【3】ナルシスト夫婦は悠々自適

勇「私を殺す気ですねぇ」

 入れ替わりを果たしてから一か月が経ち、六月。


 私達も新しい生活に慣れた頃で、今までの自分達に出来なかった事に挑戦したり、今までの自分達がしなければならなかった事から解放されたりと、それなりに充実した生活を送っていました。まぁお互い、両親に対していつしか告白しなければならない秘密を抱えているという引っ掛かりもあるのですが――逃げているわけではありません。


 いつか、向き合う時が来るのでしょう。


 入れ替わりという非日常の浮いたような色合いも随分と私達の日常に調和してきた日の朝。実は朝に強いタイプだった優に起こされ、眠い目を擦りながら起床した私。


 夜更かし大好きなものでして睡眠が足りていないのですが、「あと五分」を許してくれない優に対して、お布団の中で籠城を決め込もうものならば物理的な制裁が飛んできますから、そこは体に鞭を打ってでも起床せねばなりません。そういった攻撃に発展するというのを知覚している時点で、過去に私がそういった制裁を受けた事は言うまでもないでしょう。


 さて、婚約したとはいえ寝室を同じくせず、互いに私室を持って、寝起きをしている私達。優は起きればさっさと布団を敷きなおして部屋を出るそうですが、私はまずパソコンの電源を入れます。メールや行きつけのサイト、日々閲覧しているブログの更新チェックは朝の内にやっておかないと、妙に仕事中そわそわするんですよね。


 まぁ、メールに関して言えば携帯に集中しますし、その肝心の携帯の方にもメールマガジン程度しか送られてこない現状、ましてやパソコンになどろくなメールは入って来ないのですけれど。


 ちなみに、迷惑メールが私の受信ボックスの大半を締めているのですが、あの迷惑メールというのはどういった人間が文面を考えるのでしょうね。有名芸能人の名を語って「会いませんか?」などと送られてくるメール文を読めば、書いた本人に「あんたはこれで騙されるんですか?」と聞きたくなってしまいます。


 でも、なくならないという事はやはり、被害に遭っている人がいるという事でしょうか。だとしたら、何故接点もない有名芸能人からの誘いに疑いを持たないのでしょう?


 あぁ、そういえば我が家には疑いを持たなかった人がいます。


 まぁ、優なんですけど。


 こういった迷惑メールを私はマメに消去するタイプなのですが、文面を面白がって時々読んでしまいまして。そんな時に偶然、何らかの用事で優が部屋に入ってきてしまい、私が「ノックくらいして下さい」と言う前に、有名芸能人からの誘い文句を読んで「お前、俺というものがありながら!」とベタなセリフと共に、履いていたスリッパで後頭部を殴打されました。


 私が有名芸能人から誘われる事に疑いを持たないという点において、優に褒められていると解釈するのは曲解かも知れませんが、随分と暴力で訴え過ぎです。短絡的です。


 などと思考もそこそこに切り上げて、私は部屋を出ます。リビング、ダイニング、キッチンと地続きになった空間に、美味しそうな匂いが漂っていました。ダイニングにはバーカウンターのような隔たりが設置されており、私はそこからキッチンの内部、こちらに背を向けて朝食作りに勤しむ優の姿を見つめます。彼女が遮って調理している内容は見えないものの、こういう起きたらキッチンで女性が調理してくれているという光景は最高だなぁ、とか思います。


 あわよくば後ろから抱きついてしまいたい衝動に駆られますが、意外に身持ちの固い優はボディタッチを忌避しがちなので止めておきましょう。きっとまた熱したフライパン片手に追い回されるので。


 私は調理に関して手伝える事が何もないので、ベランダの方へと歩み寄ってカーテンを思いきり開きます。遮られていた朝日が隔たりを失い、その輝きは室内まで差し込む――そんな緩やかな朝の到来を象徴する日差しを全身で浴びつつ、背後で私の朝食を作ってくれる愛妻。珈琲でも片手に今日という日のささやかな幸せと平和を祈る、そんな穏やかな朝を――まぁ、迎えられるわけないんですけどね。


 眩しい日差しを恨めしそうに睨みつけると勢いよく、開いたカーテンを閉ざして朝日の侵入を妨害します。


 そもそも私、太陽嫌いですし。


 ちょっと優の新妻感に触発されて、清々しい朝と素敵な旦那像を演じてみましたが私には不向きです。夜と月光が何より好きで、珈琲よりも甘いココアが大好き。


「あー、今日も日差しが私を殺す気ですねぇ」

「お前さん、それ毎朝やってるな」


 声に対して振り返ると、優は出来たばかりの朝食をダイニングテーブルに配膳しながら私を呆れたように見つめていたました。


 それにしても優のピンク色のエプロン、可愛いですねぇ。仕事着であるスーツの上からエプロンという組み合わせは最高だと思います。


 鬼に金棒、火に油ですよね。

 えらく攻撃的な表現ですが。


「幸福な朝に日差しはつきものかな、と思ってですね。でも、やっぱり私は夜が好きです。……あ、今のセリフですけどちょっとアダルトな感じが滲み出てましたよね?」

「徹夜してゲームしたいだけだろ、早く寝ろっての」

「あー、何ですかそのオカン的な発言は。優は将来、子供に対してゲームのプレイ時間を決めて、守らなかったら電源切っちゃうタイプの母親になりますね」

「いや、そもそも電源とか分かんねーから、コンセントから引っこ抜く」


 何故か、自分の機械音痴を堂々と誇示するように言う優。

 それにしても引っこ抜いちゃ駄目なんですよ。本当に、壊れますから。


「とはいえ、夜を愛するっていうのはアダルトな男な感じがして何か格好いいですね。『今夜は寝かさないぜ?』とか言っちゃったら優、どうしますか?」

「その代わり、お前さんを一晩かけて二度と眠れない体にしてやるぜ」

「きょ、恐怖支配!」


 と、表情を引き攣らせつつも私はダイニングのテーブルを挟んで優と向かい合うように座ります。優はエプロンを外し、所定の位置へとかけてから座りました。そういう「元あった所に戻す」という言うなれば「几帳面さ」が優にはあります。トイレの紙は三角に折ってあったり、リモコンはテレビ前のテーブルにエアコンなども含めて各種整列させられていたりと、男性ならば鬱陶しい事この上ないその性格も、女性なら丁寧な人として許容出来るから不思議です。


 ちなみに優曰く、そういう几帳面な癖は入れ替わってから生じたのだとか。女性故とか、血液型とか影響があるんですかね。


 とまぁ、そういった思考はさておき――。


「何で優だけ目玉焼きがあるんですか!」


 私は不服そうに優の朝食とを見比べて、声高に訴えました。


 本日の朝食はバターが溶けて表面がてらてらと食欲をそそる光沢を作り出しているトースト。あ、そういえば勇はバターを事前に塗って提供する派なんですねよね。セルフでもいいのに。話が逸れましたね。加えて、炒めたベーコンとソーセージ、純白の食器に彩りを添えるレタス、カットトマトと、優だけ目玉焼きがあります。


 さてさて、私の個人的な目玉焼きにおける怒りは一旦置いておくとして。正直、笑い出しそうなくらいにありがちな朝食ですね。漫画でしか見た事ないです。


 優はトーストを一口頬張ると、めんどくさそうに答えます。


「目玉焼きの調味料で争わなくて済むだろーが」

「こんなの武力制圧ですよ!」

「うるせーなー。お前さん、その体が卵アレルギーだって忘れたのかよ?」


 優の言葉で私は抱いていた怒りが急に解けて、寧ろ忘れて騒ぎ立てていた事に対して恥ずかしささえこみ上げてきました。


「た、確かにそうでした。……で、でも! 卵アレルギーだからといって、私から目玉焼きを取り上げるのはどうでしょうか。それではただのマイナスではないですか!」

「そもそもお前さんの朝食がデフォルトで、俺の目玉焼きはプラス要素。だから、お前さんは食事を減らされたわけじゃない。分かったか?」

「なら、単純にそのプラスがずるいです!」


 私は優の減らず口に対して、彼女を指さして猛抗議。


「でも、お前さんにはトーストを二枚用意してるじゃないか。それで対等だろ?」


 優に言われるがまま確認すると、トーストは斜めにカットされていました。

 斜めとか、随分とお洒落です。


「あ、ホントですねー……って、一枚を半分にカットしてあるだけでしょーが!」


 テーブルを軽く叩いて立ち上がり、私は優に対して責め立てるように言いました。


 一方、優は私の荒ぶる様に至極、鬱陶しそうな表情を浮かべています。


「分かった分かった、今回は確かに卵アレルギーって事を理由にしてお前さんの朝食を一品抜く口実にした俺が悪い。ただな、お前さんが料理に非協力的だってんだからこっちとしては不公平に対する反逆って意味もあんだよ!」


 立場逆転とばかりに自分の罪を認めた途端に強気に責めてくる優。


 いや、いつも思いますけど、自分の罪を認めて後ろめたさを払拭してから攻撃してくる人って強いんですよねぇ。……って、関心している場合ではないですね。


 しかし、私には反論の余地がありません。


「い、いや、料理は苦手っていうか。確かに私の父が料理人ですから優の期待も分かります。しかし、私の料理の下手さはとんでもないですよ?」


 何を自慢げに言っているのだろうとか思いますが、全ては私の料理技術の拙さを誇示して、美味しい料理を優に作ってもらうためです。


 まぁ、ならば専業主婦にしてやれって話ですけど。

 甲斐性なしですから。


「とんでもないって? 何か、漫画みたいに鍋を爆発させたりとかか?」

「確かに伝わる表現ですが、優は一体どんな漫画を読んで育ってきたんですか」


 優の言葉に呆れた表情と声で語る私。


「違いますよ、もっとリアルにダメージのある下手さですよ」

「どんなだよ?」

「パラパラしていない炒飯を作ってしまうとか、卵焼きの予定が結果としてスクランブルエッグになってしまう、とか?」

「しょぼい!」


 優は声を大にして私の料理の技能に対する正しすぎる評価を下しました。


 そう。私、面白おかしい失敗はせずに、「若干まずい」くらいのものを作ってしまうんですよね。ですから、いっそ優が言うように鍋でも起爆してくれた方が面白いのですが。


 どうも地味なんですよね。派手なのも困り物ですが。


「ちなみに、『料理のさしすせそ』の『味噌』にまだ納得出来ていないくらいに料理は不慣れです」

「いや、それは俺も納得出来てない。何で味噌だけ頭文字じゃねーんだろうな」

「あと、カレーうどんは『うどんにカレーをかけただけ』というベタな勘違いはしなかったものの、本来のカレーライスよろしく『カレーとうどんを別の皿で提供したもの』だと思ってました」

「それじゃ、ただのカレーとうどんじゃねーかよ」


 食事中にもふざけた会話が止まらないなんて自分達はどれだけ仲のいい夫婦な事か、などと思っていましたが――ふと壁掛け時計を一瞥すると私の心臓は飛び出しそうになります。時間が止まったような感覚がしたなどという表現がありますが実際、そのようになって欲しいと思う状況。


 何故なら。


「えぇっ! もうこんな時間っ! 遅刻しちゃうじゃないですか!」


 素っ頓狂な叫びに似た声で狼狽を口にする私。


 時計が指し示す時間は普段、私が出勤のために家を出る時刻をとっくに過ぎていたのです。遅刻を自覚した瞬間の時計というのはやはり、二度見してしまいますね。何度見たって状況は悪化する一方なのですけれど。


「朝食に文句を言った罰が当たったな」


 意地悪そうな笑みを伴わせて揶揄してくる優。

 しかし――。


「優もゆっくりしていられない時間でしょう!」


 私の言葉に優も時計を確認して瞬間、目を見開いて驚愕を露わにします。


 いつも一緒に家を出ているのですから、私の遅刻に対する狼狽は共有されて然るべきものなのですけれど……。きっと早起きした優越感がもたらした余裕で私を嘲笑ていたのでしょう。


「ほ、本当だ! ……くっそう、馬鹿話し過ぎたんだな」


 優のその言葉を合図にしたようにお互い、味わうべき朝食を必死にお腹の中に詰め込みます。咀嚼し、飲み込んでしまいやすいベーコン、ウインナーを水で流し込み片付けて、野菜類を口に押し込むと私は空になった皿をシンクで水に浸します。私個人としては食べた食器など置き去りにして、帰宅時に片付けてもいいのですが……まぁ、ウチの家内が許さないもので。


 まぁ、それにしても。無駄に会話が弾んで遅刻しかける、という事態が起こるのは私達の間では珍しい事でないのです。それでも直らない――いえ、直そうとしないのは私個人、そういう会話に花を咲かせる事を存外、嫌っていないからかも知れません。


 一方で、優はどう思ってるんでしょうね?


 案外、きっちりした性格の優が時間にここまでルーズというのもちょっと矛盾している気もしますけど。


「あぁ、大変! 私、まだ着替えていませんね」


 私は不意に自分が寝間着姿である事に気が付きます。


「はぁ? 何やってんだよ。……早くしろって」


 呆れたように言いつつ、私を待ってくれる優。嘆息して、呆れが顔を浮かべていますが、その表情にどこか微笑みが混じっているような気もします。


 私は私室に戻り、急いで着替えると職場で着る制服をカバンに入れます。先に玄関で靴を履き、玄関の扉を開いて外で待っている優に追いつき、私も家を出ます。そして、優は扉を閉じて旋錠すると「行くか」と短く言って、長くは共通しない出勤ルートを共に歩き出しました。


 随分と慣れた優のハイヒールが地面を打ち鳴らす小気味よい音を聞きながら、緩やかな追い風が体をふわりと包む感覚に、朝を嫌悪する私も自然に微笑んでしまいます。


 ぎこちなく、せわしないですが――楽しくて仕方がない日常が、今日もスタートです。

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