優「誰がレクチャーするか!」

 ――少々、どころではない強引さで結婚を決めた俺達の行動は早かった。


 体に付随する呼び名で呼称する事を決めた俺達。彼の熱烈なプロポーズを受けて、俺としても断る理由がなかったというか、寧ろ望むところだったというか。


 とにかく段階としては婚約ではあるが、自分が演出した理想の男性を手放すのも勿体ないかと思い申し出を承諾してしまった。でも、後悔はなくて……寧ろ、自分の理想の異性に持ち寄られる提案としては最高ではないか。それに自分にとっての理解者と結ばれるのはこの上ない幸福だと、俺は思うのだ。


 という訳で、一緒に住むとなると家は一軒で良い事になる。唐突な婚約が成立すると、俺達は公園からその足で不動産屋へと向かった。


 出会ってから小一時間程度しか経過していないのにこんな展開。ただただ驚愕するばかりだが、起きた事件としてはあまりにも衝撃的でありながら、ひたすらな幸福が希望の光のように差し込んでいる現実は存外に悪いものではない。


 寧ろ――最高だ。


 不動産屋にて、割と近い場所に空室のあるマンションが建っているとの情報を得て、営業のスタッフと共に俺達は物件を視察に向かった。特に立地などに希望なく、スピード重視で入居したいとの意向が強かった俺達だったが、借家には当然ながら審査が伴う。収入のない、支払い能力のない人間に家は貸せないというのは至極、当然な世の中のルール。しかし、ついさっき二人とも無職になったばかりである。


 勇はそこで機転を利かせ――といっても、大した事をしたわけではなく昔の職場にまだ勤めている事にして契約書類を記入したのだ。お互いに昔の職場を今の肉体の名前で記入したため、もしも職場の方に確認を取られたらとんでもない事になる……と思ったが、勇曰くこういった書類関係は案外ずさんで、事実確認などを行う例は滅多にないらしい。


 なぜ、そんな事を勇が自信満々に言うのかは分からないが。


 そんな訳で審査待ちとなり、その間はホテルに宿泊して日々を過ごす事にした俺と勇。部屋にチェックインして、互いに仕事をこなすための持ち物しか所持していない事に気が付くと、着替え等をどうするかという疑問に行き着く。


 荷物を取りに行けばお互い、相手の家の中に入って初対面の家族と会話する事になるので、これほどのリスクは犯したくない。そんな理由から引っ越す直前までは家に帰らず、着替えに関しては何着か購入してコインランドリーで洗濯して着回す事にしたのだ。


 という訳で、俺と勇がホテルに着いたのが正午過ぎくらいだっただろうか。室内のベッドに腰を下ろしたり、寝転んだり――という事もなく外出を強いられる事となった。


 出来れば、これからの事を考えて求人なども見ておきたいという思いが俺にはあったし、何より、これから女物の服を購入するのだと考えると胸が高鳴る思いだった。


 些細な事だけれど、夢だった――と言える、悲願が達成される。


 夢が叶う瞬間というのはこんなにも胸がいっぱいで、窒息しそうなくらいの幸せではち切れそうな思いがするのかと思う。


 そうだ、俺は――今日から女性だ。


 部屋を出るとエレベーターに乗り込み、一階の受付業務を行っているエントランスへと吐き出される。そのまま受付で鍵を渡して外出の旨を伝えればいいのだが、振り向けば俺の後ろを歩いていた勇が急に何かに臆したような、不安を湛えた表情を浮かべつつ「優」と俺を呼ぶ。


 この辺り、名前に違和感を持たずに済むのはメリットだったよなぁ。

 などと思いつつ、明らかに様子のおかしい勇に対して俺は問う。


「どうしたんだよ。お腹でも痛いのか?」


 勇は下腹部辺りを両手で押さえ、緊張にも似た張りつめた空気感と共に腰を低くしているので腹痛のように思えなくなかった。


 しかし――。


「いえ。優、トイレをどうしたものかと思いまして」


 勇は苦しそうな、そして誰かに聞かれたくない意図があるのか俺の鼓膜だけを震わすだけの声量でそう言った。


「受付で聞いて来いよ。今のお前ならトイレの所在を聞く事に恥じらいなんかねーだろ」


 若干、俺の境遇にあるまじき男女差別的な発言かもしれない、と思ったが――寧ろ、俺達のような境遇だからこその発言とも言えた。


「いえ、場所ではないのです。入れ替わっているからこそ……困る事ってあるじゃないですか?」


 勇は羞恥心故か、周囲をチラチラと見回しながら言った。


「男子トイレ入るのに抵抗があるってんなら、俺も分からん話じゃねーけどな。俺もまだ入れ替わってから一回もトイレ行ってないから、その時は緊張すんだろーけど」


 と俺は言いつつ、男子トイレを使っていた時から個室の方で座って済ませていたため、きっと違和感はないのだろうなぁ、などと思っていた。


 そう思った瞬間に――ようやく気付く。


 そうだ。奇しくも男性はトイレにおいて「両方の選択肢」があるものの、女性は一択なのだ。そして――勇は男性の体になった今、混乱しているという事。そう、



 ――女性は、立って用を足す事がないのだから。



 って、俺は何をさも大事なことのように語っているのだろうか……。


 しかし勇は言葉数も少なく、恥じらいの表情と共に俺の言葉を待っている。髭面の男が下腹部――正確に言えば股間部を押さえてもじもじとしている様相はかなり不気味だ。早急に何とかしないとな。


 うん。旦那の世話が出来なくて――何が嫁だ!


「いいか、優。きっとお前さんがズボンのファスナーを下ろした時、未知との遭遇を果たす。しかし、どうとう事はない。蛇だって頭を掴んでしまえば噛まれないのだから、同じ要領でやれば手を汚さずに済むぞ!」


 男性の用の足し方を解説する金髪美女の俺。

 言葉に沢山の不可解が詰まっていて、何かもう無茶苦茶だよなぁ。


「あ、あれを触るんですか!」


 突如、素っ頓狂な声を上げて驚愕を口にする勇。


 これからチェックインするため受付で署名している人や、エレベーター待ちの人々の視線を一気に集め、そして一同が思っている事だろう。


 あれ、とは――?


 だが、明言はしない。俺はレディーなのである。レディー歴数時間の駆け出し俄かだが、心は二十数年間乙女だった。だから、そういう猥褻な単語を言葉にするのは乙女としての精神が本能的に忌避してしまうのだ。


 俺と勇は周囲の注目、そのほとぼりが冷めるまで気まずそうな表情を浮かべて時間の経過を待つ。


 あぁ、視線が痛い、痛すぎるっての。


「そりゃ、触らないでやりたきゃ座ればいいんだよ。個室でな。ただ、もしかすると今後、用を足したくても個室が満杯の時があるかもしれない。そういう時、俺はお前に困って欲しくないんだよ。だから――頼む、臆する事無く挑戦する心を失わないでくれ!」


 かなり良い台詞っぽく言ったが、所詮はトイレの話だ。


 しかし、俺の熱意のようなものはしっかりと伝わっていたのか、勇はきょとんとした表情で俺の言葉を受け止めた後に微笑み、ゆっくりと首肯すると、


「分かりましたよ。確かに勇の言う通りですね。何事からも逃げちゃいけませんし、やってみれば案外、大した事はなかったって思うのかも知れません。ですから、勇――最初の一回。それだけでいいんで一緒についてきてレクチャーして下さいよぉ!」


 勇は情けなくも甘えながら懇願する――そんな表現が正鵠を射る事になりそうな見た目と内面がまったく噛み合わない台詞を、重低音ボイスで言った。


「誰がレクチャーするか!」


 俺は思わず乙女の恥じらいと怒りを込めて、デリカシーの無い旦那の頬を引っ叩いた。

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