだからと必死に声を掛けてアプローチし、ようやく心を開いたという経緯がある。
まともに会話を成立させるまでは無視されっぱなしだったんだよなぁ……。
「三浦さん。よろしければこれ、差し入れです」
同輩に敬語を使っている、という違和感を感じつつ俺は極力絞り出せる愛想を込めて三浦に缶珈琲を手渡した。気遣いの出来る女性像を踏襲したい思いもあって、俺はちょっとノリノリだった。
ただ正直、無視される可能性もあるかと思った。三浦にとって今の俺は心を開いたあの時の「勇」ではないからだ。
しかし――。
三浦はこちらを一瞥すると目を見開いて驚愕し――何故か、餓えた人間が久方ぶりの食事にでもありついたかのように俺から缶珈琲をひったくる。そして、手に取った缶珈琲のパッケージをじっくりと見つめると、今度は俺に視線を移し、また缶珈琲と交互に視線を送って、何かを確認しているようだった。
正直、そんな挙動を示す三浦に俺も驚愕してるっつーの。
俺は三浦の奇行に対して呆気に取られたような表情で佇み、彼を見ていた。すると、俺の異質な存在に対して畏怖を抱いて見つめる態度を察したのか、気まずそうに視線を逸らしながら咳払いを一つ鳴らした。
「君は随分と勇に似ているね。例えば……そう、筆跡は彼と相違ないくらいに酷似しているし」
「そ、そうですか?」
「声の高さは違えど、喋る時のイントネーションや、言葉を連ねる時の間は全く同じだ」
「よ、よく聞き分けてますねぇ」
冷や汗ものの問いかけに俺は目線を三浦から逸らす。
そんなの聞き分けられるとか常人じゃねぇ。
「椅子に腰掛けた時なんか、お尻がクッションに触れる位置も同じだね」
「いや、どこ見てんだよ」
ついついタメ口になってしまう俺。
しかし、俺の咎めるような視線をもろともせず、三浦は淡々と続ける。
「加えて、社のパソコンをすでに二台もお釈迦にしてしまう機械音痴。そこに来て、この珈琲だ」
三浦は意味深げにそう言うと、俺に缶珈琲を注視させる。
三浦の人並み外れた観察眼にはただただ、驚くばかりだが確かに今までに挙げられた要素は俺が本当は「勇」に似ていると語るに値する要素だ。しかし――珈琲に関してはさほど、俺の本質を指し示すような要素は含まれていないように思う。
そして、そのような疑問の答えが三浦から明かされる。
「この世の中、数ある飲み物の中からまず珈琲を選び、そしてこれまた同じく数多の珈琲メーカーの中からこの企業の商品をセレクトした。これは偶然ではないだろう?」
三浦の質問で俺の中での疑問が氷解する。
なるほど、三浦的には彼の好みの珈琲を的確に買ってきた事に、「勇」との一致性を見出して、この質問という事か。
でもなぁ――。
「あの自販機、その企業の珈琲しか売ってませんけどね」
「そう、必然性が生じているんだ」
三浦は明らかに意味のすり替わっている必然性を、堂々と肯定した。
俺が「勇」に似ていて、珈琲のメーカーもばっちり彼の好みに合わせてくる必然性を語りたかったのだとは思うが……三浦って案外、抜けてるのかな?
まぁ、最近は多企業の商品を扱った自販機もあるみたいだけど。
「そして尚かつ、僕の好む『微糖の珈琲』を購入してきてくれたという事実。……ただでさえ数多ある飲み物の中から選んだ珈琲のしかも、微糖をわざわざチョイスするだなんて偶然の重なりとしては出来過ぎていると思うんだけどね?」
三浦の言葉についつい彼の好む「微糖」を購入するというミスを犯した――そう、瞬間的に焦燥感を抱く俺だったが、そんな焦りはすぐに払拭される。
「ですが、あの自販機には『無糖』、『微糖』、『カフェオレ』の三種類が売っていて、あたしとしては間を取って、という普遍的な考え方で選んだのですが?」
俺は先輩に対して苦言を呈するように言った。
「ふむ……そう言われてしまえば、確かにそうなんだが」
何故か不服そうに、しかし渋々納得したとばかりに三浦は俺の言い分を認めた。
正直言って、嘘なので罪悪感がない事もない。
俺はつい癖で、三浦の好む微糖を購入した。それは間違いない。
しかし、妙に「勇」に似ているという部分にこだわってくる三浦である。外見のお陰でどれだけ似ていると勘繰られた所で真実が発覚する事はないと思われるが、何だか三浦の言動は俺が「勇」である事を知っていて、勘ぐっているようにも聞こえる。
もしくは――俺が「勇」とは別人と理解しつつ、無理難題ではあるが「勇」であって欲しいと願っているかのような、言動。
「もしかして三浦さん、あたしとその『勇』さんを……重ねちゃってます?」
俺の問いかけに、冷静沈着なイメージを揺るがせない三浦の挙動としては珍しく体をびくんと反応させ、瞬間的に「あぁ、図星だな」と悟らされる。
再び気まずさに目線を逸らしてしまう三浦。
「もしかしたら、そうなのかも知れないね。『優』さんには失礼な話だろうけど。何だか、自分の目の前に――そう、そこに『勇』が居るような気がしてしまってね」
そう語って、三浦は俺を指さし、少しだけ無表情に固まりきった顔を切なげな、壊れ物のような繊細な表情で曇らせた。
確かに彼にとって大事な友人である、「勇」に会えなくなった事は衝撃的だっただろう。同じ仕事場に入る際の不都合を考えて携帯番号とメールアドレスは変更しているため、連絡は突如として取れなくなったように彼は感じているはず。
仕事を辞めても、自分との関係は続いて欲しいと三浦が願ったとして。音信不通になった現状を彼はどう思っているだろうか?
裏切られた?
見捨てられた?
そんな高尚で卑劣なものではなくて、非科学的な現象によって俺の悲願が達成され、文字通り生まれ変わったのだが……俺はその幸福の対価として大事な友人を傷つけているのではないだろうか?
そして、面影を残した同じく『優』という名を持つ女性が現れ、似た挙動、習性を見せられて。『勇』なんじゃないか、と思う事は正当な思考だ。
彼が、失った友人を想っているなら――その目にはきっと『勇』が映る。
「その『勇』って人、よっぽど仲が良い友人だったんですか?」
俺は反則気味だと思いながら、問わずにはいられなかった。
いっそ、あんな奴は友人じゃないと言ってくれれば。そんな思いもあったが、俺はそれ以上に、裏切った罪悪感を抱えてでも彼に言って欲しかったのかも知れない。
「あぁ、友達だよ。大事な……友達さ」
寂しそうな、そして――何かの思いを噛み殺すような風に言った三浦。
それ以上、踏み込む事を許さない秘めた思いを守る姿勢は奇しくも――彼が排他的な意味合いで作り出す周囲への壁とよく似て、冷たいものだった。
そんな彼を見ていると、思ってしまう。
もしかしたら、三浦はこの「性同一性障害」を受け入れてくれるかも知れない。そうであるならば、入れ替わりを隠す必要なんかないのだ。そして、女性の体に女性の精神――後ろめたさの無い、今の俺ならばカミングアウト出来るんじゃないか?
それは、三浦のためになるのではないか、と――。
そんな風に、思えなくもない。
入れ替わりというのは、そこまで神経質に画すべき事象ではないように思えるのだ。
とはいえ、分からない――三浦は胸に何を秘めているのか?
そんな胸中を代弁するかのように――彼のデスクの上にはその日、未開封のまま微糖の缶珈琲が飾るように置かれていた。
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