優「俺だなんて選択肢は選ばせねーぜ?」
専業主婦やって、家事もそこそこにお煎餅齧りながらワイドショー……ってわけにはいかないらしい。勇曰く、前に勤めていた職場は非正規雇用のパートで、収入に関しては少々俺に劣る事となるから共働きの方がいいと言っていた。
俺は別に働きたくないと主張しているわけではないし、収入の優劣でとやかく言うつもりはない。勇に「しばらくは慣れた職場がいい」と語られて拒否する理由もないので、俺は詳細を問わずに許可した。
勇が女性の体を有していた時の事情。
境遇故の辛い過去、か。
漠然と語っていた勇の言葉を「ふーん」と聞き逃したふりをしながらも、しっかりと捕まえていた俺は「境遇故の」という部分において今のところは納得しておく事にした。俺達だからこそ、分かる痛みがあり――俺達だからこそ見せつけあっておくべき傷がある。それは分かっているから後々、腹を割って話す時がきっと来る。その時には、俺にも話すべき事があるのか、ないのか。
まぁ、そんな他人の事に気を遣えるくらい余裕をかましていられるのは無論、元々社員として勤めていた会社に復帰した事による「緊張の無さ」からだろう。ブランクなんてあるはずがない。せいぜい、数週間の病欠を経て戻ってきた程度の感覚だ。
俺の会社は欠員を補うための求人を早くも出していたため、俺はそれに応募して書類選考、現地面接を経て再就職を果たした。そういう意味では勇より仕事の開始は遅かったため、しばらくは帰宅を出迎えるお嫁さんらしさみたいなのを存分に発揮させてもらった。
しかし――。
「おう、帰ったのか。飯にすんのか? それとも風呂に入るのか? ……おっと、俺だなんて選択肢は選ばせねーぜ?」
というお決まりのセリフがあまりに雄々しかったらしく、勇曰く「萌えなかった」との事らしい。俺にとっては馴染みのない「萌えなかった」という言葉に詳細を問うと、どうやら「可愛くなかった」という意味に等しいらしく、俺は怒りに任せて勇の頬を引っ叩いた。
失礼な旦那に対して、暴力的な嫁。
うーん、何だか後者の悪人感が半端ではないな。
とはいえ、そんな回想をしつつも仕事はきちんと行わなければ。
キーボードを叩く音や、社員が電話に応対する声に、コピー機が稼働する音の混じる普遍的なオフィス風景。
さて。新人には当然、新人なりの仕事がある。複雑な業務に至るまでの積み重ねとしてあらゆる経験をしてもらう事になる、と見慣れた上司に説明されたが、俺は習うまでもなく熟知している。だが、あまりひけらかし過ぎると不自然だし、新人なりの簡単な仕事で甘えておく日々も悪くないだろう。勇はどうしているか知らないが、俺は期待の新人だなんて風に目立つつもりはない。
そんなわけで与えられたデスク上、説明された欠伸が出るような内容を淡々とこなす。
しかし、女性の体になれば当然服装はスーツにタイトスカートなのだが……窮屈に感じるのは男性だった事があるという奇妙な経歴故だろうか。
――などと関係のない事を思考していると、うっかり説明されていなかった部分まで仕事を完了させてしまったため、上司から「君は一体……」と呟かれ、言い訳に追われる始末。気を付けなければ、と自分を一応は戒める。
しかし、その程度の露見はまだマシだった。
考えてみれば、マンションを契約した時に気付くべきだったのだ。ただ、自分のものになり過ぎていて気付かない盲点をついつい発揮してしまい、俺は一気に職場での立場を危うくしかねないミスを犯す。
仕事上で使用する書類を記入している時、隣のデスクで仕事をしていた俺の元同僚にして同輩、そして現在は先輩にあたる――三浦、という男が新入りの仕事ぶりを確認しようと俺が必死でペンを走らせる書類をチラッとでも見たのだろう。それだけならば特に問題にならない。まぁ、新人にしては迷いなく書類に記入していく様は少々異質だが、手際の良い奴だと認識されればそれで済む。
しかし、三浦は細見で長身、爽やかな顔の造りに知的な印象を加えるお洒落な眼鏡をかけた青年――と、すぐに脳内でその外観を想像できるくらい、公私共に交流した人間だった。
それ故なのか――。
「あれ? 君の字――なんだか『勇』に似ているね?」
三浦の不意に掛けてきた言葉に、俺は心臓が飛び出る思いだった。飛び跳ねた心臓が喉に詰まって窒息しそうなくらいに呼吸が苦しくなり、意識が混乱で掻き乱される。
しまった。そうだ。
筆跡は――変わらない。
マンションの契約書に記入した時、疑問には思わなかったのか、と言えば――思うはずがないと答えるしかない。誰が、自分の筆跡を疑うというのだ。
まずい、まずい……まずい。
嫌な汗をかきはじめる俺。
「それに君の名前って確か、優っていうんだよね。丁度、その勇って奴が君のそのデスクで仕事をしていてね。突然、辞めちゃったんだけど……その後に入ってきた優さんが、勇と似た字を書くなんて――何だか、不思議だなぁ」
勘繰る風ではないが、明らかに疑問に思っているイントネーションで語る三浦。
面接の時、履歴書を見た人事担当はやはり過去の俺とそこまで交流がないからか気付かなかったけれど、公私共に仲良くしていた三浦は気付くのか!
それに加えて、同じ名前の奴が入って来てるんだもんなぁ。
「そ、そうですかね。その勇さんという方とあたしの字がそんなに似てるんですか?」
俺は引き攣った笑みと共に、カクカクとした動作で三浦の方を向き、問いかけた。
ちなみに俺は今回、この職場で自分の事を「あたし」と呼ぶ事にした。何だか「私」は柄じゃなかったので、俺の性格との中間点といえば「あたし」だと思った。ちょっと、丁寧さに欠けるから、社会人としてはどうかと思うが……まぁ、自分に対する呼称というのは変えづらいのだ。
ちなみに勇は俺に「自分の事は名前で呼んでくれると私、もの凄く萌えるですけれど」と欲望丸出しな事を言っていた。燃やしてやろうかな。
三浦は眼鏡をスタイリッシュに修正しつつ「似ているよ」と言って続ける。
「まず、勇には漢字を書くときにきちんと払わずに止めてしますという大雑把な癖があったからね。それに加えて、跳ねる時の角度が僕の記憶している限り勇の字に合致してるし、平仮名の『そ』は二画で書き上がる方を用いていた。社内ではその『そ』を使うのは勇のみだったからね。理由は『インテリっぽい』とか粗末なものだったけれど」
三浦は平坦で抑揚ない声でそうつらつらと説明した。
粗末な理由で悪かったな。
……っていうか、何でそんなに俺の筆跡に詳しいんだよ。
確かに三浦は社内でも有名な明晰な頭脳の持ち主。頭良い奴はそういう所もしっかり見ているのだろうか。
ちなみにこれは余談だが、あまりに他人と関わらないクールさもあってか社内の女性達からは絶大な人気を寄せられている。所謂、完璧超人タイプの人間なのである。
……最初会った時は、本当にこういう奴っているんだなって思った。
毒舌交じりの語り口調でちょっと腹の立つ奴だったけど、一緒に居て楽しかったのも事実だ。そんな三浦との関係もリセットされてるんだよなぁ……。
――などと、思って言葉を発しない俺の態度に対して、三浦は独りよがりな事を口走ってしまったと感じたのか「ごめんね」と軽く謝った。
「随分と勇とは仲が良かったものでね。あまり人付き合いを好まない僕に対しても、折角隣の席なのだから、と積極的に話し掛けてくれる気さくな奴だった。突然、彼が辞めてしまい、僕として残念だったところに君の文字を見てついつい興奮してしまったんだよ」
――と、三浦は感情をひけらかす性格ではない故か、淡々とそう言った。
ちなみに、文書作成のため、パソコンを打鍵しながらの会話である。三浦お得意のマルチタスクだ。個々の作業能率が下がって、寧ろ非効率的とされるマルチタスクだが、三浦からはそういったマイナス要素は感じられない。
正直、化け物じみている。
それにしても――。
文字を見て興奮するという奇妙な発言はさておき、三浦には随分と悪い事をしたと思う。友人達と群れる事を好まない彼にとって、俺が図った積極的なコミュニケーションは決して迷惑ではなかったと知れて安堵したが――それだけに、彼が慣れないながらも形成した人間関係が突如として霧散した事実は、彼にとってどう響いたのか?
感情を表に出さないだけに、心配である。
表に出さないなら、内に秘めているという事。
内に秘めているのならば――それは、なくならないという事。
だから、俺は言う。
「勇さんの代わりってわけではないですけど、これからはあたしが三浦さんの隣で仕事をするわけですから、よろしくお願いしますね」
俺は体が入れ替わって手にした可愛らしい外見を最大限に利用した男性悩殺必死の笑みを浮かべ、少し首を傾げて女性らしい動作を繰り出した。
どうだ、俺の研究成果だ!
――と、三浦の心を開く意図で行った俺なりの「可愛い女の子仕草」だったが、彼は黙々とキーボードを打鍵してる最中、片手間のように言った。
「――どうして僕の苗字を知っているのかな?」
キーボードが叩かれるカタカタという音がオフィス内に響く。
そんな最中にあって、俺は呼吸が止まるほどの衝撃――の後、動揺で体を硬直させ、周囲の物音など耳に入らずただ、静寂に身を置いているかのような感覚。
……そうだ、隣の席とはいえ淡々とした性格である三浦は自己紹介を行ってきておらず、俺自身も旧知の仲という感覚だったのか挨拶を忘れていた。
――まずい。
そう思うも、一つの想起で俺の胸中はぐっと楽になる。俺は偶然にも勇から「現状のような失敗談」を聞いていたのだ。名乗られていない相手の名前を言ってしまった時、どう返答すれば乗り切れるか、を――。
「な、名札に――」
「我が社に名札はないけどもね?」
三浦の事もなさげな返答。
――あぁ、そうだった。
深く追及してこなかった三浦だったが、俺が明らかに不自然な奴だと認識されたのは間違いないだろう。
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