2章 オブジェ

 2月4日(金)


 檜助ひのすけ韶響しょうきょうは、山中さんちゅうにいた。

 二人のすぐ近くに、一夜明けてその姿をすっかり変えたものが、じっとしている。

 その姿は極彩色の箱のようだった。

 それほど大きくはない、大型の旅行用トランクくらいの直方体で、短辺の片側の面にぎょろりと丸い目が二つ付いていた。

 目だけを左右に動かし、檜助と韶響、それに周囲の廃棄物たちを見回している。

「――どうさね、、、気分は」

 その正面にどかりと座った檜助が言う。

 生まれたばかりのものは何も言わない。

「戸惑っているか。

 だが、悪かないだろう」

 韶響の声が笑っていた。

 どこからか、ぐぐ……と低い唸り声が響いた。

「お前だけだ。ここに――」

 檜助は手を広げ、他のごみを示す。

「これだけある、非情な人間どもに捨てられたものたちの中で魂を持ち、妖物に変化できたものは」

「へん……げ……」

 声は、その『箱』からだった。

 唸りが、じょじょに意味を成す言葉になってゆく。

「そうだッ」

 韶響の言い方は演技じみていた。

「お前は、ここに捨てられたものたちの代表だ。

 皆の無念を受け、恨みを晴らすべく、その姿になったんだ」

「むねん……」

 唸りに近い低い声だった。木々を無理矢理擦り合わせて発したようなぎこちなさがある。

「そう。そこの機械も、あの家具も、望んでこんな所に捨てられたんじゃない。

 お前もそうだろう。

 恩賞もなく、ただ朽ちるためにこの山で眠っていたんじゃなかろうて」

 檜助がばん、と地面を叩いた。

「こいつらをまとめ、皆の気持ちを代わりに発する役目がお前にはあるんさね」

「やくめ……」

 箱の目玉が数度、瞬く。

「お前は人に恨みがないか?

 仕返ししてやろうと思わねぇか?

 労いもなく捨てられ、風雨に晒され、誰にも知られずに果てていっていいのかッ?」

 韶響の言葉に三味線の音が重なる。

「お前は選ばれた。

 ここの物たちの中で唯一、お前だけにその『力』が与えられたんだ」

 箱の上部が蓋になっていた。

 その蓋が少し浮き上がる。

 そこからしゅるっ、と何かが疾り出た。

 細い触手のようなそれはするすると伸び、手近なところにあった小さなテレビを掴んで戻る。

 鈍い音とともにテレビが箱に貼り付いた。

 ほお、と檜助が手を叩く。

「面白い力さな」

「おれを……捨てた、人間どもに」

 韶響が檜助の前に出た。

「そうだッ。

 お前は『王』だ。

 ここの長だ。

 塵も積もれば山となり、恨み積もれば呪詛となる。

 山は重なり怪となる、のろい重なり力となる。

 聞こえぬか、この声、皆の思い、心の叫び。

 何故捨てた、何故直さぬ、何故使わぬ。

 使え使えと声を合わせ、悔しさ晴らせと荒げたぎる。

 さあて、それができるのはお前だけだ。

 お前は、選ばれたんだ。

 これを束ね、ちりつもりてなれる塵芥の主、、、、、、、、、、、、、たらんとして今こそお前の力を涌き醒ませッ!」

 音がしゃしゃん、と囃子のように韶響の言葉を盛り立てる。

 箱の『手』がまた伸びる。

 しゅるり、ごつん、と本棚だった物を寄せ、己の体に固定する。

 しゅるり、ごつん。

 しゅるり、ごつん。

 箱の『目』が、怒りの色を浮かべていた。

「ちりあくたの、ぬし――」

 韶響が更に囃し立てる。

 八の字を描いて動き回ると、音は更に強くなった。

「さあけよッ。

 おうよ、おうよと応じて立てッ。

 応じて立つは王なりや。

 さもありなん、いかにもこれは王なるぞ。

 ここに出ずるは塵塚の王。

 百の器を統べる王。

 あやしきあやかし百器徒然ひゃっきつれづれの王。

 人どもよ見よ。

 刮目して見よ。

 音にも聞け、そして悟れ。

 因果とはまさにこのこと。

 返す恩など有るべくもなし。

 返す仇こそ有るべかしらし。

 ここにあらわれたるはその報い。

 塵の塚に怪しの王。

 怒りの王をさあ受けよ。

 己の所行を省みて、我らに畏れ打ち震えよ。

 怪王の力、我らの天下ぞ」

 しゅるり、ごつん。

 しゅるり、ごつん。

 韶響の謡うような煽動で、箱は次々に周りの物を取り込んでゆく。

「ちりづか――怪王」

 もはや『箱』の本体はほとんど見えなくなっていた。

 ぎょろりとした目のある面だけが覆われず、他は家具や家電製品や様々な物に鎧われていた。

「おれが――その力」

「そう、お前が皆の意志を代弁するッ。

 恨みの想いを体現できるッ」

 その『箱』――塵塚怪王が、立ち上がった。

 集めた物が体を造り、手足となっていた。

 檜助が見上げてがらりと笑う。

「凄ぇな、おい。

 面白いことになりそうさね。

 これならあの蓮華刀も敵わぬだろうよ。

 まさに再び、儂らの自由を謳歌できる」

 高さ二メートルほどになっていた怪王はまだまだ廃棄物の取り込みを続けていた。

「うまくいった、うまくいったぞ檜助。

 これはなかなかに、よさそうじゃねぇか。

 実に面白くてならねぇ」

 韶響は立ち上がった檜助の体に巻き付いて、心底楽しそうに言った。

「さあ育て、塵塚怪王。

 不幸な器物を従えて、むくいる時は今こそ来たぞッ」


□■□■□■


 放課後になって早々に、守弘はれんげを誘った。

 やはり周囲が冷やかす。朝の翠穂みほのおかげで『れんげの誕生日』ということが朝よりさらに少し広まっていた。

 れんげの所には昼休みに誰かが買ってきたらしい香雪蘭フリージアの小さなブーケが届けられ、甘い香りを漂わせていた。

 れんげがブーケを抱えて、守弘に連れられて教室を出る時に見ると、翠穂がウインクしていた。

 守弘には「がんばって」とか「報告よろ~」などという声がかけられていた。

 尾行者も邪魔者もなく二人は学校を出る。

 守弘はバイクで登校していたが、れんげの荷物が増えていたこともあって、乗らずに押していた。

 二人、並んで歩く。

「――嬉しいものですね、何というか」

 れんげがぽつりと言った。

 守弘は微笑むれんげに見とれて上気した頬をごまかすようにコートの襟を立てる。

「その――大丈夫だった?」

「ええ。翠穂さんにまで気を遣ってもらって。こんな花まで」

 れんげは香りを楽しむようにブーケを少し振る。

「節分は?」

 守弘が寒いなと呟きながら訊く。

 バス停を過ぎ、坂道をゆっくりと下ってゆく。

 昼過ぎなのに、ぐっと冷え込んでいた。

 れんげは少し考えるように視線をブーケに落としてから、守弘を見上げた。

「昨日、旧知の者が訪ねてきました。

 それくらいですね。大きな動きは、今のところ何も」

 守弘はれんげの事を知っている。と云うよりれんげと守弘が近付くきっかけになったのが付喪神絡みの事件だったから、知ることになった。

「そっか。

 その、旧知ってもちろん付喪神――だよな。

 大丈夫なのか?」

 くすっとれんげは笑った。

「茂林も言いました。

 でも、一度変化した者が再び変化する例は聞いたことがありませんし、メルの時のように何か『古いもの』の展示などもなさそうです。彼らにあおられるものが万一現れたり、他に変化したものがいたのなら……その時は」

 と拳を握る。

「後手だと罵られるでしょうか」

「そんなことはないよ」

 守弘はすぐさま返していた。

「出てこなければどうしようもないし、毎度節分のたびに何か起こるってワケじゃないんだろう?」

「確かに――メルは、久方ぶりの変化でした」

 ゆるやかなカーブを描く道を、二人並んで歩く。

「それなら……起きてからじゃないと仕方ないだろう」

 それに、と守弘が続けるのをれんげは静かに聞いている。

「茂林があちこち行って集めてるんだろ?

 何もかもを追いかけることはできないだろうし、できる中でれんげは精一杯やってると思う。

 これ以上なんて、どうするんだ? 毎日世界中をパトロールするのか?

 そんなことできないし、それなら今のままでいいじゃないか。

 れんげはれんげの生活をしながら、何か出たら対処する、それで」

「優しいですね」

 れんげは穏やかな笑みを浮かべた。

「クラスの人もそうですけど、こんなにも人は優しいのに――」

 れんげが見つめていた花に、白いものが一片、舞い落ちた。

「――あ」

 ちらちらと、わずかに雪が降り始めていた。

「寒いはずですね。

 大丈夫ですか?」

 雪片を吸い込んでしまったか、くしゃみをしてしまった守弘をれんげは覗き込む。

「れんげだって、人――だ」

 その顔に守弘は目を奪われ、数秒後にようやくそう絞り出す。

「俺は、そう思ってる」

 れんげは目を丸くした。

「でも、私は――」

 守弘がれんげの肩を抱いた。

 駅北口のロータリーにさしかかっていた。

 雪はそれほど強く降る様子はなく、ただ細かい粒が舞う程度だが、それほどまで気温が下がっていることを実感できた。

 守弘は片手でバイクを支えてれんげを抱き寄せる。

「人だよ」

 れんげは無言だった。

 ロータリーをぐるりと回り、ショッピングモール『セレーノひなぎ』に向かう。

 守弘がバイクを駐輪場に入れ、二人で一階のカフェに入った。

「悪い。

 ちょっと待ってて」

「守弘さん?」

「すぐ戻るから」

 席を取って注文を済ますと、守弘はカフェを出て走っていった。

 水のコップを手に、れんげは守弘を目で追う。

 夕方前の中途半端な時間か、店は空いていた。

 れんげの座った周囲の席に客はいない。

「人、だなんて」

 れんげは抱いていたブーケをテーブルに置いて、鞄を開けた。

 もらったものをひとつずつ見なおしてゆく。皆の心遣いに、優しい笑みが自然とこぼれていた。

「でも。

 人、か……」

 自分の手を見て、その顔にやや憂いが浮かぶ。

「本当に何も起こらなければいいけど……」

 顔を上げたれんげの視界に、やたらと大きい袋を持って走ってくる守弘が映った。

 あのサイズでは学校に持ち込むことは難しかったのか、前日までに用意していたのだろうその袋は守弘のリュックより大きかった。


 れんげの心に芽生えていた温かいものが、れんげを包んでいた。


□■□■□■


 2月5日(土)


「れんげっ、見てこれっ!」

 そう言って朝の教室で、登校するなり翠穂がれんげに見せた携帯電話の画面では、ローカルテレビのニュースをやっていた。

 小さなテレビ画面は上空からの映像だった。

 翠穂はれんげに後ろから抱きついたまま、自分の携帯電話を前に回してれんげに見せる。

『――突如現れたこの奇妙なオブジェは、節分行事の何かでしょうか。

 鬼を模しているようにも見えます――』

 そんな女声のアナウンスが小さいスピーカーから聞こえる。

「学校来る途中からニュースで出てた。見た?」

 れんげは首を振って、画面に見入る。

 画面は上空から地上に移り、地上からもその『オブジェ』を映していた。

『えー、十メートルはあるでしょうか。

 下から見ると大きさが実感できます。

 何でしょうかね、これは――』

 カメラがぐっと寄る。

『電子レンジのようなものが見えますね。

 あっちはパソコンのプリンターでしょうか。

 不法投棄の物で作ったオブジェのようですね――』

「これは……?」

「姫山のクリーンセンターの近くみたいよ。

 放課後行ってみようか。

 あ、ケーキの後でね、もちろん」

 画面の中の『鬼』の像が動く気配はない。

「何だか凄いね。誰が作ったのか判らないけど、あそこの不法投棄って一時問題になったことがあったのに、片付いてなかったんだね」

「問題に、ですか?」

「そっか、れんげが引っ越してくる前か」

 翠穂はようやくれんげの前に座る。

「クリーンセンターの建設も反対運動とかあったんだけど、家電リサイクルが始まったあたりからかな、山の中にテレビとかエアコンとか、リサイクル料払わなきゃいけないものをそのまま捨てていく人がいてたのよ」

 困ったように首を振る。

 れんげはそれを聞きながら、真剣な眼差しでそのニュースを見ていた。

「物に思い入れするれんげはこういうの許せないかな。

 でも、その皮肉というか文句みたいな形でこんなオブジェ作るなんて、面白いね。

 雪でも積もったらキレイかもね」

 翠穂はにっと笑って言う。

 昨日の雪は積もることはなく、ただただ寒くなっただけだった。

 今日は、穏やかに晴れている。

 ニュースはやがて別の話題になり、れんげは携帯電話を翠穂に返した。

「どう、行ってみない?」

 翠穂のはただの好奇心だろう。

「そうですね」

 れんげは内心ほぞ、、を噛みつつ、頷いた。

 画面で見たそのオブジェは人の手で造ったにしては妙にまとまりがよく、妖にしては雑多すぎて新しい物ばかりに見えた。



 土曜日なので授業は昼までだった。

 授業が終わってかられんげと翠穂、それにれんげが誘った守弘の三人は早速、そのオブジェがある山へ向かった。

 れんげが急いだため、ケーキ屋へは行かずじまいになっていた。

 休み時間の間にれんげは茂林に連絡を取り、<九十九堂>を臨時休業して先行させていた。

 姫山は朝のニュースのせいか、ちょっとした騒ぎになっていた。

 その『オブジェ』を一目見ようと野次馬たちが増えていて、車で来たものも多く、警察官まで出る事態になっていた。

 れんげたち三人はその人ごみの中、山を登る。

 オブジェの全景を眺められる場所の人は特に多く、かなりざわついていた。

「近くで見ると……シュールだね」

 翠穂が感嘆の声を上げてそのオブジェを見上げた。

 それは、朝のニュースでそう表現していた、人のイメージする『鬼』の外見のような造形をしていた。

 左右対称ではないが巨大な人の形をとり、がっちりとした体格で、頭部には角のような突起が二本、天に向かってねじれて突き出ている。

 アナウンサーの目測した通り、十メートル程度の高さはありそうだ。

 構成しているパーツは、冷蔵庫やエアコンなどの家電製品が目立つ。頭部には目を模しているのか、大きさはちぐはぐだが小型のテレビが二つ並び、画面の上を何かが覆って三白眼のようになっている。

 角は、アンテナか針金を太くり合せて造っているようだ。

 何も持たずただ直立している。

 山の麓に向いて立っていて、見物人たちの正面を向く格好だ。

 翠穂の言ったとおり、不法投棄を皮肉って造った造形物なら、かなりシュールな代物だった。

 見物人たちは携帯電話やカメラをそのオブジェに向け、口々に誰の仕業かを噂しあっていた。

 人が多くてそのオブジェの正面には行けなかったれんげたちは、オブジェの左斜めで見物に加わった。

 れんげは眉をひそめてそれを見上げるが、元来ものの気配を探るのが苦手なれんげにとって、何かを感じ取ることは困難だった。

 守弘がれんげにそっと言う。

「――どう、なんだろうな」

「わかりません。が、不自然ですよね……」

 そこに、

「れんげちゃん」

 と、先にれんげたちに気付いた茂林が近寄って声をかけた。

 作務衣の上にダウンを羽織り、どこかの作業員のような風体になっている。

「ちょっと、失礼します」

 カメラ起動した携帯電話を片手にそれを見上げていた翠穂に声をかけて、れんげは少し距離をあけた。

 翠穂は頷き、茂林に気付いて会釈して、またオブジェに視線を戻す。

 護衛のように守弘がれんげの後ろに立った。

匂う、、な。

 アレの上の、奥の方から微かに気配が漂ってる。

 まだ、陰陽の流れが安定せぇへんで感じにくいけど――」

 茂林は険しい表情で言った。

「――何を見間違うことがあろうか。

 此岸しがんのぬるま湯に漬かりすぎで力萎えたか」

 そこに、低い声が割り込んだ。

 聞き覚えのある――忘れようのない声にれんげと茂林が弾かれたように振り返る。



 ずい――護法童子ごほうどうじ、つまり本物の『鬼』――が立っていた。


□■□■□■


「あのデカブツの中心におるわ。

 まったく、れんげも多少は気配が読めるようになったかと思うておったら、ちっとも変わらぬな」

 一見、悪戯好きそうなローティーンの少年の口調はしかし少年のそれではなく、低く古めかしかった。

 黒いダッフルコートを着込んだ姿はどこにでもいる小学生のようだが、

「瑞――さま……」

 れんげは腰を抜かさんばかりの掠れた声でその名を言う。

「毎度毎度驚くな。

 こういう時期でもないと来れんのだ」


 からからと乾いた笑いを浮かべている瑞は、護法童子である。

 れんげが付喪神となり、当時の檜助や韶響、その他の妖物と化した者らといた頃、それを退治に顕れた不動明王の眷属だ。

 童子、と称される通りその外見は幼い児童のようだが、明王の眷属に相応しく圧倒的な妖力を有している。

 鬼の一種だ。


「ぃやっ、気付いてはおりますが――」

 茂林が言い訳がましく言う。

 瑞の正体をやはり知っている守弘は、瑞の登場に少々退き気味になるが、

「おう小僧、久しぶりじゃな」

 と瑞に気軽に腰を叩かれた。

「瑞さまは――どうして」

「だから、暇潰しじゃ。ただの。

 ――しかしこいつ、動かんのか。面白くないのう」

 オブジェを見上げて言う。

「そんな、物騒な」

「御せんものはいかにおおきくなろうと、妖の力で造っていようと、ただの像にすぎん。

 動けば多少は余興にもなろうに、下らん。さっさと壊してしまえ」

 造形の表現が『鬼』だから気に入らないのか、瑞の口調は荒かった。

「確かに危険な気はしますが――

 やはり妖物が関係していますか……」

 反省か悔恨か、怒りか哀愁か、様々なものが混ざった複雑な気持ちを表情に出して、れんげもオブジェを見上げる。

 そこに、待ちくたびれた様子の翠穂が現れた。

「れんげ、何やって――」

 瑞と目が合う。

「知り合い?」

「え、ええ、まぁ」

 曖昧にれんげは頷く。

「そっか」

 翠穂は笑って腰を下ろし、瑞と目の高さを合わせた。

「れんげの友達で、翠穂って言うの。

 よろしくね、えっと――」

「瑞――です」

 れんげが溜息混じりに言う。

「個性的な名前だね」

 と、翠穂は強引気味に瑞と握手を交わしてから立ち上がった。

 瑞は少し目を丸くして、それから薄く笑う。

「どうする、れんげ。

 そろそろ帰ろっか――」

 翠穂がそう言った時だった。

 誰かが悲鳴を上げた。

 見物人の視線が一斉に上を向く。

『鬼』のオブジェが動いていた。

 ぎこちない動作で左腕を上げようとしている。

 ゆっくりと上がっていくその塊に、見物を続ける者と逃げ出そうとする者で周囲に軽いパニックが広がる。

「ほう」

 あくまで落ち着いた口調で瑞が呟く。

 途中で上がる勢いを増した腕はまっすぐ正面の位置まで一気に動いた。

 鈍い金属音が響く。

 次の瞬間、結合が弱かったのか、腕を構成していたものが数個散った。

 箱状のものが地上に向かって降る。

 野次馬のパニックはさらに強くなり、車道から麓に向かって人々が殺到しはじめた。

 地上にトースターや椅子などが落ちて砕ける。

 れんげたちの真上に、電子レンジを従えた小振りな冷蔵庫が落下してきた。

 守弘がれんげをかばおうとしたのを、れんげは制止する。

「翠穂さんをっ」

 独鈷杵どっこしょを残して鞄を地上に放り、れんげが跳んだ。

 電子レンジを独鈷杵で受けた瞬間にれんげはそこに絡み付いていた妖力を微かに感じ取った。

「これは――っ?」

 体を捻って、レンジを人のいなくなっていた茂みの方に弾き飛ばす。

 冷蔵庫は、瑞が無造作に拳を振ると、空中で見えない手に殴られたように数メートル先まで飛んでいった。

「れんげ……?」

 守弘にかばわれ、数歩押された翠穂が驚きとも何ともつかない表情で目を丸くしてれんげを見ていた。

 その頭に、さらに落ちてきた何かが当たった。

「翠穂さんっ!!」

 崩れ落ちそうになった翠穂を守弘が支えた。

 翠穂に当たって地面に落ちたのはアイロンだった。

 当たり方が運悪かったか、翠穂の額から血が流れだす。

 ゆっくりと、オブジェの腕が下りた。

 見物人はすっかり逃げていて、れんげたちのみが残っていた。

「――守弘さんは翠穂さんを連れて、下がっていてくださいっ」

 独鈷杵を構えなおしてれんげが言う。

「行くか、れんげ」

「無論です」

 不敵に笑う瑞に返して、れんげは茂林を呼んだ。

「茂林っ」

「はいよっ」

 人がいなくなったのを幸い、と茂林は狸に戻って、先に走るれんげを追う。

 れんげはオブジェの正面に回った。

「あなたっ!」

 声を張る。

 オブジェの頭がぎりぎりぎり、と軋んだ動きで下を向いた。

「何者ですかっ。

 ――何を理由に、ここに現れたのですかっ」

 呼びかけると同時に、足元に来た茂林に問う。

「檜助と韶響の気配はありますか?」

 そうあって欲しくない、という気持ちが滲んでいた。

 茂林は四肢を広げて毛を立てている。

「――ヤツの中にはない。

 てか、このあたりもウロウロしとったみたいやな。麓の方といい、匂いはずっとしとるんや」

「そうですか」

 れんげは応じないオブジェに、注意深く独鈷杵の先端を向ける。

 それはじっ、と鈍く光るブラウン管の目にれんげを映していた。

「……恨み、ッ」

 ぎゃん、と不快な音を立ててオブジェの『目』の下が横一文字に開いた。

 緩く湾曲している。左右が吊りあがって揶揄の笑みを浮かべているように見える。

 そこから、声が漏れた。

 無理に木を擦って搾り出したような、嗄れた音だった。

 返事だった。

「人に、恨みを抱いているのですか……」

 悪い方向に行きそうな予兆を感じてれんげの声が沈む。

 オブジェが動いた。

 今度は足だった。

 一歩踏み出――そうとして、しかしバランスを失った。

 がくっ、と姿勢が崩れ、像全体が傾く。

 枝々の折れる音が続いた。

 片膝を落とした状態で止まる。

「やめなさいっ。

 恨む気持ちもあるでしょうが、あなたは――この機械らを操っているあなたは魂を持つに至る長い時、使われていたのでしょう? そこに恩は――」

 オブジェはやはり数秒、応えない。

 れんげは奥歯を噛んでいた。

 地響きを立てて、傾いていたオブジェがもう片方の膝も落とした。

「ない、ッ」

 オブジェが声を発した。

 高さが落ちたせいで、腕の位置が下がっている。

 その左腕が動いた。

 肩が回り、肘が水平に近い角度で振られてれんげを襲う。

 れんげは辛うじて、独鈷杵で古い型のエアコンの『拳』を受け止めた。


□■□■□■


 翠穂は朦朧とした視界で、それを見ていた。

 視界は、薄く赤いフィルターがかかったようになっている――片目に血が流れ込んでいた。

 れんげとオブジェが対峙しているのとは、多少距離が開いている。

 エアコンの拳を受けたれんげが力圧され、殴り飛ばされる。

 軽く飛んだれんげは十メートルほど離れた木の幹に勢いを殺さず激突した。

 葉をすっかり落とした木がみしっ、とたわむ。

「――ぁっ!」

 れんげは嘆息をこぼして崩れ落ちる。

 それなりの高さからの落下だった。

「れんげ……っ」

 翠穂は言おうとして、声が出なかった。視覚だけは目の前の光景を捉えているが、体が言うことを聞いていなかった。

 倒れそうな体を守弘が支えていることを自覚する。

 れんげが跳ね起きた。

 常人なら無事ではいられなさそうな衝撃だったが、れんげはすぐに体勢を整え、足元にいた狸と共にまた例のオブジェと相対する。

 問いたくてもやはりまだ翠穂の声は出なかったが、ちょうど視線を落とした守弘と目が合った。

「あ――気付いてた?」

 守弘はどういうこと、と上目遣いに尋ねる翠穂の目を見て、

「あとで、れんげにでも聞いてくれ」

 と、再び戦っているれんげの方に注目を戻す。

 翠穂は視線を巡らせて周囲を確かめる。

 野次馬はなく、瑞という少年も含めた自分たちしかいない。その瑞は守弘とは対照的に泰然と、余裕綽々といった表情でれんげの戦いを眺めていた。

 翠穂にとって、夢か冗談のようだったが、額の鈍重な痛みが現実だと主張している。

 何が起こったのか思い出そうと、眉間に皺を刻む。

 痛みの中翠穂はどこか、妙に覚醒していた。

 翠穂の赤い視界の中、再度ゆっくりと振り下ろされてきたエアコンの拳を今度はかわして、れんげは左手に持っていたもので関節にあたる、接合部分を殴る。

 と同時に薙いだ右腕は、刃になっているように翠穂には見えた。

 エアコンが、オブジェから切り離された。

 重い音を立てて落ちる。

 枯葉が舞った。

 オブジェからロープのようなものがしなり、、、、腕の中に消えた。

「地道じゃな」

 翠穂のすぐ近くにいた少年が言った。

 目だけで声のしたほうを追うと、少年は欠伸までしている。

「さっさと本体へ行けばよかろうに、不器用な」

「そう思うんだったらアンタが行けよ」

 少年の声は見た目とは裏腹に低く、偉そうだった。

 その少年に守弘が反論する。

「小僧はれんげの役目を奪う気か」

 守弘に対しても尊大な口振りで、少年は笑う。

「やってもいいが、果たしてれんげが喜ぶか?」

「それは……」

 守弘はしかし、その少年の上からの物言いに文句をつける様子はない。

 翠穂は自分の知らない関係を想像するように眉を寄せるが、答えは出ない。

「解ったら見ておけ」

 少年はそれだけ言って、もう一度欠伸をこぼした。

 腕をもとの位置に戻したオブジェは、それからまた動かなくなっていた。

 れんげが荒めの息で、そのオブジェを見上げている。

 手は人のものだった。

「見間違えたのかな……

 まだ半分、夢見心地なのかも……」

 ようやく出た翠穂の声はほとんど口の中でのみ発せられた。

「れんげちゃん。

 ――コイツの気、ほとんど感じられんようになった」

 れんげの足元にいた狸が喋った。

 その狸――茂林と、その声に翠穂は覚えがあった。

 妙に覚醒した意識はすぐに記憶からそれを引き出してくる。

 翠穂は目を丸くしてれんげと茂林を見直した。

 振り返ったれんげが、翠穂を見ていた。

 目が合って、翠穂はにっと笑って見せる。

 視界は相変わらず紅い。

「――翠穂さんっ!!」

 れんげが駆け寄ってくる。

 そこで翠穂の意識は、再び沈んだ。


□■□■□■


「翠穂さん、翠穂さん――翠穂さんっ!」

 れんげの悲鳴じみた声で、翠穂は目を覚ました。

 視界はいつもの色になっている。

 れんげが拭っていた。

 血は止まったようだった。

「れんげ……」

 さっきよりしっかりとした眼差しで、翠穂はれんげと周囲を見る。

 場所は変わっていない。

 オブジェもそのままで、動いていない。

 翠穂はれんげの膝枕で横になっていて、れんげと翠穂の鞄を持った守弘と、狸のままの茂林と、瑞がいた。

「翠穂さん――その」

 れんげは涙を浮かべていた。

「なんで泣くの?」

 声はまだ掠れ気味だった。

「翠穂さんに危害が――その」

 私のせいで、と呟くように続ける。

「そっか……」

 翠穂はれんげの腕を借りて、半身を起こした。

「うん、大丈夫」

 数度頭を振って、翠穂はれんげをまっすぐに見る。

「説明してくれるよね」

 れんげは一瞬視線を落としてから、神妙な面持ちで頷いた。

「一度店に戻るか。

 アレもしばらく動かなさそうじゃしな」

 瑞が関節の骨を鳴らすように伸びをしていた。

 れんげが翠穂を支えて立ち上がる。

「歩け――ますか?」

「うん、ちょっと肩貸しといて」

 翠穂は複雑な表情を笑顔に隠した。



 まだ陽は高く、木漏れ日が冷たい空気の中でただ暖かかった。

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